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アンコ椿は恋の花 (6)

塚谷ふじは、銀のロザリオを手に取って切れた鎖を見ながら深いため息をついた。
その目に映っていたものは、ロザリオなんかではなく立木祐介の死んだような貌(かお)だった。
「ゆうすけ…」
恋する乙女は、その人の名を口に出した。
はっと、我に返って少女は周りを見回した。
窓の外には蘇鉄(そてつ)が風に葉を揺らしていた。昨日から風が強くなり出して、嵐が近いのかもしれなかった。
窓ガラスもカタカタといつになく耳障りな音を立てている。

「ふじ、いるの?」ふじの姉で、臨月で里帰りしている坪井ちよが階下から呼ばわる。
酪農家に嫁いだちよは、わりと豊かに暮らしていた。大島では、三原山の麓の草原地帯を利用した酪農が盛んで、島の漁民よりは良い暮らしぶりだった。
「あ、姉ちゃん」ふじが、立ち上がって着物の裾を直し、部屋から出た。もう昼近くだろう。

階段を下りていくと、姉が大きなおなかをせり出して「暑いねぇ」と額の汗を藍の手ぬぐいで拭っている。
「どっか行ってた?」と、ふじ。
「はまんかぁに」「そん体で、水、汲みよっと?」「まさか、芝さんに頼んできた」
「はまんかぁ」とは井戸のことだ。それは芝さんという屋敷の中にある。
この大島には真水の出る井戸が少ない。
「嵐がくるらしいでよ」と、姉。
「知っとる。ラジオで言うとった。おとッつぁん漁に出てまったで」
「まんだ、だいじょうぶじゃろ。ときに昼、まだだっしょ?なんか作るわ」
そう言って、大きなおなかを揺らしながら、ちよが台所に消えた。
姉妹の父は、中嶋水産所属の第二金剛丸の漁労長を拝命していた。最近はマグロはえ縄漁を主にやっている。
「母さんは?」姉が奥で尋ねる。
「婦人会」ふじが答えた。

ふじは、姉の臨月のおなかを見て、自分も妊娠することができるのだろうかとふと考えた。
もちろん、十七にもなって月のものだって幾度も経験して、そんなことを疑問に思うのがおかしいのだが、祐介のこともあって、自分のことに重ねると、不思議な気持ちになるのだった。
「祐介と夫婦(めおと)になれば…」そんな想像すらしてしまい、ほほを赤らめるふじだった。
でも祐介は東京の医者の息子であり、自分とは生きる世界が違いすぎることもふじは知っていた。
「ぜったいに反対されるし、祐介君にとって、あたしのことなんか、ただの行きずりの女にすぎないんだ」
そう思って、沈んでしまうふじだった。
ふじはあれから、髪を結っていない。
ひっつめ髪は田舎臭い感じが、急にしたのだった。
祐介のために、髪を結わないのだ。たぶん。

「姉ちゃん、義兄(にい)さんとは、どうやって知り合ったん?」
台所で包丁を使っている姉の背に、ふじが問う。
「なによ。いきなり」振り返りもせず、ちよが言う。
「元町だったっけ。知り合ったって言ってたの」「ほうよ」
大島の西海岸にある島随一の港町で、内地からの連絡船も着く。
「ミハラっていうカフェーがあるずら。あそこで修太郎(義兄)さんが草履の鼻緒を切ってしまって、困っとったのよ。あたし、そういうの見るとほっとけないから、腰ひもを裂いて鼻緒をつけかえてやったの。それがきっかけかねぇ」
「姉ちゃんらしいな」
「ふぅん。ふじ、そういうこと訊くちゅうこったぁ、ぬし、だれか好きなシト(ひと)できったっけか?」
ちよがふじを見る。
「あ、いや、そういうんじゃねぇんだけど」
「あやしなぁ。ふふふ」
ふじは、ちゃぶ台を用意しに、台所から居間に入った。

一方で、祐介も洋館のテラスに出て、波浮港に「みずすまし」のように出入りする漁船を眺めていた。
嵐が近くて、外洋が荒れそうなので天然の良港である波浮港に船を避難させるのだろう。
もう芒(すすき)が穂を出している。
夏も終わりなのだった。
「おふじ…」彼の口にも塚谷ふじの名前がのぼった。
祐介にとって、舟屋りんへの淡い恋心は、突然に、中嶋治次との激しい交接を目の当たりにして潰(つい)え去った。
だから、もっぱら彼の頭の中には、可憐なロザリオを握るふじが席巻していたのである。
祐介とても、ふじを妻にと考えることは多難であるとわかっていた。
厳格な母が「釣り合わない」と全否定するに違いなかった。
父なら、あるいは理解を示してくれるかもしれないが、保証の限りではなかった。
それでも、りんと治次の関係を思えば、自分もふじと深い体の関係を結んでもまったく不思議でないという思いもあった。
「要は、おふじがぼくをどう思うかだ」という結論に至った。
とはいえ、祐介は塚谷ふじの住まいも知らなかったし、どうやって二人だけで会うことが叶うのだろうかという根本的な問題にぶつかってしまったのである。
「祐介君、おとといから、ぼうっとしとるね」
と、先に声をかけてきたのはりんだった。
「ああ、りんさん」
「なんだか、おらにも話しかけてくれんようになった」
「そ、そんなことはないよ」
「ふふ…もしかして、おふじのことが気になってるのかな?」
図星を当てられて、祐介はつい顔に出してしまった。
「やっぱりね。おらにまかせて」
そう言うと、りんは踵を返して屋敷から出て行ってしまった。
ぼうっと、その後姿を眺めている祐介だった。
「案ずるより産むがやすし…か」祐介は独りごちた。

(つづく)

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