見出し画像

避けたはずの茨の道

今自分は、実家とは遠方の大学に進学したタイミングで、1人暮らしを強いられることになって間もなく3年が経過し、4年目に突入するといった局面に置かれている。

今思えば、何故こんな茨の道を進もうとしたのか、振り返る度に後悔している。

大学生活も行き詰まっており、4年で卒業できるかも分からず、そして待ち受ける就職活動を乗り越えたところで、どうせ仕事は大学以上に激務で大変なんだろうし、転職も経験する人も居る中で、学校生活すら周りに迷惑を掛けっぱなしでろくに理想通りに過ごせない人間が、社会人になり安泰で豊かで幸せな暮らしが待っているとは到底思えない。

今に行き詰まると、未来にも絶望し、希望の光が灯ることなく、出口の分からない暗闇に包まれた洞窟に迷い込んでる感覚に陥るし、ましてや、過去の自分の努力をも否定したくもなるのだ。

出口へ辿り着けると信じて準備して洞窟まで辿り着いた冒険の道中を「来なきゃ良かった」と後悔するように。

この活動をしていなければこんなに炎上して全てを失ったりすることはなかったなとか、この人と結婚していなければもっと自分の好きなように時間を使えたなみたいな後悔をするのとも一緒か⁇

極端な話、地球に出生することがなければこれだけ大きな苦労を体感せずに済んだみたいなもので、幸せにも不幸にもなれないプラマイゼロの感覚の方がマシだと思うみたいなものだ。

過去の成功で一見手に入ったチャンスや財産も、失敗が重なれば過去の成功のせいにしたくなってしまう。

ここで成功して目標を達成するからこそ、ステップアップすると更なる厳しい現実ばかりで、挫折していくんだろ...⁇

こればかり経験してしまうとRA−YUという人間を演じている不思議な生き物はやがて、失敗も成功も、どちらも求める気がしなくなってくる。

過去の成功も、大学を卒業できなければ全て水の泡だなと感じてしまう。

大学生活で得た3年間の経験は、この人間を演じている不思議で特殊な生き物RA−YUをこのような人生観へと落とし込んでしまったのが正直なところ。

地元の大学に進学する方が受験勉強が必要で茨の道だと言われ、推薦で進学できる県外の大学を選んだ訳だが、高校まで文系なうえに高校とは比べ物にならない位スペックの高めな人材が揃った中に塗れて共に理系の科目や、未経験のプログラミングやコンピュータ等の勉学に一生懸命に勤しまなければ単位なんて簡単には貰えるほどこの大学は甘くはないし、待ってもくれやしない。

授業のスピードは大学基準で進んでいくし、夏や春休みが長期に及ぶ分前期や後期の日程がギチギチに詰め込まれるので、高校までのレベルの自分からすると階級が変わったかのようだった。

人と比べようもんなら、自分よりレベルの高い人しかほぼおらず、大学の洗礼というか、篩にかけられて授業が遅れて行くという自己嫌悪の連続だ。

興味を持ってこの学問を吸収するつもりだったのに、それすら薄れていく。

自分の中ではベストだったとしても、そもそもの復習の仕方が間違っていたり、勉強時間が足りなかったりもする。

更にそこには当たり前だが親元を離れる以上は経験のない1人暮らしも伴ってきて、衣食住を整えるだけでもかなりの負担が掛かっていた。

洗濯は週2回・風呂掃除を週1回・洗い物は毎日・買い物は2日に1回はするものとして大学4年間それを休みなく繰り返せば単純計算では

洗濯=週2回することを考えると月8回。8×12(ヶ月)で1年間で96回。
これを大学4年間繰り返すことを考えると96×4(年数)=384回。

風呂掃除=週1回することを考えると月4回。
4×12(ヶ月)で1年間で48回。
これを大学4年間で繰り返すことを考えると48×4(年数)=192回。

買い物を2日に1回することを考えると1460(4年間)÷2=730回。

洗い物なんて家で暮らす以上基本的に毎日生まれる物なので少なくとも、4年間を日数で変換した回数のまんまこなす必要がある、少なくともの時点でだ。

どっちにしても、結婚でもできない限り、人間はいずれ1人で生計を立てて1人で衣食住を確保する一人暮らしをしなければならないだろうけれど。

推薦でレベルの高めに進学できただけでも恵まれてるとか、高校での努力が実を結んだとかポジ要素はあるが、これが茨の道を避けた結果だとは思えない現実が待ち受けては襲いかかってきた。

家事などはきちんと計画を立ててこなしていけばやったことがないし楽しみだなと思ったのも束の間、暇がなくなって追われる日々の連続だった。

1人暮らしをしていく上での覚悟や自分への俯瞰が足りなかった。

たった1、2ヶ月目くらいで「一人暮らしが面倒だ」と親にメールした。

更に自分は、対人関係の不安から来る自閉症スペクトル傾向があり、大学での人間関係もろくに築けなかった。

神経気質・強迫傾向などの精神的なパンディギャップも重なり、この低迷する成績で学校へ行くモチベは段々と低まっていくばかりであった。

1人暮らしだと監視される状況下にも置かれないので、かえって自分に甘えてしまうところも多いのもデメリット。

唯一メンタルを支えているのは根底の揺るがない「卒業する」という考え。

何より留年したり卒業できなかった場合、私立なので高い学費を奨学金を貰ってまで何とか振り込んでくれている両親に1番迷惑を掛けてしまう。

両親に合わせる顔が無くなる。

ただでさえ1人暮らしをするのにも家賃や仕送りで多額の資金が発生するのに。

「誰がその学費や生活費を払ってると思ってんだ」という投げ掛けに対して、「育てるのを選んだのは親だろ⁇」という反論を正当化しようとする感謝のできない愚か者な自分も居る。

こんな子に育ったのがただただ悔しい。

知り合いの子の進路や各々の得意分野でのスペックの高さなどの話を聞く度に「うちの子はこんなんだもんなぁ」と比べることがほとんどであったと思うくらい、最低限のこともできなくて恥ずかしい。

幾ら上から目線で語られたとしても、立場的に上なのは紛れもなく両親で、学費や生活費を払ってくれているからこそ今の自分の生活が保証されて学校に通えているのが事実だ。

だからこそ、大学生活に行き詰まっている中で親との関係を最近閉ざしがちになってしまっているのだろう。

あとは、“周囲の人に大学を卒業できなかったらどう思われるのか”という重圧とも、日々向き合わなくてはならない。

知り合いにすら関係を閉ざしてしまう可能性も無きにしもあらずだ。

進路について聞かれた時に、情けなくて恥ずかしい、惨めな自分の姿を晒すのは流石にプライドが許さないし。

こういうところでも自閉症スペクトル気質の形成された悪癖が出てしまう。

こういった条件下の中で過ごす必要のある大学生活は、自分にとって避けたつもりの“茨の道”を選んでしまった。

まさしく、“入るまでの茨の道”と“入ってからの茨の道”であり、どちらの後悔を取るべきだったのかというのを問われていたのだ。

「入ってしまえば、この大学の学生になれる」「大学は楽しいぞ」「一般入試は茨の道だぞ」という先生の言葉から、推薦で大学生になれることに茨の道の要素を感じることはなく、今の自分のスペックなら大学の4年間くらいどうにでもなると過信しすぎていた。

高校で次の進路が決まって卒業するまでのあの時期は確かに自分は大いに調子に乗っていたのだ。

だが、大学の4年間は重かった。

元々のスペックが低いと学校での成績が優秀と取られても一般入試で合格できる能力が付かないし、推薦で合格しても入ってからが地獄だという、どちらの選択肢も進学において試練になる。

一般入試を受けて地元の大学に進学する選択肢らを回避して日頃の学校のテストの成績のみが問われる推薦でスペックの高い大学進学を果たせた分の代償があまりにも大きすぎた。

我に合わない。

育成で球団に指名されてプロ野球選手になれたのは名誉だが、その先にプロの壁にぶち当たってその後2~3年で直ちに戦力外となった選手と感覚が似てる、自分はこの世界ではハードルが高くて通用しないんだみたいな。

高校時代に県内の大学進学を反対した先生は、きっと学校自体の進路実績に貢献したいという想いが1番あったんだろうな、だからこそその時の自分を「勉強が好きだ」と思ってくれて、レベルの高めな大学の推薦を勧めてくれたのであって、自分にはその大学の推薦を貰う能力には適していない、「高校でする勉強だけが好きだったんだろう」とまで自己否定するようになってからが、ここでの大学生活が茨の道そのものだったと思い始めたきっかけだっただろうか。

最後に、学校で学ぶことと言えば、「授業される内容」や「スポーツや芸術・文化活動を通して特技や趣味の伸ばし方」が代表例なのに、自分は大学生活においてそれらを学んでいる感覚がなく、学んでいるのは自分への不満がどれだけ今まで多く、そしてどれだけそれを解消しようとせず、溜め続けてきたのか、そして溢れ出した露呈された不満がこれだけあるということを学んでいる感覚に過ぎないのが正直なところだ。

それも含めて学べるのが学校なんだろうけれど。

少なくとも今のままでは、別の進路を選んだ方が正解だったのかとは言い切れないけれど、この大学3年間の臥薪嘗胆が正解だったとは思えない。

いつしか正解にしたい。

正解って言えれば結果それでいい。

歳を取るごとに、段々他人の成功を観ても、その過程を幾ら知り尽くしていたとしても素直に喜べなくなってきた。

社会のレールに合っている人、人間社会に向いている人たち同士で勝手に幸福を次々と掴み取っていって煌びやかな幸せ者になっていけば良いと思う。

こうやって人の幸せを祈ったり願う方が罪悪感が生まれることはないからね。

幸せになる権利を確かに手に入れているのは間違いないのだから。

自分が社会に向いていないんじゃなくて、レールに合わないんじゃなくて、社会が自分のレールと合ってくれない。

これはとんだ言い訳だろうか。

でもこれが、ズレていようが現時点での嘘偽りのない自分自身の本心だ。

3年間で得た悔しさは、一旦この記事に置いておいて、また走り出そうと思う。

サムネURL↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?