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流離

氷が溶け、遅い春を迎えた松花江(スンガリ)は、ほとんど流れていないかのようなゆっくりとした水面(みなも)を呈していました。
あたしは、ハルビン(吧爾浜)市内の北側のスンガリの港に近いところで暮らしています。
まだまだ寒いこのごろで、コウリャン粥(がゆ)で体を温めます。

親が満州開拓民に応募して、一念発起してハルビン郊外に入植したのだけれど、荒地でコウリャンすら作れず、あたしは国民学校の高等科を出たらすぐにハルビンに出稼ぎに出されたの。
スンガリは蛇行を繰り返す大河で、冬は凍り、夏は氾濫し、とんでもない暴れ川になりました。
そこかしこに、たくさんの「三日月湖」が氾濫の爪あとを残していましたよ。

あたしが、ここで暮らすうちに、女の武器を使って、つまり体を売って糊口をしのぐことを覚えたのです。もとより親元とは没交渉になってしまっていました。ハルビンに出されたのは、体(てい)のいい口減らしだったのです。
あたしは、春をひさぐことを特段、悪いことだとは思っていませんでした。
むしろ、可愛がられ、人並みの生活を手に入れるための唯一無二の手段のような気さえしていたんです。
飯店(ハンテン)の女給などをやっていると、その道は簡単に開け、日本の陸軍士官などを相手に高級娼婦の真似事みたいなことができたんですもの。

スンガリを見下ろす岸辺に、あたしの暮らすレンガ造りの建物がありました。そこは、一階がロシア風料理を出す「黒龍(ヘイロン)飯店」で、二階以上が貸間になっていました。
あたしは最上階、といっても三階だけど、その北側の部屋を家主から借りていました。
家主の王維(ワンイー)は、この建物以外にあと三軒ほど同じような建物を所有していて、スンガリのハルビン埠頭の顔役でもあったの。
そして、あたしは彼の愛人(中国語の「妻」ではなく、日本語としての「愛人」である)として、ここに住まわせてもらい、普段は「黒龍」で女給をさせてもらっていたんです。
王大人(ワンターレン。みな、彼のことをそう呼ぶ)には第三夫人までいるのですよ。
この辺の金持ちは夫人を何人も持っているのがあたりまえでした。
袁世凱(えんせいがい)なんか、十人も奥さんがいたんですもの。
王大人に言わせれば、袁世凱の九人の妻は妾(めかけ)だと言っていましたっけ。
そう言う大人は、あたしのような若い「愛人」を何人も抱えていたわ。

あたしは、王大人に囲われている身ではあっても、拘束はされていなかったのよ。
好きなときに、だれと関係しても、彼は詮索することもしなかったわ。
そういう意味で文字通りの「大人(ターレン)」であると思うの。

あたしは店でよく男から声をかけられたわ。
白系ロシア人の場合もあり、日本の軍属のときもあった。
中国人からは、ほとんど声を掛けられたことはなかったわ。
ここハルビンの中国人の格差は天地ほど違い、この店に来る者も、中国人なら大人レベルの人間であるはずだったから。
そして、日本人は、さらに貧しかったわ。たいてい中国人の地主から土地を借りて小作農として働かされていたわ。
満蒙開拓団とは、勇ましい名前だけど、じつは日本帝国の口減らしにすぎなかったのよ。
不況風が吹きまくる本土では暮らしてゆけぬ人々が増え、新天地に希望を求めてやってくるのだけど、それがとんでもない国家の欺瞞だと気づいたときには、内地の家屋敷、田畑(でんばた)を売りさばいた後のなけなしの金を手にしただけの、大勢の貧民家族が寒空に肩を寄せ合う有様でした。

あたしは、そんな家族を尻目に、自分の幸せを優先して考える女になっていきました。
横山尚子(なおこ)、二十歳の春でした。

あたしが王維さんに可愛がってもらうほかに、いつも誘ってくれるのが軍医の鯵ヶ沢(あじがさわ)大尉でした。
東北訛りで、最初、何言ってるかわかんなかったけど、とても優しくて、どうしたら妊娠しないかを懇切丁寧に教えてくれました。
国民学校しか出ていない小娘が、性教育など受けているはずもなかったから、とても新鮮だったし、早いうちから知っておいてよかったと思いました。
「尚子ちゃん、きみは、かわいいから、いろんな男の人と関係するだろうけど、先に、お口で男を逝かせてからだと、万一、中で出されても精液は薄くなっているから妊娠しにくいよ」
なんてことを言ってくれるんですもの。
「ほら、これがサックというものだよ。これをね、こうやって私のちんぼうにかぶせて・・・」
低い声で、ぼそぼそと言いつつ、自分の持ち物で実演しながら、軍医さんはそんなことまで教えてくれたわ。

その軍医さんも、もうすぐジャムス(佳木斯)に転属になるとか。
さみしくなるなぁ。

もうひとり、白系ロシア人のクリコフとかいう船員が、いつもこのハルビンにやってくると、あたしを呼ぶの。
クリコフはたぶん、三十になるか、ならないかの男で、体臭がきついの。
でも、あたし、それがたまらなく好き。
白人のアレは、それは大きくって、あたしの中に半分も入らないけど、彼はやさしくしてくれるわ。
「手でいいよ」って最後は言ってくれるんですどね。
あたしは、自分の腕ぐらいある太い棒を精一杯しごいて逝かせてあげるの。
熊のように吼えて、雨のように精液をまき散らして、彼は果てるわ。

彼はあたしのことを「カリンカ」のようだと言うの。
食べられる赤い実のなる木の花のことらしいんだけど、あたしは見たことがない。
それは白い小さな花でね、ロシアでは春の訪れを知らせる花だというわ。
「ハラショー」「ダスビダーニャ」が合言葉。
彼が教えてくれたロシア語・・・

ほかに、だれがいたっけ・・・
男は、あたしを港のように使って、去っていくのね。
それが少しさびしい。

でも、また会えるから
信じて待ってるから

ライラックの花が咲くころにね。


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