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夏目漱石「行人」考察(43)長野父の名は「一郎」



大正元年(1912年)連載開始の夏目漱石「行人」

主人公:長野二郎の父親は、何故か下の名が示されない。
これについて考察していきたい。

1、「平吉」ですら名前がある


父以外の長野家の人間は全員名前がある、綱・一郎・直・二郎・重・芳江。下女も貞である。芳江以外は名に意味がありそうな漢字である。

ついでに言えば一度だけ、しかもいきなり登場する下男らしき人物ですら名が明かされている。

「お重御前は論理学でいうコントラジクション・イン・タームス、という事を知らないだろう」
「可くってよ。そんな高慢ちきな英語なんか使って、他が知らないと思って」
「もう二人とも止しにお為よ。何だね面白くもない、十五六の子供じゃあるまいし」
 母はとうとう二人を窘なめた。自分もそれを好い機にすぐ舌戦を切り上げた。お重も団扇を縁側へ投げ出して大人しく食卓に着いた。
 局面が一転した後なので、秘密らしい秘密は、食事中遂にお重の口から洩れる機会がなかった。母も嫂もまるでそれには取り合う気色も見せなかった。平吉という男が裏から出て来て、庭に水を打った。「まだそう燥いていないんだから、好い加減にしてお置き」と母が云っていた。

(「塵労」二十六)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

平吉」の出番はこれ限りである。

ちなみに気になって調べたが、どうも「道草」の主人公:健三の元養父(島田)の下の名が「平吉」っぽい。
養親と実親間の談判書らしき書面

「その縁故で貴夫はあの人の所へ養子に遣られたのね。此所にそう書いてありますよ」
 健三は因果な自分を自分で憐れんだ。平気な細君はその続きを読み出した。
「右健三三歳のみぎり養子に差遣し置候処平吉儀妻常と不和を生じ、遂に離別と相成候につき当時八歳の健三を当方へ引き取り今日まで十四カ年間養育致し、――あとは真赤でごちゃごちゃして読めないわね」

(「道草」三十二)

妻常」とあるのは島田の妻・お常である。島田とは離婚している。
なお「行人」が大正元年(1912年)の連載開始、「道草」が大正4年(1915年)の連載開始である。なので道草を参考に行人の平吉を考えるのは難しそうだ。

(まさか庭に水を打ってた「平吉」が変装した長野父? 引用の「塵労・二十六」の場面で長野父は築地に外出中である)

2、長野父の立場


私の勝手な推測では、長野父は他家から婿養子として長野家に来た者である。家庭内の権力も財産も綱(長野母)のほうが保持している。

ちなみに名前のない長野父の呼ばれ方は下記のとおりである。

・地の文(二郎記載) 「父」
・父がいる時 「御父さん」
・父がいない時 「お父さん」・「御父さん」、「親爺」・「親父」、「叔父さん」(岡田)

これに対して綱(長野母)は、お兼から「奥さま」と本人がいない場で称されていたが(「兄」一)、長野父が「旦那様」「御主人様」と呼ばれている場面はなかった。

奥さまも大分御目にかからないから、随分お変りになったでしょうね」
「この前会った時は矢っ張り元の叔母さんさ」
 岡田は自分の母の事を叔母さんと云い、お兼さんは奥様というのが、自分には変に聞こえた。

(「兄」一)

長野母が「奥様」・「奥さま」と称されているのに、長野父が「旦那様」と呼ばれた形跡がないのは、やはり長野父の立場が低いことを示しているのか。

男が立場が低くてそこに苦しんでいると、自分よりもはるかに権力がない地位の女を求めてしまうのかもしれない。


3、長野父の名は「一郎」?


ふと思った。長野父の下の名は「一郎」ではないかと。

私の推測では、二郎の兄である一郎は、綱と前夫の子である。
その男と別れた後に、綱は長野父と再婚し同人が長野家に養子に入り、二郎とお重をもうけた。

そして、たまたま再婚相手と前の男との息子の名が、一致していたのだ。
以降の流れも推測する。

長野父は性格と弱い立場から、自分の側で改名するか、あるいは通名を用意してそれを名乗っていた。

一郎や二郎たちはその改名後の氏名を父の本名と信じ込んでいた。

しかし、二郎が「行人」を執筆するより以前に「取り戻す事も償う事も出来ない」事態が生じた(「兄」四十二)。私の推察では、「一郎が長野両親(さらには築地にいる実父)の命を奪い、お貞と無理心中」である。

その事件について当然捜査がなされ、そこで二郎たちは初めて、長野父の名が元々「一郎」であると知った。

「行人」の書き手である二郎は、後付けだとわかった亡父の名を書きたくなかった。かといって「一郎」とも書けなかった。

その結果、長野父は下の名を書かれなかった、と。


我ながら根拠に乏しい。ただ「平吉」ですら名が明記されているのに長野父だけが名を書かれていない。この設定に、なんらかの意味を見出したかった。

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