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#9 ローカルの洗礼

ここ数年ほどのことですが、毎週末の朝は比較的長めの散歩をしています。
距離はその日によってまちまちなのですが、普段なかなか行かないお店、最近行かなくなってしまったお店に行き、朝食を摂ることを一つの目的とし、ついでに運動不足解消を目論んでいます。
だいたい朝の五時半頃に家を出発して七時前後に朝食を摂り、その後カフェで一服の後に九時前後に帰宅するという休日の慣例であり、この数時間は大変新鮮かつ健康的なひと時となっております。これは、精神的、肉体的に健康になるだけでなく、バイクやタクシーでの移動と異なり、徒歩で移動することにより普段見落としてしまっているお店に気づき、食事の選択肢が増えるという利点もございます。

早朝は涼しく、バイクや車も少ないので快適です

ところで、このことをベトナムの知人などに話すと大抵驚かれ、何のために歩くのか?や、運動したいならジムに行け、といった反応が返ってきます。
ある時、職場近くの行きつけのカフェの方からの頼まれごとがあったので、休日の早朝に徒歩でうかがったのですが、そのことを告げると嘘つき呼ばわりされてしまいました。
距離にするとおおよそ8km ほどで、二時間弱も歩けば到着する距離なのですが、この国においては、そんな距離を歩くことなどあり得ないことなのです。

当地においての移動は専らバイク、もしくは車となり、五分の距離でさえ歩いて移動することは稀であります。
私なども休日を除けばほとんど歩くことがありません。朝起きて出社準備のため家の中を移動し、出勤時にはバイクの駐車場まで歩き、仕事中はトイレにいく程度、そして帰宅後にまた少し家の中を移動して一日が終わります。
私が思うに、当地でよく歩く方といえば、宝くじ売りの方、靴磨きの方、果物やおつまみの行商の方ぐらいではないでしょうか。

暑い中、かぶりものをされる方もおり、行商の方も大変です

そして、歩く方がいないゆえの整備不良からなのか、はたまた技術上の問題、車道の混雑時において、いつの間にか車道となってしうまうという交通ルールの悪さからなのかはわかりませんが、当地の歩道は非常にでこぼこで、大変に歩きにくくなっております。さらに歩きにくいだけならまだいいのですが、そこには罠ともいえるような場所が存在します。

当地の歩道は大体が四角形や八角形のタイルで舗装されているのですが、これが浮いたり沈んだり剥がれたりしております。単に浮いているだけ、沈んでいるだけならまだいいのですが、そのタイルの下に水が溜まっているときなどにそれを踏んでしまうと勢いよく水というか泥が跳ね、足元はもちろんのこと、時には顔まで汚れることになります。
来越当時にこのことを知人に話したところ「それ、ベトナムの洗礼だよ」と言われ、もう少しきれいな洗礼はなものなのかと思ったものでした。

それほどでこぼこに見えないかもしれませんが、ところどころにトラップがあります

次に、もう一つの表題の単語である『ローカル』に話しをかえさせていただきます。
ベトナムはホーチミン市における友人や知人との会話、観光記事、ニュースなどで頻繁に使用される言葉に、『ローカル』という単語がございます。
例としては「今晩はローカルのお店に連れて行ってください」や「ローカルの食事が食べたい」といったように店舗や料理などを指す場合もあれば、「ローカルエリア」や、「ローカルのたたずまい」といった具合に場所や雰囲気を表す場合もございます。また、時には「ローカルの人たち」のようにベトナムの方々の総称であったりもします。

この『ローカル』という単語は、なかなか便利に使える単語ではあるものの、同時に厄介な代物でもあったりします。
たとえば飲食店の場合、本来であれば「ローカルのお店」と言われれば「ベトナム料理のお店」と理解して間違いがないはずなのでありますが、この単語には人によって解釈の幅が違っており、こちらが理解している意味とずれが生じる場合がございます。
これは『ローカル』という単語に含まれる『雰囲気』の解釈の違いにより生じるものであり、これゆえに私などはこの単語を求められた際には、特に気を遣うようにしております。

『ローカル』な雰囲気とはこのようなかんじでしょうか?

さて、それでは今回はその『ローカル』という言葉から生じた出来事を紹介させていただきます。
これは比較的最近の出来事なのですが、ある方が私を訪ねてホーチミン市に来てくださいました。
その方は仕事の関係で東南アジアの各国にも何度も足を運んおり、もちろんその中には当地ベトナムも含まれており、来越の折には必ず声をかけていただき、食事や小旅行などをご一緒させていただいておりました。
年齢は六十歳を少し超えたぐらいで、とはいえゴルフやテニスを趣味とされていることもあり矍鑠とされ、瘦身のいぶし銀という表現が似合う男性です。ここでは仮に『銀さん』という名前で話を進めさせていただきます。

その銀さんですが、定年をひかえ仕事を引退されるにあたり、引継ぎを兼ねて若手の後継者を引き連れてタイやマレーシアを廻られた後、私を訪ねてホーチミン市に来てくださったとのことでした。
そして、その際にお話しくださったのは、その後継者の方が海外経験が少なく、東南アジアの実情を肌で感じさせたいとのことで、「ベトナムローカルの洗礼を受けさせたい」とおっしゃっておりました。

そこで私も含めて三人で夕食を兼ねて、一杯飲みに行くことになったのですが、その際に銀さんからいただいたご要望は、「ドローカルのお店でクセのある料理を食べたい」といったものでした。『ローカル』ではなく『ドローカル』と指定されては、私も気合を入れて考えなければなりません。
何せこの銀さんですが、コロナ禍の時期こそは来越もままならなかったものの、おそらくは十年以上はこの地に足を運んでおり、当然ホーチミン市内の地理、食事事情にも大変に明るく、日中は私が仕事のためにお相手ができないこともあり、同行の後継者の方とお二人で各所をまわられ、「あそこの通りにあった○○の店が無くなった」だとか、「今年の雨期は雨が少ないね」などと話されます。

ホーチミン市の景色もどんどん変わっています

ですので、私がお連れしたお店が銀さんの『ドローカル』の定義にあてはまらないとあっては、この地に暮らす私の沽券にも関わります。しかし、このような場合に備えていたわけではありませんが、当時私が住んでいたアパートから比較的近くに、おそらくは地元の方しか通わないであろう、海鮮の居酒屋を私は持ち駒として持っておりました。

そのお店は首都ハノイからホーチミン市までを結ぶ、『統一鉄道』と呼ばれる列車の線路際の、三方を民家、アパートに囲まれたお寺の駐車場を利用した、夜間のみ営業をおこなう居酒屋です。お寺の脇には店舗があるものの、そのお店を経営しているご家族の家も兼ねているため店内は調理場のみで、客席はお寺の駐車場にプラスチックの椅子やテーブルを並べただけの、いかにも『ドローカル』な雰囲気のお店でした。
しかし、そんなお店にもかかわらず料理、特に焼き魚が美味しく、またそんなお店ゆえに値段は大変手頃であり、私は週末の夜によく通っておりました。

『統一鉄道』の線路。電車が通らない時間はニワトリが放し飼いにされていたりします

かくして、そのお店に銀さんとお連れの方と三名でうかがうのですが、そのたたずまいを目にされた銀さんは大満足のようであり、対してお連れの方はどうかというと、こちらもその『ローカル』な雰囲気に興奮気味のようです。
まずは第一関門クリアとなるわけですが、お次は『クセのある料理』について条件を満たす注文をしなければなりません。

実はこの『クセのある料理』の前に、銀さんからはお連れの方に「犬を食べさせたい」とのご要望がございました。
当地ベトナムは犬食文化のある国の一つではありますが、どちらかというと好まれて食べるのは北部のように思います。もちろん南部においてもその文化はありますが、若い方などはその文化を嫌い、ご年配の方を中心に好まれているように見受けられます。そして、私は長年にわたり犬を家族の一員として一緒に暮らしておりゆえ、この銀さんの第一のご要望に応えることができないという経緯がございました。

そこで、なんとか第二の要望である『クセのある料理』には応えたいと考えるのですが、このお店にはそんな料理はないように思われます。これは、銀さんも同じくそのように感じられたようで、一杯目の乾杯の後に目を皿のようにメニューを見まわしております。
いったいお連れの方に『ベトナムローカルの洗礼を受けさせたい』のか、単に意地悪をしたいのかよくわからなくなってきました。

とりあえず私は、つまみがなくてはビールも進まないだろうと気を利かせて、比較的早く提供されるであろう貝料理と、焼くのに時間のかかる焼き魚を注文します。そうこうするうちに銀さんは『ベトナムローカルの洗礼』に見合う料理を見つけたようでほくそ笑んでおります。
そして、すかさず店員さんに声をかけると、揚げ豆腐の料理を注文し、その調味料として Mắm tôm(マムトム)を指定します。

私の好物でもあるCá bò da(カーボーヤー)の焼き物。日本だとウスバハギだと思います

Mắm tôm(マムトム)とはエビを発行させた紫色の塩辛い調味料で、その味はともかく、万人受けはしないであろう強烈な匂いを発します。個人的にはカツオやマグロの酒盗のように、酒のつまみとしては最適な味だと思うのですが、その匂いと色で苦手な方が多い調味料ではあります。

さて、そのMắm tôm(マムトム)と揚げ豆腐がテーブルに並ぶと、銀さんは待ってましたとばかりに、お連れの方に食べろと詰め寄ります。
お連れの方は、やはりその匂いが受け入れがたくみえ、なかなか食べることができませんが、銀さんの圧力に負けてほんの少しだけ豆腐につけると、ついに口にします。そして予想通りの苦渋の表情を浮かべては何とか飲み込みますが、銀さんからもっとしっかりと豆腐につけろとの指令が続きます。

そうこうしてお連れの方は何個かの豆腐をビールと共に胃に流し込むのですが、どうやらその匂い、かなりの量の塩分とビールをいっきに摂取してしまったせいか、すっかり体調が悪くなってしまったようでした。とりあえず水を飲んでいただき休んでもらうのですが、その後何度かトイレに駆け込むことになってしまいます。
これには悪ノリをしていた銀さんも気まずくなってしまい、お連れの方を先に先に帰るように促します。

画面中央下の調味料がMắm tôm(マムトム)。砂糖とレモンを入れて泡が立つほどにかき混ぜると大変美味しい調味料です

お連れの方も限界を悟ってか、銀さんの提案を受け入れるのですが、なにせ、この居酒屋は『ドローカル』のご要望に応えるべく選んだお店です。
つまり辺鄙な場所にあり、大通りからこのお店までのルートはいくつかあるのですが、バイクは通れるものの、車が通ることのできるルートはおそらく一本だけという立地です。しかもこのルートがかなり大回りをしなければならないという、都会の中の秘境とも思える場所にあります。
まさか具合の悪いお連れさんを、不慣れなバイクタクシーで返すわけにもいかずに車を呼ぶのですが、なかなか捕まりません。ですので仕方なく、私は銀さんをお店に残して、お連れさんに肩を貸し、大通りまでタクシーを捕まえに行くのでありました。

道中にも一度もどしてしまったので、お連れさんに水を持たせてタクシーに乗っていただいた後にお店に戻ると、銀さんはばつが悪そうな顔をして私に詫びてきます。私の方はめんどくさいことはさせられたものの、それほど気にはしておらず、そのまま二人で宴の続きとなります。

そして、しばらく歓談の時間を過ごすのですが、急に風が吹いてきたかと思うと、突然の大雨となり、私たちは慌てて他のお客さん同様に、ビールと残ったおつまみを手に、住居兼店舗の軒先に設置されていたビニール製の雨除けの下に避難します。そして、空いているテーブルに相席させていただき、また飲みはじめるのですが、何人かのお客さんは慌ててお会計をして家路に着きます。
なぜこんな大雨の中帰宅するのか、などと訝る間もなく、私と銀さんはその理由に気がつきます。通常の雨とは異なる大雨により、足元はくるぶしぐらいの高さまで冠水してきていたのであります。

だらだらと長く降り続ける雨より、短時間で降り切ってしまう雨の方が楽です

この場所は前述のとおり、三方を民家、アパートに囲まれており、もう一辺には線路と道路を遮る壁があります。つまり、その居酒屋のあるお寺の駐車場はプールのようなものであり、ちょっと大雨が降ればあっという間に水が溜まってしまう構造となっておりました。
はじめのうちは、あいているプラスチック椅子に足を乗せて、「ベトナムっぽいね」などと興奮気味だった銀さんも、水位が上がるにつれ、水に浮かびはじめるプラスチック椅子を目にする頃には慌て出します。

私はこの雨は長引きそうだと判断して、タクシーを手配しようと努力をしていたのですが、前述のとおりの都会の中の秘境のような立地のため、またもやなかなか捕まりません。そうこうしているうちにお店に残っている客は我々だけとなり、その頃には二人とも足元はおろか全身ずぶ濡れです。
そんな我々を見かねて、お店の方が家に上げてくれ、なんとか風雨は防げたのですが、全身ずぶ濡れの我々は寒さで震える状態です。

昼間でも雨の中を歩いていると身体が冷えます

雨季とはいえ、夜でも気温は20度の後半はあるホーチミン市において、震えるような寒さになるはずはないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ご経験のある方ならわかると思いますが、全身が濡れてそのままでいると本当に寒くなるのです。
そして、この時もお店の方が我々の様子を察し、タオルを貸していただいた上に、替えのシャツまで用意してくださいました。大袈裟ではなく、この時は本当に命拾いしたといまでも感謝しております。
そして、私と銀さんは替えのシャツに着替えさせていただき、ズボンを脱いで水を絞り、さて、くつろがせていただこうとするのですが、ここで店主がどうせやることないだろうとばかりに、氷を入れたグラスとビールを数本持ってきて、一緒にやろうと誘ってきたのでありました。

その後、私と銀さんは店主のご厚意に甘えさせていただき、というか断るわけにもいかずに、なんとか冷えた身体に何本かのビールを流し込み、ようやくタクシーが捕まった深夜に帰宅する運びとなりました。
帰りのタクシーの中で銀さんは、いい経験ができた、こんな経験はなかなかできるものではないと、『ベトナムのドローカル』での経験に、タクシーの冷房に身体を震わせながら満足げでしたが、翌日以降は発熱により帰国までの数日をホテルで過ごされていました。もちろん私も風邪薬のお世話になったことはいうまでもありません。

こちらが銀さんをお連れしたお店。写真左側が住居兼店舗になっており、写真左上に見えるのが雨宿りをしたビニール製の雨除けになります

その後、詳しい事情はうかがっておりませんが、銀さんは後任の方に仕事を譲られることなく、いまでも時折ホーチミン市に顔を出されています。そして、その際には必ず、「ローカルの洗礼を受けたあの店に行こう」と私を誘い、店主へのお土産を携えては飲みに通っています。
あの大雨が銀さんにとっての洗礼だったようですが、当地における『洗礼』とは、道路の跳ね水といい、文字通り水が関係するのかもしれません。
ところで話しは変わりますが、ベトナムの方が来日された際、駅までの道のり、買い物や遊びで日本人と同じように歩くと途端に疲れてしまい、場合によっては体調を崩されてしまうのは『日本の洗礼』かもしれません。

エリアによって雰囲気が変わるホーチミン市の散歩は飽きることがありません

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