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夏目漱石「行人」考察(52)二郎の和歌山滞在(9日)


夏目漱石の小説「行人」

前回の記事で、綱(長野母)らが合流するまでの、二郎の旅行日数を勘定した。
ちなみに23日間となった。

今回は、綱らの合流以降の宿泊数を数える。


1、大阪滞在(3日)


まず、綱らは宿に一晩泊まったと思われるが、やや曖昧である。

 母の宿はさほど大きくはなかったけれども、自分の泊っている所よりはよほど上品な構であった。(略)絵端書が済んで、しばらく世間話をした後で、岡田とお兼さんはまた来ると云って、母や兄が止めるのも聞かずに帰って行った。
(略)
岡田夫婦は約のごとくその晩また尋ねて来た。(略)冗談がひとしきり済むと、自分の予期していた通り、佐野の話が母の口から持ち出された。(略)岡田はちょうど好い都合だから、是非本人に会ってやってくれと、また会見の打ち合せをし始めた。
(略)
 母と兄夫婦の滞在日数は存外少いものであった。まず市内で二三日市外で二三日しめて一週間足らずで東京へ帰る予定で出て来たらしかった。
(略)
佐野との会見は型のごとく済んだ。(略)兄は暑いので脳に応えるとか云って、早く大阪を立退く事を主張した。

(「兄」二~五)

読み取ると、綱らが大阪に来た初日の出来事は以下のとおり

・二郎と岡田夫妻がお出迎え→ 岡田が予約しておいた宿まで案内→ 岡田夫妻一旦帰宅→ 一郎の水滸伝じみた大阪の思い出話→ 岡田夫妻再度来る→ 佐野との会見に向けた打合せ。

この後に、引用の「まず市内で二三日~」との話と、佐野との会見が既に済んだ旨が語られている。
この間にどれだけの日数が経過したか不明であるが、さすがに前日の夜に打ち合わせてすぐ翌日に佐野と会食とはならないと思われる。

そこで、ここでは「二三日」を多めに数えて、既に「3泊」したとしておこう。


2、和歌山滞在(3日)


そして「行人」で最もスリリングな場所:和歌の浦に舞台は移る。
舞台が移るとともに、就寝時の様子が急に具体的に描写される。初日だけでも以下のとおりだ。

 ー 電車はじき和歌の浦へ着いた。(略)そうして海を真前に控えた高い三階の上層の一室に入った。
(略)
 その晩自分は母といっしょに真白な蚊帳の中に寝た。(略)それで母の眠りを妨げないようにそっと蒲団の上に起き直った。それから蚊帳の裾を捲って縁側へ出る気で、なるべく音のしないように障子をすうと開けにかかった。すると今まで寝入っていたとばかり思った母が突然「二郎どこへ行くんだい」と聞いた。(略)自分が蚊帳を出たり這入ったりした間、兄夫婦の室は森として元のごとく静かであった。自分が再び床に着いた後も依然として同じ沈黙に鎖されていた。ただ防波堤に当って砕ける波の音のみが、どどんどどんといつまでも響いた。
 十六
 朝起きて膳に向った時見ると、四人はことごとく寝足らない顔をしていた。

(「兄」十一~十六)


続いて二日目。一郎が紀州東照宮で二郎に疑いをかける。
この日の晩も具体的に描写される。

「直は御前に惚れてるんじゃないか」
(略)
 晩は寝られなかった。昨夕よりもなお寝られなかった。自分はどどんどどんと響く浪の音の間に、兄夫婦の寝ている室に耳を澄ました。けれども彼らの室は依然として昨夜のごとく静かであった。自分は母に見咎められるのを恐れて、その夜よはあえて縁側へ出なかった。
 朝になって自分は母と嫂を例の東洋第一エレヴェーターへ案内した。

(「兄」十八~二十三)


そして三日目。紀三井寺で一郎が二郎をプログラムにはめようとする。
この日の晩は一切描写がなく翌朝になる。

「それでは打ち明けるが、実は直の節操を御前に試して貰いたいのだ」
(略)
「じゃそれを明日やってくれ。あした昼いっしょに和歌山へ行って、昼のうちに返って来れば差支えないだろう」
 自分はなぜかそれが厭だった。東京へ帰ってゆっくり折を見ての事にしたいと思ったが、片方を断った今更一方も否とは云いかねて、とうとう和歌山見物だけは引き受ける事にした。
 二十六
 その明くる朝は起きた時からあいにく空に斑が見えた。

(「兄」二十四~二十六)

この時点で、3泊している。


3、嵐の夜+翌日+寝台列車(3日)


そして、二郎と直が二人で泊まる暴風雨の夜となる。

内容は何度も書いたので大幅に省略。

 ー 嫂の姿は死んだように静であった。あるいはすでに寝ついたのではないかとも思われた。すると突然仰向けになった顔の中から、「二郎さん」と云う声が聞こえた。「何ですか」と自分は答えた。「あなたそこで何をしていらっしゃるの」「煙草を呑んでるんです。寝られないから」「早く御休みなさいよ。寝られないと毒だから」「ええ」
 自分は蚊帳の裾を捲って、自分の床の中に這入った。
 三十九
 翌日は昨日と打って変って美しい空を朝まだきから仰ぐ事を得た。

(「兄」三十八~三十九)


同日中に直と二郎が戻り、もう一晩和歌の浦で泊まる。
ここも就寝時の具体的な描写はない。

そして章題は「帰ってから」となる。

 自分達はその明くる宵の急行で東京へ帰る事にきめていた。実はまだ大阪を中心として、見物かたがた歩くべき場所はたくさんあったけれども、母の気が進まず、兄の興味が乗らず、大阪で中継をする時間さえ惜んで、すぐ東京まで寝台で通そうと云うのが母と兄の主張であった。
 自分達は是非共翌日の朝の汽車で和歌山から大阪へ向けて立たなければならなかった。自分は母の命令で岡田の宅まで電報を打った。
(略)
やがて明日の荷造りは出来上った。

 帰ってから
 一
 自分は兄夫婦の仲がどうなる事かと思って和歌山から帰って来た。

(「兄」四十四~「帰ってから」一)


そして、大阪から東京行の寝台列車に乗り、4人は列車内で最後の晩を過ごした。

 時計は十二時過であった。自分はまたそっと上の寝台に登った。車室は元の通り静かになった。嫂は母が口を利き出してから、何も云わなくなった。母は自分が自分の寝台に上ってから、また何も云わなくなった。ただ兄だけは始めからしまいまで一言も物を云わなかった。彼は聖者のごとくただすやすやと眠っていた。この眠方が自分には今でも不審の一つになっている。
(略)
 富士が見え出して雨上りの雲が列車に逆って飛ぶ景色を、みんなが起きて珍らしそうに眺める時すら、彼は前後に関係なく心持よさそうに寝ていた。

(「帰ってから」二)

暴風雨の夜 + 和歌の浦でもう一泊 + 寝台列車
3泊 である。

4、まとめ(32日間)


以上により、綱たちが合流した以降の宿泊日数は

大阪3日 + 和歌の浦3日 + その他3日
= 9日間 となった。

そして、前の記事で勘定した二郎のそれまでの旅行日数(描写のない京都滞在も含めた)は、23日間 である。

よって、二郎は合計で

32日間

も旅行していたことになる。

「行人」とは、「長野二郎の三十二日間戦争」だったのかもしれない。
二郎はその戦争に勝利した。ただ少し勝ち過ぎた。


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