夏目漱石「行人」考察(38)直と松本零士



夏目漱石「行人」。主人公:長野二郎を誘惑しまくる嫂(兄嫁):直。
前回に引き続き、直の誘惑をどしどし考察していこう。

前回は和歌山の「料理屋」までの話を書いた。

今回はそこから先、暴風雨で二人が元の宿に帰れなくなった以降の話。

1、宿泊もOK?


1(1)私「女」よ

和歌山の「料理屋」に二人でいる最中。暴風雨により戻れなくなったと店の下女から知らされる。
その際の反応

「姉さんどうします」
「どうしますって、妾女だからどうして好いか解らないわ。若し貴方が帰ると仰しゃれば、どんな危険があったって、妾一所に行くわ」
「行くのは構わないが、――困ったな。じゃ今夜は仕方がないから此処へ泊るとしますか」
貴方が御泊りになれば妾も泊るより外に仕方がないわ。一人でこの暗いのにとても和歌の浦まで行く訳には行かないから」
 (略)
「じゃ仕様がない泊ることに極めましょう」と今度は嫂に向った。
「ええ」
 彼女の返事は何時もの通り簡単でそうして落ち付いていた

(「兄」三十三)

直はここで連続して自分が「」だと強調している。

その上で、あくまで決断の責任は二郎に任せると。つい先ほどには上から目線で二郎をからかっていた時もあったが、ここではあくまで男である二郎に判断を委ね、自分はそれに従うと強調している。
良くも悪くも「女」であることを前面に出しているといえる。状況が緊急事態だからこそよりアピールの強さが感じられる。

ちなみに「行人」中盤以降の「女景清」の話でも、直は自分が「」だとアピールして、一郎の語る男女論にすぐさま不同意を示している。人前でだ。
これは直の得意技なのか。

「男は情慾を満足させるまでは、女よりも烈しい愛を相手に捧げるが、いったん事が成就するとその愛が段々下り坂になるに反して、女の方は関係が付くとそれからその男を益慕うようになる。これが進化論から見ても、世間の事実から見ても、実際じゃなかろうかと思うのです。それでその男もこの原則に支配されて後から女に気がなくなった結果結婚を断ったんじゃないでしょうか」
妙な御話ね。妾女だからそんなむずかしい理窟は知らないけれども、始めて伺ったわ。随分面白い事があるのね」
 嫂がこう云った時、自分は客に見せたくないような厭な表情を兄の顔に見出したので、すぐそれを胡麻化すため何か云って見ようとした。すると父が自分より早く口を開いた。

(「帰ってから」十九)

1(2)直と松本零士

話は飛ぶが、松本零士(「銀河鉄道999」「宇宙戦艦ヤマト」の原作者)のあまり有名ではないマンガに「聖凡人伝」というのがある。

全くさえない男の主人公がなぜか顔もスタイルも良い女性に毎回毎回迫られるという展開。
記憶ではある回で、どこか密室で女性と二人切りになってしまった主人公が遠慮気味に「でも俺男だよ」、すぐに女性が「あら私女よ」と返した場面がある。たぶん女性はヒロインの「早名さん」だったと思う。

直の「妾だから」の台詞にこの場面を思い出した。


1(3)あでやかと提灯と傘

 二人はこれから料理屋で周旋して呉れた宿屋まで行かなければならなかった。仕度をして玄関を下りた時、其所に輝く電灯と、車夫の提灯とが、雨の音と風の叫びに冴えて、恰も闇に狂う物凄さを照らす道具のように思われた。嫂は先ず色の眼につくあでやかな姿を黒い幌の中へ隠した。
(略)
 そのうち俥の梶棒が一軒の宿屋のような構の門口へ横付になった。
(略)
 自分達は黙って其所に突立っていた。自分は何故だか嫂に話したくなかった。彼女も澄まして絹張の傘の先を斜めに土間に突いたなりで立っていた。

(「兄」三十四)

話を「行人」戻すが、ここへ来て初めて直の服装が「あでやか」だと明かされる。
この日の外出は「兄・二十七」から描写されているので、8章目でようやく服装(の印象)が明かされたと。「信頼できない語り手」二郎らしいやり口だ。

そしてまたどこかで詳しくふれたいが、この日、直と二郎が二人で外出することは一郎の「プログラム」であり、直も前日か当日朝の時点で聞かされていたはずである。その上で「あでやか」な服にしたと。
(さらにいえば、一郎の差し金で二郎が動いていることを直は(ほぼ間違いなく)承知で、誘惑まがいを繰り返しているのだ。またふれたい)

絹張の傘」も同様。これは「二十七」でも直が持っていたと出てくるがその時は単に「傘」とだけ書かれていた。
ちなみにそれが何かわからないので「絹張の傘」で検索したら12,500円~13,750円と。時代劇で江戸の侍(浪人ではなく)が持っていそうな傘を高級にした感じだった。高価な物らしい。

そして当然だがこの時の「車夫の提灯」には、後に(物語中の3月17日)直が二郎の下宿に来た際のようには直の里方の「定紋」はついていなかったと(「塵労」四)。
(あるいはあれは直が下宿からの去り際に二郎にこの和歌山の暴風雨を思い出させようとした?)


1(4)謎の電話

 - 嫂は例の傘を次の間の衣桁に懸けて、「ここは向うが高い棟で、此方が厚い練塀らしいから風の音がそんなに聞えないけれど、先刻俥へ乗った時は大変ね。幌の上でひゅひゅいうのが気味が悪かったぐらいよ。あなた風の重みが俥の幌に乗し掛って来るのが乗ってて分ったでしょう。妾もう少しで俥が引っ繰返るかも知れないと思ったわ」と云った。
 自分は少し逆上していたので、そんな事はよく注意していられなかった。けれどもその通りを真直に答えるほどの勇気もなかった。
「ええ随分な風でしたね」と胡魔化した。

(「兄」三十四)

ここで二郎は気が動転もしくは興奮していて風を気にする様子もなかったが、直は比較的冷静だったと。少なくとも二郎はそう書いている。

次の電話の話が不審になっている。

 自分は胸が又わくわくし出した。「姐さん此処の電話も切れてるのかね」と云って、答えも待たずに風呂場に近い電話口まで行った。其処で帳面を引っ繰返しながら、号鈴をしきりに鳴らして、母と兄の泊っている和歌の浦の宿へ掛けて見た。すると不思議に向うで二言三言何か云った様な気がするので、これは有難いと思いつつ猶暴風雨の模様を聞こうとすると、又薩張通じなくなった。それから何遍もしもしと呼んでも幾何号鈴を鳴らしても、呼び甲斐も鳴らし甲斐も全く無くなったので、遂に我を折ってわが部屋へ引き戻して来た。嫂は蒲団の上に坐って茶を啜っていたが、自分の足音を聴きつつ振り返って、「電話はどうして? 通じて?」と聞いた。自分は電話に就いて今の一部始終を説明した
大方そんな事だろうと思った。到底も駄目よ今夜は。いくら掛けたって、風で電話線を吹き切っちまったんだから。あの音を聞いたって解るじゃありませんか
 風は何処からか二筋に綯れて来たのが、急に擦違になって唸るような怪しい音を立てて、又虚空遥に騰る如くに見えた。

(「兄」三十四)

この「不思議に向うで二言三言何か云った様な気がする」とはなんなのだろう。
和歌山で暴風雨に遭ったのは漱石の実体験らしいので、実際にそんなことがあったのを書いただけで深い意味はないのだろうか。

これは二郎が「実は電話通じたのに通じていないふりをした」とも考えられる。しかしそれだと「又薩張通じなくなった」が完全な虚偽となってしまう。また電話が通じるか通じないかでわざわざ嘘をつく意味もないと思われる。

そして直が落ち付いた感じで「大方そんな事だろうと思った」と、二郎の行動を読み切ったように軽い感じで語ったのもよくわからない。
二郎が一郎や綱となんとか連絡しようとしていたのに対し、直はその二人と遮断された状況を楽しみたいということだろうか。あるいは二郎がそう見せたくて書いているのか。

1(5)いま、帯を解いているアイドル

そして停電となる。

 下女が心得て立って行ったかと思うと、宅中の電燈がぱたりと消えた。黒い柱と煤けた天井でたださえ陰気な部屋が、今度は真暗になった。自分は鼻の先に坐っている嫂を嗅げば嗅がれるような気がした。
(略)
「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯を持って来るでしょうから」
 自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜に響いてくるのを暗に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった
(略)
「姉さん」
 嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りに又「姉さん」と呼んだ。
何よ
 彼女の答は何だか蒼蠅そうであった。
「居るんですか」
「居るわ貴方。人間ですもの。嘘だと思うなら此処へ来て手で障って御覧なさい
 自分は手捜りに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれ程の度胸がなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした
「姉さん何かしているんですか」と聞いた。
ええ
「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いている所です」と嫂が答えた。
 自分が暗闇で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭を点けて縁側伝いに持って来た。

(「兄」三十五)

暴風雨、宿に帰れない、停電、それも旅先の知らない宿。
これらの非日常と恐怖とがセットになった状況。

この状況下で直は見事すぎる
・「名を呼ばれてもしばらく無視」で二郎をあせらす
・「手でさわって御覧なさい」と性的な挑発
・暗闇で帯の音を聞かせ、「脱いでる?」と思わせ、かつ何してるんですと聞かれてもすぐには答えない
・「今帯を解いている(=脱ごうとしている)ところ」と教え、暗闇で再び帯の音を聞かせる

まるで暗闇になることを予期していたかのように、「声」もしくは「沈黙」と、「音」により二郎をゆさぶる。

そしてこの後、宿の下女が蠟燭を持って来るのだが、その時点で直はどういう状況だったのか、着替え終わったのか途中なのか着替えるのをやめたのか、何も書かれていない。

 自分が暗闇で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭を点けて縁側伝いに持って来た。そうしてそれを座敷の床の横にある机の上に立てた。蝋燭の焔がちらちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤けた天井は勿論、灯の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立だたせた。殊更床に掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪い程目立って蝋燭の灯の影響を受けた。自分は手拭を持って、又汗を流しに風呂へ行った。風呂は怪しげなカンテラで照らされていた。

(「兄」三十五)

暗闇の中で直は、「そろそろ下女が蝋燭なり行燈なりを持って来るでしょう」と予期しながら、あえて帯を解く音を二郎に聞かせてみせたのか。


2、一郎に報告できなくさせるため?


また詳しく述べたいが、直は二郎との外出が一郎のプログラムによるものであることをおそらく百も承知で、その上で二郎に挑発を繰り返している。

なんのために? 二郎にまともな報告を一郎にさせないために。虚偽もしくは報告できにくくするため。
それにより兄弟の不仲と、一郎の疑心暗鬼とをさらに悪化させて追い詰めるため。
いくら二郎でも、「兄さん、嫂さんはですね、停電で暗くなった時『手でさわって御覧なさい』と言って、帯を解く音を僕に聞かせて、僕が何してるんですかと聞いたら『帯を解いてるところ』と答えてましたよ。あれには僕も思わずさわろうかと思いましたよ。兄さん以上です」とは報告できまい。


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