古傷 (3)
真由美からメールが来ないので、会社の昼休みに思い切ってこちらから教えられたメアドに送ってみた。
『今度の土曜日に会えないか?上条隆』
真由美はあの会社にずっと勤めていると言っていた。
お局なんて陰口をたたかれながら、勤めあげて来たのだろう。
真由美は会社では、メガネをかけた地味な存在で、男性社員からの誘いも皆無だったと記憶している。
そんな真由美とおれが接近したのは、入社二年目の忘年会だった。
真由美は、母親の影響でボウリングが得意で、会社の大会でも女子のトップを飾ったこともあった。
そんなときだけ、真由美は会社での存在感を現した。
その年の忘年会はボウリングをしてから、宴会をするという幹事のはからいだった。
おれは、レーン決めのくじを引いたら、なんと田中真由美と同じレーンになったのだ。
その時は意識をしていなかったが、彼女が点数を稼ぐうちに、輝きだしたのだ。
「あ、この子、いいな」
おれは、投球の前の真剣なまなざしにひきつけられた。
言葉を交わすうちに、二人の距離が縮まる感じがした。
ストライクを取ると、自然に真由美とハイタッチをする。
おれらのレーンは真由美のおかげで、ハイスコアをたたきだし、みんなの注目を集めた。
「お、まゆみちゃん、やるね」
「上条、まゆみちゃんの足、引っ張んなよ」
「わ、ターキー出た」
他のレーン社員も集まってくる始末。
おれは、緊張でガターを出したりしたが、真由美は悪くてもスペアで片づける。
彼女が難しいスプリットを決めたときは、ストライクの時より大きな拍手が起こった。
そのあとの忘年会で、おれは真由美の隣に席を取った。
「やっぱ、すごいな、田中さんは」
「お母さんが、教えてくれたのよ」
「へぇ、今もやってるの?」
「月に2,3回は駅前のビッグボウルに行ってる」
「どうりで」
そんな会話から、彼女が母子家庭であること、彼女が家計を助けていることなんかを聞いた。
「上条さん、お酒、強いんですね」
「まだまだ、序の口だよ」
鍋を、囲みながらそんなやりとりをし、
「どう?まゆみちゃんも、ビールお代わりは?」
「じゃ、少し」
すると、緒方課長が、
「さしつさされつかい?お似合いじゃないか。おれにも注がせろよ」
と割って入ってきたから。
「そんなんじゃないですって、課長」
「まゆみちゃんは、いい子だよぅ」
真由美の上司らしく、おれに言うのだった。
真由美もいい色になって、けっこう飲んでしまっているらしい。
ふだんはおとなしい彼女が、冗舌になった。
「家では飲むのかい?」
「お母さんがビール好きなんで、一緒に飲むことはあるわ」
「もう一杯いくかい?」
「もういいです。立てなくなっちゃう」
「送っていくよ」
「いいで…す」
そう言って赤い顔で下を向いてしまった。
近くで見ると、胸の盛り上がりがかなりあった。
縄編みのセーターを押し上げている。
すこしぽっちゃりしているからか、おれの好みだった。
化粧っけのない、少女のような頬は、二十六には見えなかった。
二次会を断って、真由美を送っていくといって仲間と別れた。
冷やかされたが、真由美を一人帰すこともできず、ほかの社員は二次会に行きたくて、都合よくおれに地味な真由美の送り届けを押し付けたのだった。
おれもまんざらではなかった。
夜道を、真由美と何を話すでもなく、歩いた。
平成二年が暮れようとしていた。
「結婚とか、考えてる?」
おれは、酔った勢いでそんなことを尋ねたと思う。
「ううん。お母さんが一人ぼっちになるから、まだ考えてないわ」
「お父さんは亡くなったの?」
「たぶん」
「たぶんって?」
「小さい頃だったから、わかんない。お母さんは、お父さんは病気で死んだって言うんだけど」
「ふうん」
なかなか複雑な事情があるらしかった。
「仏壇も位牌もないのよ」
訊いてもいないのに、真由美はそう続けた。
しばらく行って、おれはこのチャンスを逃すまいという気持ちが湧きおこった。
「なあ、まゆみちゃん」
「なんですか?」
「おれとつき合ってくれないかな。ほかにだれかいるんだったらいいんだけど」
「う~ん…どうしよう」
ほかにいるのか?おれは、訝しんで真由美の顔をうかがった。
「いいですよ」「ほんと?」「うん」
そう、無邪気に笑った真由美の眼鏡の奥の瞳を今も鮮明に思い出せる。
街灯の光を受けてきらりと光っていた。
おれたちは、急速に愛を温めていった。
年の瀬の話題の映画も、今年は二人で観られる…
そしてクリスマスをおれのマンションで祝い、初めて唇を重ね、おれは童貞を、真由美は処女を捧げ合った。
人生最高のクリスマスプレゼントだった。
もうあれから30年近く経ってしまった。
夕方、スマホを見るとメールの着信があった。
『いいよ。何時にどこで待ち合わせましょうか?田中真由美』
とあった。
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