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私窠子「しかし」もしくは「じごく」

「私窠子(しかし)」という見なれない単語を、本を読んでいると見つけることがある。
「私窩子」と書いている作家もいる(芥川龍之介など)。
「窠」も「窩」も「あなぐら」という意味である。
つまり「巣窟」だ。
「私が窩(あなぐら)に囲っている女子」または「私(ひそか)に~」という意味で、「私娼」のことを婉曲(えんきょく)に表現している。
今では、まったくの死語である。

当然、私も読めないし、前後からおそらく、なにか隠語のような香気を嗅ぎ取ったので、漢和辞典で調べてみたのである。
読み方は「しかし、しくゎし」だが、「じごく」とルビを振っているものものあった。
「地獄」のことらしい。
そういう意味も込められているのだった。
娼婦の世界など、彼女たちにとってはまさに「生き地獄」だろう。

『彼ら(金銭にしか頭の動かぬ賤民ども:なおぼん註)の耳はまるで石女(うまずめ)と違わない。私窠子(しかし)の青白い肉体のように、彼らの精神は子供を産むことを知らぬのだ。音楽の美しい精気がきらきらと降り注ぐ。彼らはそれを私窠子のように受取って、ただそれと戯れるのだ。でなければ、彼らが自慰の楽しい夢にうつけている間に、音楽はオナンの精子のようにただ無益に注がれるのだ。
しかし、どこかに無垢の耳でおまえ(ベートーヴェン:なおぼん註)の音楽をじっと聞いている一人の童貞者があるだろう。』
(『マルテの手記』リルケ、大山定一訳)

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