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土台人 3

「小糠(こぬか)雨降る御堂筋・・・」
雨を見てると、この歌詞が頭に浮かぶ。

あたしは、読みかけの本を置いた。
アップダイクの「走れうさぎ」の主人公、ハリーの逃げるばかりの人生・・・

そういや、あたしも逃げてばかり。

電話が鳴った。
出ると、「きんちゃん」こと金明恵だった。
「もしもし、なおぼん?」
「どうしたん、突然、どっか行ってしまうから・・・」
「ごめんね。あたしはどうもないんよ。受信機、ほんとうにありがとう」
「あんなもん、何すんのかなと思ってたけど」
「役に立ってるよ。BCLって楽しいね」
「そっか」
うそばっかり…
きんちゃんは、朝鮮人やから、なんかあると思ってた。
今度の失踪も、それに関係あることやろな。
「ほんで、何か用があったんやろ?あたしに」
「あのな、あたしの知り合いにイ・ジョンキルっていう在日の子がいるねんけど」
「は?ジョン?」
「イ・ジョンキル。漢字で書いたら李鐘吉(り・しょうきち)って書くのかな」
「ふんふん。で、その子がどうしたん」
あたしは、要領を得ないまま聞き返した。
「そいつが、なおぼんを探してる。逃げて」
「わからんなぁ。あたしをジョン君がなんで探すのよ」
「トデイン(土台人)やから。つまり北の工作員よ」
あたしは、凍りついた。
KBS(ラジオ韓国)からのあたし宛の手紙が破かれて社員寮の花壇に捨てられていた事実・・・
あたしの周りに工作員がうろついている。
「きんちゃん。もう遅いかもしれんで。ジョン君より先にあたしのまわりにそいつらが来てる」
「え?ほんま?」
「うん」
「とにかく逃げて。北に連れて行かれるよ」
「わかった。ありがとう、きんちゃん」
「ごめんな。あたし、もう二度となおぼんには会えへんけど、今までほんまにありがとう」
「こんな、お別れつらいけど。忘れへんからね」
「あ、切るよ。あいかたが帰ってきた。じゃ」
そこで電話が切れた。

きんちゃんは北鮮の工作員に関係してるんか。
あたしのことで、ひどい目にあわされたりせえへんかな。
しかし、逃げるて、どこへ。
母は、がんで入院中や。
父は本四架橋(当時の本州四国連絡橋の通称)の仕事で出ずっぱりやし。
叔父や、叔父に相談しよ。


「姐さん、電話してたんけ?」とジョンキルが部屋に入りしなに訊いてきた。
「ああ、蒲生さんにな」あたしはとっさに嘘をついた。
「おれな、近鉄に乗って宇治に行ってきてん」
とうとう、追い詰めよったか・・・
「横山尚子て、京都化学の研究員らしいな」
「化学工場に勤めてるはずや。そこの研究者らしいよ」
「ますます、極上のターゲットやん。うまいこといったら大手柄やで」
「そ、そやな」
なおぼんを、なんとか逃がさんと。
何か方法がないかな。
三国に船が着くまであと二週間もあらへん。
あたしは、山になった灰皿にまたタバコの吸殻を押し込んだ。
「京都化学工業の会長って、左翼やんな」
「え?」
突然そんなことを言われても。
「京都のあの私立大学の学生ばっかり採用してるねん」
その大学は、左翼系の活動家をたくさん輩出していた。
「総連(朝鮮総連)のひとも、けっこうそこの卒業生らしいで」
「ふーん。民団(韓国系)もやろ?」
「知らんけど」
「あの会社に、仲間が潜入してるかもよ」
「調べたんか?」
「まだやけど。山本と金子という人物が浮かんでんねん」
どちらも在日に多い苗字である。
ジョンキルはメモをポケットから出してきた。
「山本正一と金子達吉ってのが怪しいね」
「なんでわかんねん」
「山本は本名が朴正一(パク・ジョンイル)、金子も本名が金達吉(キム・ダルキル)。どっちも両親が北の咸興(ハムフン)出身や」
あきれたもんだった。
どこで調べたんだろう。
「金子と横山は同期で、親しいらしいで」
「そうなんや」
「山本は、総務部で横山尚子とは遠い」
「ふーん」
「金子に接近してみるわ」
「また行くんか?」
「早よせんと、間に合わん」
あわただしく、ジョンキルは出て行った。


「もしもし?おっちゃん?」
「おう。尚子か。そっちの生活は慣れたか?」
「まあね。一人暮らしも板についてきたよ」
「そら、よかった。お母さん、今日はずいぶん元気そうやった」
「ありがとう。おっちゃんが世話してくれてるんで助かる。お父ちゃんいいひんから・・・」
「気にしな。それより、なんの用や」
「おっちゃん、トデインって知ってる?」
「北朝鮮の工作員のことか?」
「やっぱり何でも知ってんねんな」
「トデインは土台人って書くねん」
一通りのトデインの説明をしてくれた。
「そのトデインがあたしの周りをうろついとんねん」
「ええーっ。尚子が狙われてんのんか?」
「たぶん朝鮮中央放送に受信報告を出したからちゃうかな。あれからポストから手紙を抜かれたり、破かれたりしてんねん」
でも、きんちゃんのことは言わなかった。

「うーん。にわかには信じがたいなぁ。しかし、ほんまやとすると、ここらでもうわさになってる、拉致ちゅうこともありうるな」
「こわいー」
「尚子」
「何?」
「お前の会社の中に、工作員が潜入してるはずや」
「うわ」
「気づくことないか?」
「金とか朴とか李とか苗字に入っているやつ。それから鈴木とか山本とか田中とかありふれた名前のヤツを注意して見とき」
「うん。何人かいる・・・」
「心配せんでも、なんかあったら警察やで」
「うん、わかった」

なおぼんピンチです!

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