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Walk with JOJO その①

前置き

ウルトラジャンプ2023年3月号から、ジョジョの奇妙な冒険第9部「The JOJOLands」の連載が始まった。これまで8回あった「ジョジョの新しい部」開始のタイミングだが、前回第8部「ジョジョリオン」が始まったのが2011年6月号だから、実に12年近く振りの出来事ということになる。
この間、ジョジョという作品を取り巻く状況は大きく変わった。2012年に連載25周年を迎えて以降のトピックは枚挙に暇がないが、状況を変えた=ファンを大きく増やし認知度を上げた出来事として欠かせないのは、作品の集大成とも言える全国各地での原画展開催、そしてTVアニメ化だろう。特にアニメ化によってファンの裾野が急速に拡大したのは間違いないのではないか。
それに伴い、SNSでのファン語りや、最近ではアニメ公式ウェブラジオの1コーナーなどでも、人がどのようにジョジョの世界に入門したのか、どうハマっていったのかを聞く機会が増えてきた。そういうところで裾野の広がりを実感している面も強い。
そこで自分も、ジョジョを知ったきっかけから作品と共に歩んできた道のりを振り返ってみようというのがこの記事の趣旨だ。
定年退職したおっさんが怪しい出版社に自費出版を持ちかけられて自伝を描いてるようなもんだと思っていただければと思う。

ジョジョとの出会い

ジョジョの奇妙な冒険の連載が始まったのは1986年の末。べく少年は当時小学4年生、娯楽といえば友達の家で遊ぶファミコン、TVアニメ、そして当時ぐんぐん売れ行きを伸ばしていた週刊少年ジャンプ。日曜朝に放送していたアニメ「キン肉マン」にはまり、どうやら漫画の「原作」というものがあるらしい、そしてそれが連載されているのが「ジャンプ」だと知れば、それを読むようになるのは当然のことだった。ただし、当時の定価が200円以下とはいえ毎週ジャンプを買えるほどの小遣いは貰えなかったため、たまにある「まとめ読みできる機会」に貪り読むというのが定番の流れだった。
機会とは?友達が買っていればそれを読ませてもらうのが近道だが、そればかりというわけにはいかない。現在ほど専門店化・グルメ化されていなかった町のラーメン屋に週末に連れていってもらったとき、それぞれのテーブル下に積まれているジャンプを。また理容室に連れていかれたとき、親がカットしている間に棚に並ぶジャンプを。バックナンバーをさかのぼって読む。当時は「キン肉マン」と「聖闘士星矢」、「ドラゴンボール」のために読んでいた感じだったと思う(余裕があれば北斗の拳や男塾なども)。
そんな中で訪れた「ジョジョ」との出会いは、連載開始のタイミングではなかった。冒頭でディオが勝手にジョナサンの机から時計を持ち出していたことが判明するエピソード(第3話)。地味なシーンながら、扉に佇みジョナサンを観察するディオと、それに驚くジョジョの構図が非常に印象的で、「もう二度とあの時計はもどらないような気がするこわれるまでッ!」というやけに劇的なモノローグも独特で一気に引き込まれた。今考えてみると、当時父親がたまにハリウッドの娯楽大作映画を観に連れて行ってくれていたこともあり、漫画では珍しく外国が舞台であることが引っ掛かったのではないかと思う。早速ジャンプの連載開始号までさかのぼり、自分の「ジャンプがあったら読んでおくリスト」にジョジョが入ったのだった。

出会いの回の扉

コミックスを買う!

そして小学5年生の冬。当時名古屋に住んでいた少年は、母親と買い物に出た大型スーパー・ジャスコ内の書店でジョジョの単行本1・2巻と出会う。あんまり友達の間では話題にのぼらないがどこか魅力的なその物語の、紫色の背表紙も特徴的なコミックスの誘惑には逆らえなかった。学習ドリルか何かを買うために渡されていた千円札を2冊の聖典と交換して、カバンに隠して持ち帰った記憶がある(当然ながら結局バレて叱られた)。家にはこれまでキン肉マンや聖闘士星矢、藤子不二雄関連のコミックスしか無かったと思うが、自分のエバーグリーン本棚に深々と紫色の背表紙が根を降ろした。コミックスを買い続ける限りは、仮にジャンプ連載を読み逃がしても話を漏らさずに済むし、反復して読める。つまり他の連載を追っているだけの作品に比べて遠慮なくのめり込むことができる。

1巻は残念ながら初版ではなかった


こうして無事ファンとなったジョジョ第1部のラスト、主人公ジョジョは宿敵ディオと相討ちとなり死亡する。当時は「悲しい」「ショック」というより、瀕死のジョジョがディオに語りかける台詞があまりにも劇的、「ああ!う…美しすぎます!」という感じで、自転車を乗り回しながら一連のシーンを暗唱していた。
余談だが、その数年後の中学1年か2年の頃、学校の放送委員会かどこかが企画したイラストコンテストがあった。ハガキ大か1周り大きい版の用紙にイラストを描き、選ばれれば掲示されるというものだ。自分はジョナサンがディオの首を抱えて息絶えているシーンを模写して提出し貼り出されたが、「うまいね」と褒めてくれてもジョジョのシーンと分かる人はほとんどいなかった。その翌年は確か第3部御一行とスタンドが勢揃いしている16巻表紙を模写して出したが、前年よりはジョジョと分かってもらえていたと思う。

イラストコンテストで模写した頁。久々に開いたらノドがやばい分解しそう

人間讃歌

1987年、第2部開始。副題はまだ「戦闘潮流」ではなく、「ジョセフジョースター その誇り高き血統」だった。ジョナサンとほぼ同じ顔なのに性格が真逆な主人公に驚き、惚れ込んだ。話もハリウッド娯楽大作のような冒険もので、この頃には個人的にジャンプで一番最初に読む漫画になっていたと思う。サンタナや究極生命体カーズのどうすりゃ勝てるんだ感、ギリギリの攻防には本当に手に汗握った。
中でも忘れられない回はこれだ。小6から静岡に転校してきていた自分は夕暮れ時、学校帰りに近所のスーパーのレジ前にある雑誌コーナーでジャンプを立ち読みしていた。その号のジョジョは、シーザーが散る話だった。ワムウに敗れてなおツェペリ魂、人間の魂を叫んだシーザーのセリフに宿る人間讃歌に打たれ、ワムウの戦士としての矜持に震え、冷酷だが慈しむような「シーザー・ツェペリここに眠る」のナレーションを読んだとき、堪らない気持ちになってぼろぼろぐじぐじとマジ泣きしてしまった。夕飯の買い物の奥様方で賑わうスーパーの店内で。大人になって読み返すと次の回、ジョジョとリサリサが悲しみに暮れる回の方が泣ける気がするが、当時は相棒キャラの壮絶な最期の描写にぶん殴られて涙していた。
第2部の最後は先にジャンプを読んでいた近所の同級生(あだ名は"ひんべえ")に「ジョジョ死んだ」とネタバレされた記憶がある。当時はネタバレにそんなに憤る気持ちは持ってなかったが今だったら罵声の一つくらいひんべえに浴びせてたかもしれない。翌週ちゃっかり生きていたジョセフのことはますます好きになった。

ジャンプ黄金期のジョジョ

第3部――当時の副題「未来への遺産」は、ちょうど中学の3年間に重なるぐらいの連載期間だった(小6の3月〜高1の4月)。当初は、これまで外国人でカタカナ名の主人公がカッコよかったのに「空条?承太郎?」という感じだったし、スタンドの概念にも日本を発つくらいまでは馴染めなかった気がする。それでも、世界を旅していく旅情、それに承太郎の「鼻の頭に血管が浮き出る」みたいな機転や「つけの領収証だぜ」のような洒落たキメ台詞にすぐに熱中した。
第3部で印象的だった・記憶に残っている話は、「悪魔」戦。ホテルのボーイが顔を削がれるシーンはジョジョで一番くらい恐怖したし、決着後にポルナレフが「つ…つかれた…」とフェイドアウトしたのが一種のギャグだと当時分からず、「スタンド攻撃が続いているのでは?!」と混乱した思い出がある。続く「節制」戦も途中まで花京院が殺られて入れ替わったんじゃないかとか心配して読み、正体判明後も「無敵」と繰り返されるスタンドにどうやって勝つのかと決着が待ち遠しかった。
そして怒涛の展開だったポルナレフの仇討ちエピソード。このへんでがっつり第3部に心を掴まれたんじゃないかと思う。ポルナレフとシルバー・チャリオッツが構えながら名乗りを上げるシーンと「吊られた男」を両断するシーンがカッコよく過ぎて模写した。先に触れたイラストコンテストのように人に見せる目的などはなかったと思うが。
模写でいうと他には承太郎とンドゥールの一騎打ちシーンも描いた。スタンドではチャリオッツと「愚者」「吊られた男」「審判」「死神13」「クリーム」「世界」なんかはデザインも好きでしょっちゅう落書きしていた。
また、この頃に「魔少年ビーティー」「バオー来訪者」「ゴージャス・アイリン」といった荒木先生の過去作を徐々に買い揃えた。ちなみに当時のジャンプ連載漫画で買い集めていたのは、「スラムダンク」「花の慶次」など。「こち亀」も50巻くらいから買っていた。サンデー・マガジン・チャンピオンなど他の少年誌は読んでいなかったが、「らんま1/2」だけ途中まで買っていた(ちょっとエロかったから…)

アイリンは1991年発行の版だった

第3部は誰もが知る通りヴァニラ戦から最終決戦にかけてがとんでもなく面白く、毎週毎週楽しみで仕方なかったが、ジャンプを読んでいるクラスメイトの間ですごく盛り上がっていたという印象は正直無い。ジョジョは第3部で人気が安定したというのは事実だと思うが、それでもクラスで自分がジョジョの話で盛り上がれたのは、剣道部の◯橋君とぐらいで、やっぱりドラゴンボールやスラムダンク、あとは幽遊白書なんかがみんなの話題の中心だった。が、それでもこの頃ジョジョが自分の中で心の漫画第1位という定位置に着いたことは間違いないと思う。

ジャンプ離れ

県立の進学校へ入学してすぐに始まった第4部。第3部と同様にというか、最初は微妙に感じた。荒木先生が折に触れ語っているような「話のスケールが小さくなった」点は別に気にならなかったが、吉良が登場するまではゴールが分からなかったことが大きかったと思う。1話目などは「えっジョジョでヤンキー漫画をやるの?」という戸惑いもあった。ザ・ワールドの面影を感じさせるクレイジー・ダイヤモンドとか虹村形兆の髪型などは面白くて模写したりもしていたが、小林玉美戦が終わったあたりで、連載を必ずリアルタイムで読むということはやめ、いわゆる単行本派へ移行した。これには大体2つの理由がある。
ひとつは、青年誌の漫画も読むようになり「少年ジャンプ」からの卒業を意識したこと。きっかけは忘れたが、スピリッツをしばらく読んでいて、「YAWARA!」とか「月下の棋士」に「江戸むらさき特急」、「東京大学物語」(これはエロいので…)を買っていた。雑誌は違うが「MASTERキートン」も読んだら頭が良くなったような気がして集めていた。当時のスピリッツは他に、松本大洋、土田世紀、山本直樹・星里もちる・窪之内英策などの漫画から吉田戦車・中崎タツヤなどのシュールギャグまで充実していて面白かったと思う。
もうひとつは単純に漫画以外への興味が拡がったこと。いわゆるJ-POPのヒット曲を追いかけるのに忙しかった。当時はビーイング系や小室ファミリーをはじめCMやドラマタイアップからのミリオンヒットがばんばん出るようになった時代で、学校帰りに市内中心部のCDショップ「すみや」と、街道沿いのレンタル屋(FOCUS→FRIDAYと写真週刊誌そのまんまの名前で変遷した店だった)に通っていた(ジャンプを読まなくなった一方で、逆にこの時期にジョジョに登場する洋楽ネタを掘った側面もある)。
そんなわけでジャンプを買うのは両親の実家へ帰省する道中の暇つぶし目的くらいで、そのタイミングだったかは忘れたが、エコーズACT3がお披露目される回、キラークイーンが登場する回あたりはジャンプを買って読んだことを覚えている。キラークイーンのデザインはやはり衝撃的だったので模写した。
もちろん単行本派になったとはいえコミックスは発売日を心待ちにしていたし、バイト禁止の高校生にも可能な範囲でこの頃発売になった関連商品は買っていた(夏休みだけこっそり短期バイトしていた)。荒木先生初の画集「JOJO6251」は自分が2番めに買った漫画家の画集だった(最初はたぶん1990年の「鳥山明 the world」)。

JOJO6251の初版に挟まれていた愛読者カードのアンケート。「超」人気というわけではなかったジョジョが、鳥山明・北条司に続いて画集になったのはすごいことではないか?

近い時期には第3部のエジプト編OVAシリーズが発売されたが、ンドゥール戦の1・2巻とダービー戦の3巻まででビデオを買う財力が追いつかなくなり、残りはレンタルで観た。既に出ていたバオーのOVAもレンタルで、サントラCDだけ購入。初のジョジョ単体ゲーム、スーパーファミコン版「ジョジョの奇妙な冒険」については本体を持っておらず、今日に至るまでプレイしたことはない。しかし、Vジャンプから発売された攻略本だけは購入して眺めていた。ヘビーゲイジによるジョジョのガレージキットの写真が掲載されており、「こんな模型(?)があるのか欲しいなあ」などと思いながら観ていた。
3巻まで出ていたCDカセットブックは、1巻をカセットで、2巻をCDで買ったはずだが確認してみたら手元に1巻のカセットが無い。処分してしまったのだろうか。

ジャンプ復帰、そして

ジョジョ第4部連載の後期に東京の私大へ進学し、上京した。上京といってもジョジョに出会ってもいない小学校低学年の頃に川崎に住んでおり、渋谷などにもよく連れて行かれたので、都会へ行く高揚などは特になかった。一人暮らしになるかと思いきや同時に父親の東京転勤が決まり、家族揃って出てきた形になったので少しがっかりした。しかし、晴れてバイト解禁されたので懐事情もよくなり、通学時に駅でジャンプを買ってジョジョの連載を追う生活が始まった。
1995年。この年世の中で大きな変化が始まっていたが、それは自分とジョジョの関係においても例外ではなかった。
インターネットが一般のものになろうとしていた。

(その②へ)


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