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映画『コット、はじまりの夏』~瑞々しい感性が芽吹くとき~

とても繊細で瑞々しく、詩情豊かな映画を楽しみました。
アイルランド映画『コット、はじまりの夏』です。
以下、若干のネタばれありです。

映画『コット、はじまりの夏』ポスター

アイルランドの農村に暮らす9歳の女の子、コットが主人公。内気で口数も少なく、学校でも家でも影の薄い存在で、居場所のないコット。父親は粗野でギャンブル好き、母親は子沢山のため雑事に追われて家庭の細かいことに目が行き届かない。そんな中、母親と牛のダブル出産が間近に迫ったため、コットは兄弟でただ一人家を出され、とりあえず夏休みの間、母親の親戚の家に預けられることになる。
その家では、慈愛あふれるアイリーンと、無骨ながら、子どもの心に真摯に向き合ってくれるショーンの夫婦がコットを迎え入れてくれた。
最初はぎこちない態度のコットだったが、髪を丁寧にとかしたり、お風呂で優しく体を洗ったり、じゃがいもの皮むき・ジャムづくり・水くみといった家事を共にしたりと、慈しみを込めて接してくれるアイリーンに段々懐いていく。
一方、ちょっと強面のショーンにコットは戸惑うが、ある出来事をきっかけに歩み寄り、ショーンのアイリーンとはまた少し違う心遣いによって、強い信頼関係が育くまれていく。
そして夏の終わり、すなわち「家に帰る時」がやってくる…

主にゲール語(アイルランドの第一公用語。主要登場人物では主人公の父親のみが英語を話す)で進行し、アイルランドの農村の自然や光、水、食等、日常のあれこれが美しく描写されて、物語をリリカルに彩ります。
アイルランドらしさと、普遍的な情愛や子どもの可能性とが両立していて、とても「沁みる」一本でした。

1980年代初頭という設定で、郵便やラジオが活躍するところや、大家族の雑然さとか、コミュニティの助け合いがある一方余計な口出しをする隣人とか、アイリーンとショーン夫妻の「ある秘密と、だからこその絆」とか、作品構成がなかなかに精妙です。

コルム・バレード監督は1981年ダブリン生まれ。アイルランド語と英語のバイリンガルとして育ち、子どもの視点や家族の絆などを描く短編映画やドキュメンタリーを手がけてきたそうです。原作の小説(英語の中編小説「Foster(里子)」)を自らの脚本でアイルランド語主体の映画作品として再構成し、長編劇映画監督デビューを果たしました。


役者陣について。

何といってもコット役でこれがデビュー作となったキャサリン・クリンチ。映画の撮影時には10歳だったそうで、IFTA賞(アイリッシュ映画&テレビアカデミー賞)主演女優賞を史上最年少の12歳で受賞。
失言・放言癖ならば人後に落ちないA氏に倣って言うなら「そんなに可愛いとは言わん」「そんなに利発とは言わん」役柄の少女の変化・成長をそれはそれは魅力的に繊細に演じてみせました。
家庭の温もりや生きる喜びを知って、子どもの表情が生き生きと輝いていくのを見るのは、大人にとって大きな喜びになりますね。
(何度も登場した「走る」シーンに、『北の国から』の蛍(中嶋朋子)や、『メタモルフォーゼの縁側』のうらら(芦田愛菜)を思い出しました。役柄に少し共通点があるかも!)
特にラストシーンの素晴らしいこと。
涙が自然に滲んできました。
ちなみに母親は、アイルランド音楽を日本でも一気に有名にした『ケルティック・ウーマン』の結成メンバーである、メイヴ・ニー・ウェールカハさんだとか。それも驚きでした。

アイリーン役のキャリー・クロウリーは、単なる「優しい親戚のおばさん」に留まらず、「秘密」に関わる言動が意味深長でした。複雑な役柄ですが、素直に感情移入できる演技でした。

ショーン役のアンドリュー・ベネット。すごく「美味しい」役を、実に自然に包容力豊かに演じていて、非常によかったです。
観終わって一番印象に残ったのは、夜の浜辺のシーンでの、彼のこんな台詞でした。
「沈黙は悪くない
 多くの人が沈黙の機会を逃して、沢山のものを失ってしまう」

『ハイジ』
『赤毛のアン』
『西の魔女が死んだ』
『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』
『メタモルフォーゼの縁側』

などなどの先行作品のイメージを一部想起させつつ、独自の味わいと深みのある、素敵な映画でした。

なお、本作に関して、ひとつ残念なのはタイトルです。
英題『The Quiet Girl』が何故この邦題に???


最後に、恒例の「美味しいもの」。
今回は有楽町で鑑賞したので、ランチは銀座のカフェ『凛』で。
ホットサンド、珈琲、クレームブリュレのセットです。
美味しいものは大好きながら、大食漢ではない私にとっては、ボリュームも程よく、美味しくいただきました♪

銀座のカフェ『凛』にて

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