宛先は君に 2021年7月30日

2021年7月30日

 夏の暑さは本格的に僕らを襲い始め、太陽の放つ熱が、満遍なく町に行き渡り、外に出ると肌の上に熱気の膜を纏っているかのようで、うんざりさせられる。自転車を漕いで受ける風が上半身を涼ませ、その代わりに下半身は汗でベタベタだ。ペダルを漕ぐたびに太ももが汗を介してズボンとくっつく。外に出れば、そんな不快なことだらけなのに、それでも外に出てしまうのだ。彼女に会えるというただそれだけで。
 それにりかが元気を取り戻した。久々に受ける猛烈な陽射しに、時々、手でひさしを作って空を恨む顔で見上げるが、鮮やかな色の違いでもって構成される世界を喜びでもって受け止めている。確かに液晶画面、ピクセルでは到底再現できない世界の美しさ、神秘さが毎秒襲ってくるのだから、それもそのはずと言えるだろうね。
「定期的に気分が落ち込むのはホントに嫌になるけど、でもそれが終わって、気分が戻ってくると、美しさとかがより新鮮に目に入ってくるんだよね。それをスケッチしたりするんだけど。それはもしかしたら良いことなのかもね。ポジティブに考えたらの場合だけど」と朝食に出された、パンにかぼちゃ素麺のジャムをたっぷり塗りながら彼女は言った。バターナイフが瓶の内側をカンカンと叩き、そのリズムに乗ったせいか、りかはやけに饒舌だった。栓が外れたかのように溢れ出す言葉は最近の彼女の様子からは想像できないほどであったが、気分というものはそういうものなんだろう。上がり下がりするもので、喋りたいことがいつだってあるわけじゃない。黙っていることが、多くのメッセージを発する時もあるはずなんだ。
 愛さんとりかは、足首を川面に浸し、横並びに座ってお喋りに耽っていた。僕はその様子を少し離れた場所で天然の日傘をつくる大木の幹に寄りかかり、隣にパレットを置いた画家のような視点で、それを眺めていた。二人の会話はかなり弾んでおり、二人が笑うたび、川面が揺れて、新しい波紋が広がっていた。そして、パシャパシャと音を立てて上がる水飛沫が、反対側の下草を濡らしていた。時々、僕がいる方を振り返り、チラッと目があってでも、何も言葉を投げかける様子もなく、見るのをやめ、また横を向いて喋り出す。それが何の兆候なのか、僕は戸惑うだけで、何も読み取ることができないが、そこに好意の意図があるとすれば…。ああ、僕はそれだけで顔を紅潮させ、繰り出す言葉をただの紛い物にしてしまう人のように、感情のコントロールが効かなくなってしまう。いつだって、自己を統制して、そこにクールさを見出す振る舞いを見栄のように持ってきたとしてもだ。彼女のたった一つの行動がそんな僕の理想を、紡ぎたい言葉も、細部までにこだわりたい感情も、どうしようもなく、純とした飾り気のないものとして表出させてしまうのだ。
「君はこっちに来ないの?」と愛さんが水に濡れた足のまま、足裏に下草を貼り付けて僕のところまでやって来て言った。僕は読んでいた本から、視線を彼女の方に上げた。その言葉を頭の中で何度も彼女の声で再生して、それに対する応対の仕方を何度もイメージして反復しては推敲したというのに、結局出せる反応は、意味のない返事と平成を装っている仕草だけだ。
「来なよ。こっちに」とりかは川にまだ足を浸したまま、顔だけこっちを向けて僕に言った。
僕はその言葉に助けられるように、本をその辺に無造作に置き、腰を上げた。愛さんはニヤリと笑い、僕の手を引いて川の方へと連れて行った。それから、三人で足を冷やしながら、他愛もなくそれぞれ話したいことをただ言葉にして、その思考と経験を交換し合った。そこでわかったことだが、愛さんには婚約者がいるみたいだ。帰りの道で、そのことを僕が特に関心を示さないでいると、りかは強がりはやめなと言ったが、それは強がりでも何でもなかった。僕はそもそも婚姻関係だとかを世間ほどに重要視していない。そういった規範を疑問視することで、新たな可能性を見ているんだと言った。それもりかには強がりの表出だと見てとったのか、ニヤリと笑って、それ以上は何も言わなかった。実際、自分は強がっているのかどうか、確かめることは出来ない。客観的に自分を捉えようとすると、主観的な客観性に襲われるからだ。自分のことなど他人の目を借りて見ることなんて出来ない。自分は自分のあらゆる経験を共にしており、その経験が導き出す答えを頭から除外することなんて出来ないからだ。
 夕食を済ませ、りかは僕の部屋にやってきた。ベッドに腰掛けると、愛さんはとてもいい人だったと、告げた。聞いていた話より、実際に会った方が印象が上回るのって、なかなかないことだよね、とも。
「でも」と彼女はベッドに仰向けになり、天井を眺めながら話し始めた。「何だろう。私たちとは違う感じがするってのもある。優しいし、私のセクシャリティに理解があるってのもひしひしと伝わってくるって言うのもわかる。でも…」とりかはそこで逡巡をした。彼女の言いたいことは何となくだが汲み取れた。そして、それは本音であっても、言ってしまっては連帯にヒビを入れてしまう、破壊的な禁句であることも。
「やっぱり、何でもない。忘れて」とりかは自分の中で理性を保った。
「分かるよ。でも、それを言ってしまったらって話だよね」
「そうだね。私以上に私たちのことを理解している気がする」とりかは上体を一度起こし、僕の方を見て、再び背中をベッドに付けて言った。「もちろん、ありがたいことだけどね」
「それぞれの物語があるってことでしょ?」と僕はりかの横に座り、彼女の顔に視線をやった。
「うん。あなたも作家になるなら、それを念頭におかないとね。私たちは語りたい物語ではないってこと。誰かに語られる物語でもないってこと」
ああ、その言葉は重くのしかかる。いつまで経っても、僕の頭から離れることのない言葉だろう。語るべき物語など存在するのだろうか。それでもどうして、人は他人の物語を語りたくなるのだろうか。僕はどうして小説を書きたいと思うのだろう。
その夜はそのベッドで僕らは横になって、互いに夢を見ながら眠りについた。目を覚ますと、涙の跡がついた頬がそこにあった。それはりかが自分を知ってからの人生の跡でもあるのだろう。彼女が昨夜、言いかけた言葉を僕は非難することは出来ない。彼女の物語を知らないから。どれだけの冷たい視線、言葉、裏切りが彼女に鋭い刃物となって、襲ったのか、僕は知らないし、誰も知ることはできない。なら、何が言えるのだろう。誰が言えるのだろう。

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