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アンコ椿は恋の花 (7)

舟屋りんは、あの「ロザリオ事件」とでもいうべき小さな出来事で立木祐介のことを見直していた。
「やっぱり、男の子はやるときはやるんじゃなぁ」と感心もし、それは恋情などではなく弟の成長を喜ぶ姉の姿に等しかった。
もとより、りんには中嶋治次(はるじ)という想い人がいたわけで、その意味では祐介の加わる余地は、先(せん)からなかったのである。
りんと治次は将来を約束し合っていた。

「よう、りん」「あ、先生」
診療所の前を通ったりんを梅原医師が呼び止めた。
「嵐が明日にでも来るで、治次にも知らせとけ」梅原医師は自宅の診療所に旧海軍が使っていたスーパーヘテロダイン受信機を所持しており、それで短波放送を傍受して情報をいち早く得ていたのである。
「治次は、今日、御蔵島のほうに漁に出てる」
「タイフーンは比島(フィリピン)のほうに行かずに、まっすぐ小笠原のほうへ北上するようだ」
この頃「台風」という言葉はまだなく、「大風」とか単に「嵐」もしくは外来語の「タイフーン」が使われていた。「台風」という当て字が一般化するのは、ずっとのちの昭和三十一年以降のことである。
「わかった、先生、中嶋水産に行って知らせてくる」
急を要するので、りんは塚谷ふじの家をやり過ごして、中嶋水産の事務所に向かった。
漁業無線用6㎒帯のアンテナ鉄塔が立っている木造二階建ての建物で、隣は消防団の建物と火の見櫓がある。
「おばんです」引き戸を少し開けてりんが中を覗く。
「りん、どした?治次の船はまだ帰ってきよらんど」と、専務で治次の父親の重治(しげはる)がだみ声で言う。
「あの、嵐がじきにこの大島にも来るちゅうて、梅原先生が知らせとけって」
「あい、わかった。今朝のタイフーンの位置はこっちでもつかんどる。なあ新谷さんよぅ」
新谷恭一郎は信子の父親で、中嶋水産の漁業無線基地局通信士である。気象予報も彼が一手に担っていた。
恭一郎は旧海軍の軍属で、戦前の海難事故で左足を不自由にしてしまい、徴兵は免れたが、漁業通信士をしていたことから徴用を受けた経験があった。
この波浮港も軍事拠点として海軍に接収された経緯があった。

中嶋水産では、昭和三年から始まった日本放送協会(NHK)のラジオ第二放送での気象通報を傍受して天気図を作成するのも恭一郎の仕事だった。
今も、アメリカのハリクラフター製受信機に彼はかじりついていた。

りんは、邪魔をしてはいけないと思い、事務所を後にした。
椿の木が騒がしく風に吹かれている。
波浮の港は夏でも早く日が落ちる。山が迫っているからだ。
もう薄暗くなっていた。

家路を急ぎながらりんは、塚谷ふじのことを思い出した。
「ほんに、どうやっておふじに伝えるずら?」
りんがつぶやいた。
芝さんの「はまんかぁ」の横の坂道を駆け上がって、六軒目がふじが住む二階建て三戸一の長屋だった。
こういった建物は「旅館」として使われているものが多いのが波浮の街の特徴だった。
実際、「かたの島」つまり伊豆七島以外からくる船乗りや漁師が泊っていく宿屋として営業している家もある。
川端康成の名作『伊豆の踊子』の踊子「薫」一行はこの波浮の街から出ているとあったはずだ。そういった旅芸人たちも逗留したのある。

「おふじぃ。いるぅ?」りんが玄関で呼んだ。
すると、ふじの姉のちよが大きなおなかをせり出して応じた。
「あれ、りん。どした?こんな時間に」
「ちよ姉(ね)ぇ、来とったの?ずいぶんおっきくなったねぇ。予定日はいつ?」
「来月…いや今月かな。ふじ!来んさい。りんが来てくれとうよ」
二階に向かってちよが声を張り上げた。
「へぇい」
気のない返事が返ってきた。
「なんだべ、ふじは。ま、あがって」
ちゃぶ台が出て夕飯が並べられようとしている居間にりんが通された。
「これから、ばんげ(夕飯)だよ。今日は母ちゃん、出ずっぱりで。困ったもんだ」
ちよがぼやく。
「あら、りんさん、なんね」
「あのさ、ちょっと」ここでは、なんだという雰囲気で、ふじを玄関のほうに誘うりんだった。
ちよが怪訝な顔でこっちを見ながら茄子の「おひたし」を皿に盛っている。

「ぬしは、祐介君のことどう思っとる?」
ふじが、目を丸くして「なんでぇ」という顔をする。
「祐介君は、おふじのこと、ずっと想って、おらと口もきいてくれんわ」
「そんな…」
ふじは遠くを見るような目をして、心ここにあらずという風情。
「やっぱり、ぬしも想っとったか…なら話は早いじぇ」

「でもね、でもね、りんさん」「なぁに」
「おら、やっぱり、祐介さんとは、お付き合いできね」
「なんでぇ」
「釣り合わんもん」「ほんなこと…関係ねぇべ」

「うんら、何を、こそこそと」ちよが割って入ってきた。
仕方がないのでりんが事情を話した。
恋愛については先輩のちよである。
「これからは、ふじ」「はい」
「家だとか、身分だとか、そういうことよりも、本人同士の気持ちが大切なんど」
「…」
きっぱりと、ちよが諭してくれた。

夜道、月明かりが千切れ雲で何度もさえぎられては射した。
嵐が近いので風が強いからだ。
りんは、足取りも軽やかに家に帰った。

立木祐介は、父と「並四(なみよん)」ラジオの前で気象のニュースを聴いていた。
「あなた、嵐が来るんですか」祐介の母、民子が不安そうに尋ねる。
「こんなときになぁ」と春信も妻に思案顔を見せる。
「並四」とは「普通の真空管(三極管)を四本使った」という意味で、当時の家庭用ラジオの回路形式をいう。
この昭和十年製のラジオは別荘にずっと置いてあったものを春信が掃除して居間に引き出してきたのである。
「父さん、このラジオ、東京に持って帰ろうよ」
「重いぞ」
「だって、焼け出されてからうちにラジオがないから」
「そうだな、郵便で送るか」「真空管は抜いて何かに包んで送らないと割れないかな」「ああ、そうしよう」

その夜更け、小笠原付近で操業していた第二金剛丸から中嶋水産に入電があった。
第二金剛丸の通信士、二見直助(ふたみなおすけ)より、「カジハソン ワレコウコウフノウ」と。
「専務、起きてくれ!」「ああん?」事務所の椅子で仮眠をとっていた重治を新谷恭一郎がたたき起こす。
「舵をやられたか…僚船は?近くにおらんのか?」
「たぶん単騎で操業してるはずだ」杖を突きながら恭一郎が席に戻る。
「暴風雨はどこにおる?」
「昨晩、十時の通報では中心が北緯30度、東経138度付近で、中心気圧が982ミリバールで北へ時速20キロメートルで進んでいますね」
壁の北太平洋図を重治がたどる。敗戦後、小笠原諸島およびその海域は日本の領海ではなかった。アメリカの間接統治下にあり、漁業操業も表向きは禁じられていた。
しかし、漁民はそんなことを言っていたら干上がってしまうし、戦時下でなくなった以上、米軍も小笠原島嶼部(とうしょぶ)を「軍事的」に取り締まる必要性を感じていなかった。だいたいアメリカ第七艦隊は戦後かなり縮小されて、艦艇は「モスボール化」といって予備艦隊に放り込まれ、火器などに防蝕加工されて艦内は窒素封入され気密保存となっていた。ちなみに「モスボール」とは衣類の防虫剤の商品名である。防虫保存になぞらえて関係者はそう呼んだのだった。
「東にはベヨネーズの岩礁とか明神礁とかがあるな」
「今の時間だと天測もできませんね」
「舵がぶっこわれとったら、どうにもできん。笹舟じゃ。まったく。とにかく無線だけが頼りや、密に連絡をとってくれ」
「了解ですが、米軍に通信が知られると、違法操業が露見しませんかね」
「そんなこと言うとる場合か。かまわんから。おれが何とかするから」
「わかりました」

伊豆大島は風こそやや強くなってきたが、雨はまだ来ない。波浮の港に入港している船は全く安全だった。
治次は夕方にはすでに御蔵島付近の漁から帰って来ていて、第二金剛丸のことで気をもんでいた。
この嵐のことと、占領下の小笠原海域での操業の是非で「行く、行かない」と、第二金剛丸の船長、阿比留大吾(あびるだいご)ともめたのだ。
阿比留は行かないと主張したのに、漁労部長の治次は「行け」と命じたからだ。
阿比留は、治次の国民学校の先輩に当たり、仕事仲間としては尊敬しあっていたが、つい治次が経営者の息子ということで無理を押し付けることが多かったのだ。
阿比留は先の大戦で、駆逐艦「五月雨(さみだれ)」に乗艦し、水雷部門の兵曹長を拝命していた経験もあった。
彼はパラオ付近で座礁した「五月雨」を脱出し、僚艦の駆逐艦「竹」に救われて現在があるのだった。

「父ちゃん、大丈夫かな」塚谷ふじが、姉のちよに訊く。ちよも眠れない様子だった。
母が婦人会から帰ったのが昨晩の十時を回ったころで、ずいぶん酒が入ってごきげんさんでのご帰還だった。
今は、夫のことを案じるでもなく高いびきをかいて寝ている。
「母ちゃんは長生きするわ」と、ふじが苦笑する。
風が雨戸を叩く。その振動で窓ガラスも乾いた音を立てていた。

嵐はこれからが本番だった。
(つづく)

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