(修正)漱石「行人」考察22 岡田が「将棋の駒」である意味
(以前の記事を修正したものです)
1、前提
大正元年(1912年)に連載開始された、夏目漱石の小説「行人」。
漱石作品の中では「こころ」や「坊っちゃん」と比べると知名度は高くないので、最初に概略を紹介する。
この小説の主な登場人物は三人。主人公で小説の語り手でもある長野二郎、その兄の長野一郎、兄嫁の直(なお)である。
兄夫婦は不仲であり、主人公の二郎は兄の一郎から「直は御前に惚れてるんじゃないか」と疑われ、さらに「直の節操を御前に試して貰いたい」とまで要求されてしまう。この三者の関係はどうなっていくのか、これが主な展開だ。
四部構成となっており、「友達」三十三章、「兄」四十四章、「帰ってから」三十八章、「塵労」五十二章から成る。手持ちの新潮文庫で全465頁である。
2、「将棋の駒」岡田
この「行人」において主人公の長野二郎と最初に出会うのが、「母の遠縁に当る男」岡田である。当初の舞台は大阪だ。
小説の冒頭
岡田はかつて東京の長野家に書生として居候しており、主人公やその兄と同じ家に居た。物語開始の五、六年前に長野家の斡旋で大阪の保険会社に就職。その約一年後、長野家に出入りしていた女性・お兼(かね)と結婚し、現在は大阪で二人暮らしをしている。
なお前述のように岡田は「行人」の主要登場人物ではなく、脇役に過ぎない。しかしこの稿ではあえて岡田に注目したい。
物語では、岡田夫妻の仲介により長野家の使用人・お貞(さだ)と、岡田の会社の後輩・佐野との縁談がほぼ成立している。その用件もあって、旅行中であった二郎は母親の指示で大阪の岡田家を訪れたのである。
そして、この岡田につけられたあだ名が「将棋の駒」である。
この「岡田は将棋の駒」が単なる冗談ではなく、「行人」という物語において一定の意味を有すると私は解釈している。
無論それは作中においてなんら明示はされていない。だがよく読めばそれに気付くことができるよう、作者・夏目漱石は書いている。そう私には見える。
これは私の個人的「感想」というよりも、「行人」において「実際に書かれていること」及び「通常書かれるべきであるのに何故か書かれていないこと」を一つ一つ読解した上での、「理屈」による解釈であると、自分自身では思っている。
以下、それを述べる。
(なお私は「行人」に限らず、夏目漱石の作品は「理屈」で読むことにより、どこまでも深く読むことが可能で、そこが魅力だと感じている。この特徴は芥川龍之介に受け継がれている。)
3、「将棋の駒」は顔のことではない
岡田に対し元々、「顔が将棋の駒みたい」と発言したのは、主人公の妹であるお重(しげ)である。
そして、ある秋の日の長野家で、お貞と佐野との縁談をめぐる二郎とお重との会話で「将棋の駒」とは単に顔の輪郭だけではないと示される。
お重はこのように述べている。岡田の「心」が「将棋の駒」であると。
そしてこの箇所から判明するもう一つの事実は、お重の岡田評について語り手である二郎においても、否定や反論はしていないことである。
これが「書かれていない事実」として示されている。
ところで、たとえ悪口であっても他者の人間性に対し、「将棋の駒」とは通常使用されない表現である。
通常使用されない表現がされているからこそ、岡田がそう呼ばれていることに意味があるものと考える。
4、二郎にぶつけられた「将棋の駒」
4(1)「坊っちゃん」と同じ描写
「行人」において岡田の顔・中身以外にも「将棋の駒」が出て来る場面が、一か所だけ存在する。
二郎の大阪旅行に兄の一郎、兄嫁の直、二郎の母(お綱)の3人が合流した後、二郎が岡田から借りた金を返す場面。
この「将棋中に兄弟喧嘩となり駒を相手の額にぶつける」については、漱石の「坊っちゃん」でも同じ場面がある。
自身の過去の作品と同じ状況をわざわざ繰り返し書いているのだ。これは作者が「読者はここに注目」と提示したとみるべきだろう。
ところが「行人」の表面上のストーリーにおいては、この将棋エピソードは特に意味を持たないまま、流されて終わる。
しかし読者としてここを簡単に通り過ぎてしまっては、あまりに勿体ない。そもそも単に性格を批判するのであれば「軽薄」とか「情愛が薄い」とかいくらでも言いようはある。それをわざわざ「将棋の駒」と評した意味や、「坊っちゃん」と同じエピソードを挿入した意味を考えたい。
なお「坊っちゃん」では坊っちゃんが兄にぶつけたのは「飛車」と駒の種類を具体的に示している。しかし「行人」ではあくまで、「将棋の駒」をぶつけたと書かれている。これもやはり「=岡田」であることの証左である。
4(2)「将棋の駒」を代入
・岡田 = 将棋の駒
これを前提として、先に引用した二郎と一郎の兄弟げんかにおける「将棋の駒」の文章に、岡田を代入する。
・二郎が何か一口云ったのを癪に、一郎はいきなり岡田を二郎の額へ打付た(ぶつけた)
ということになる。
一郎は、二郎に岡田をぶつけた、そう読めるのである。
5、岡田とお兼との結婚は、一郎による二郎への嫌がらせ?
では、一郎が二郎の額に岡田をぶつけたとは、具体的にはなにか。
・「四、五年前の岡田とお兼との結婚」
これである。
岡田とお兼との結婚は、二郎のなにか一言に立腹し癇癪を起した一郎が、二郎への嫌がらせで、実現させたのだ。
無論、そんなことを明示した描写は作中のどこにもない。
しかし、そう考えないと合理的説明がつかない描写が、複数存在する。
6、二郎はもともと、お兼に気があった
まず、二郎は元々、お兼に気があったのである。
無論これも明示はない。
お兼とおそらく数年ぶりに再会した、二郎の反応は以下のとおりである。
(なお別記事で書いているが、「行人」の語り手である長野二郎は「信頼できない語り手」であることが、数か所に渡り暗に示されている。)
ここだけを見れば「昔は特に意識してなかったが、今般再会し話をしているうちに、以前とは違い好印象をもった」と読める。
しかし、どうもそれだけではないことも示されている。
6(1)二郎の憎まれ口
上記と同じく、「友達・三」における岡田と二郎との会話
もし、以前の二郎がお兼について特に意識していなかったのであれば、このような憎まれ口を、言い出す必要などなかったのではないか。
また、「行人」の中盤以降において、二郎が自身の結婚相手・見合い相手を見つけることが出来ず完全に友人の「三沢」まかせにしていることや、妹・お重の見合い相手も見つけられないでいることが示されている。
そうであるのに、岡田が結婚した四五年前(のはず)の時点で、二郎に「相当なのを見付てやる」ことが、容易に可能とも思えない。
やはり、これはあえて二郎が強がりをみせたのだ。
他にも、引っかかる描写がある。
6(2)二郎には秘されたお兼の結婚
岡田が、お兼との結婚のために大阪から上京した四五年前、二郎はそれを知らされておらず、富士登山旅行の最中であったのである。
「自分はその時富士へ登って甲州路を歩く考えで家には居なかったが、後でその話を聞いて一寸驚いた。」(「友達」二)
ここから長野家の人間が、岡田とお兼との縁談を二郎にはあえて一切知らせなかったことがわかる。
さらには二郎が異論を挟めないように、わざわざ二郎が長期旅行に出る時を見計らって縁談をまとめ、お兼を大阪に嫁がせた。そう読み得る。
特に「行人」後半では、二郎を含めた長野家総出で、お貞と佐野との挙式の主催や準備を色々したことが、細かく書かれている(「帰ってから」三十三~三十六)。
しかしそれとは対照的に、長野家と親族であるはずの岡田と、お兼との婚姻には二郎はなんら携わっていない。それどころか知らされてすらいなかったのである。
6(3)「奪うように」お兼を連れて行った岡田
物語の前半、二郎の描写によれば「岡田からの勧誘があったため」、長野母(お綱)・一郎・直の三人が大阪旅行に来ることになった(「兄」一)。
その岡田の行動と、四五年前のお兼との結婚とを合わせて、二郎は過去を思い出す。
これも、改めてみると色々と意味が込められた表現に見えてくる。
四五年前、岡田は
「突然」上京し、
「奪うように」お兼を連れて行き、
それに二郎は「驚か」されたと。そしてこの岡田の行動は
「目覚ましい手柄」であると。
仮に知人同士の結婚を急に知らされたとして、驚くことはあっても「奪うように」とは表現しない。
ましてや凄い美人とか特殊な才能を有した女性をつかまえたわけでもないのに、「目覚ましい手柄」とも表現しない。
しかも、この表現は先に引用し、結婚当時に二郎が口走った憎まれ口とは、正反対の内容である。再度引用して対比する。
・「岡田も気の毒だ。あんなものを大阪下りまで引っ張って行くなんて。もう少し待っていれば己が相当なのを見付てやるのに」
↓
・「彼が突然上京してお兼さんを奪うように伴れて行ったのも自分を驚かした目覚ましい手柄の一つに相違なかった」
やはり前者は二郎の本音ではなく、腹に一物あるからこその憎まれ口である。
読者が頑張れば読み取れるように、漱石は正反対の内容を対比させているのだ。あえて数十頁も離れた箇所で(手持ちの新潮文庫で「岡田も気の毒だー」が11頁、「彼が突然上京してー」が94頁)。
7、「手柄」
二郎が元々お兼に気が合ったことを前提に、さらに語り手:二郎の表現を分析してみる。
お兼との結婚を、岡田の目覚ましい「手柄」だとしている。
結婚を「手柄」と表現することに、違和感を覚えないだろうか。
たとえば封建社会において家臣がなにか目覚ましい活躍をし、それによって殿様の娘を嫁にもらったという話であれば、「結婚」と「手柄」とは一応結びつく。
しかしお兼はそのような立場ではない。お兼と結婚できたことではなく、お兼を「奪うように伴れて行った」ことが「手柄」であるとしているのだ。
そして「手柄」とは殿様や主人といった、目上の人物から高い評価を受けることを意味した表現だ。
では岡田にとって目上の人間とは誰か。
長野家もしくは長野一郎である。
そして岡田は「将棋の駒」である。
長野家もしくは長野一郎の、思う通りに動く「駒」、そういうことである。
ここでもう一度主人公の妹、お重の岡田評を思い出そう。
「岡田さんは高が将棋の駒じゃありませんか」
8、まとめ
これまでの話をまとめてみる。
・以前から二郎はお兼にそこそこ気があった。
(あるいは金銭を対価とした関係も存したかもしれない)
・それを長野家の人間、長野一郎は、わかっていた。
・一郎はなにかの拍子に二郎に強い反感を覚えた。
・そこで一郎は、あえて二郎のいない隙を狙い、岡田をわざわざ大阪から呼び出して、お兼と結婚させた。
・この一郎の意向どおりに結婚したことが、「将棋の駒」岡田の「目覚ましい手柄」である。
以上の経緯を言い換えたのが、一郎から二郎への「いきなり将棋の駒を額へ打付た」である。
9、「行人」は、長野二郎の(あるいは夏目漱石の)復讐物語である
「行人」を語る上で、重要かつ、正解がわからない描写がある。
ここで「取り返す事も償う事も出来ない」とは一体なにが生じたのか、「行人」にはなにも書かれていない。
かつこの場面において、確かに二郎は一郎に対し多少不遜な態度を取ってはいるのだが、少なくとも「取り返す事も償う事も出来ない」ような強烈な言動はしていないのである。
ただ、この記載から判明することは、以下の二つ。
・後日、一郎に関してなにか「取り返す事も償う事も出来ない」事態が生じた
・その事態が生じた責任は二郎にある。少なくとも二郎は自分に責任があると述べている
「行人」という物語の一つの軸は、一郎が妻(直)との不仲に精神を病み、直と二郎とが恋愛関係にあるのではと疑い続け、二郎が困惑するとの筋である。
しかしこの一郎の精神的負担は、実は二郎があえて狙って、直と自分との関係を疑うよう一郎を追い詰めたものではないだろうか。
少なくとも「行人」の文章上、二郎は直と関係は持っていない。一郎が一方的な被害妄想で不貞関係を疑い精神を病んだのであれば、二郎がそれほど責任を感じる必要はない。
しかし二郎は「深く懺悔」したいのだ。
これは二郎があえて意図的に、一郎が精神を病むよう仕向けたので、その責任を感じているからではないだろうか。私はそう解釈する。そのことがわかるよう、漱石は二郎に「深く懺悔したい」と書かせたのだ。
二郎がそれをしたのは、かつて一郎から「将棋の駒」をいきなりぶつけられた事への、復讐である。
つまり「行人」とは、弟・長野「二郎」による、兄・長野「一郎」に対する復讐物語である。
以上が「理屈」による私の解釈、「行人」において実際に書かれていること及び何故か書かれていないことを鑑みた、私の解釈である。
最後に、「理屈」ではなく、完全な「推測」を述べる。
漱石作品には兄弟間が不仲なものがよくある。引用した「坊っちゃん」や「門」の主人公とその弟、この「行人」、さらには「こころ」においては「私」とその兄や、「K」とその兄も不仲である。
ここで作者:夏目漱石の経歴にふれる。
漱石こと本名:夏目金之助は、両親が年老いてからの末っ子(五男)であり、生まれてすぐに塩原家に養子に出された。
その後養父母が離婚トラブルになり、9歳頃に夏目家に引っ越す。しかしさらに養父と実父がトラブルになり、引っ越し後も戸籍を変更できず、氏名は20歳頃まで「塩原金之助」のままであった。結果的には夏目家が「金之助(漱石)の養育費分」名目で金銭を塩原に支払うことにより、正式に養子縁組解消・夏目の戸籍に復籍が実現した。新宿区立「漱石山房記念館」には小学生時代の「塩原金之助」宛の表彰状が飾られている。
生家であるとはいえ記憶も知り合いもいない家の中に、9歳時にいきなり移ったのだ。しかも少し前まで「父」であった塩原と、実の父親とは紛争になっている。少年時代の漱石こと「塩原金之助」が夏目家において、その姓も含めて「よそ者・いらない子」さらには「家を煩わせるトラブルの関係者」扱いをされたであろうことは、想像に難くない。
こういった漱石の背景、そして「行人」の登場人物名を「二郎」「一郎」という、あまりに直接的な兄弟順による名前にしたという事実。
これらの事実に鑑みると、漱石が書きたかったのは「弟が兄に復讐する話」なのかもしれない。
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