宛先は君に 2021年6月6日
2021年6月6日
僕はここに来れてよかった。やっぱり、身体ごと囚われた場所から移動するのが正解だったんだ。僕は精神だけの離脱で全てが済むと勘違いしていた。この決断は正しいものだったと確信している。
今日、遂に僕は離れを飛び出し、三人で食事を囲んだ。久しぶりに面と向かって話すと感激が襲った。それほど、この一週間は退屈なものだったんだ。もし、コロナに罹患したら、もっと孤独で、最悪死の恐怖が襲うと思うとゾッとするよ。特に初期に罹った人の恐怖は、想像するだけで震えるよ。無知ほど向こう見ずな挑戦はないからね。
食事中、佐和子さんが、僕がここに来た方がいいと思った理由を教えてくれた。それはこの家から五分ほど歩くと着く家に住んでいる二人の若者と、そしてこの家に住むことになる若者が僕の創作を刺激してくれると思ったみたいだ。明日の午前中にでも、彼らの家を訪ねてみたいと思う。そして僕に次ぐ入居人はもうすぐ到着するみたいだ。早ければ明日にでもということらしい。
僕は写真を見せてもらった。トランス女性で、年齢は僕と同じらしい。僕と同じように文学と映画を愛する女性で、まあ、なぜここに来るかは詳しくは聞かなかったが、僕と同じようにどこかを離れて、生活を一新する必要があったのだろう。彼女に頼んで、僕はこの町でもインタビューが続けられればいいと思う。まあ、僕と仲良くしてくれたらの話だけどね。でも、楽しみだ。僕はここんところ、同世代の人と知り合う機会がめったに減っていたから。パンデミック前は狂ったように、クラブに行ってはここで死ぬのが本望だ、みたいに踊って歌っていたんだからね。そこで知り合った人達は今どこで何をしているだろう。楽しみを奪われて、社会という規則に縛られた日常に身を浸し、あの馬鹿げた日々を青春だとか呼んで懐かしんでいるのだろうか。それなら残念だな。それはあの狂った生活を消費してしまったってことだからね。
そして、近くに住む若者だが、28歳の兄と25歳の妹で、二人で暮らしているらしい。兄妹でバーを経営するなんてまるで素晴らしいことだよ。両親から引き継いだらしいが、両親は今どこで何をしているかとかは、特に佐和子さんも話さなかったし、僕も聞かなかった。何かしらの理由があるんだろう。本人の口から説明されるのを待てばいい。
モールでは僕の生活必需品と、食材を買い込んだ。そして、午後は『20センチュリーウーマン』と『ストーリーオブマイライフ 私の若草物語』を連続で観た。僕はどっちもお気に入りの作品だったから、二度目の鑑賞を楽しんでいたが、佐和子さんは後者をあまりお気に召さなかったらしい。夕食の時、僕はその理由を尋ねると、何を撮りたいのかよく分からなかったからと教えてくれた。それに、女性だけの物語に思えてしまったのもいまいちだったみたいだ。そして、僕に創作するに当たって、重要な事を教えてくれた。彼女の言葉を引用しよう。とても身に染みたからね。
「受け取る人が自己のアイデンティティから解放させられる作品が、創作の最も高尚な試みであるのよ。現実ではいつもあなたが何者であるか、定義される。街に出ればすぐに決められるでしょ。トイレへ行くのにもあなたがどんな性別かを認識させてくるし、国を出れば、あなたは日本人であることを求められる。もしかしたら、あなた自身もそれを拠り所にするかもしれない。作品を作るってことは、そこからの逃避を求める人たちに提示しなくちゃいけない。これは別に作品を作るってことだけじゃないけどね。あなたはサッカーを見るのが好きよね?私はね、ジダンを見るのが好きだった。茂樹さんが好きで私もつられて一緒に見るようになったんだけど、彼はスポーツ選手でもあり、芸術家でもあった。パフォーミングアートのようだった。ジダンが九十分、何をしているかを追った映画があるんだけど、それを見てやっぱり彼は芸術家でもあったと思ったわ。そんなふうにあなたも好きなサッカー選手がいるでしょ?誰が好き?」
「モドリッチかな。最近なら。小さい頃はカカが好きだったけど」
「モドリッチはクロアチア人で、カカはブラジル人でしょ。でも、あなたは彼らに憧れてる。あなたはその時、自分が日本人であるとか気にした事ないでしょ?」
「うん」
「私も自分が女であるとか、サッカーを見る時感じた事はない。夢中にさせる。引っ張りこむってそう言うことなの。あなたも何か芸術を生み出すのなら、そういうことを意識したらいいと思う。特に今の時代はそこを規定したがる論説が多いからこそ、余計にね。私たちは自由でありたい、そしてそうであると思わせなくちゃね」
これは素晴らしい金言で、僕はこの言葉を聞くためにここにやって来たとも思えるものだ。今夜はこの言葉を噛み締めて、そしてそれが原動力となり、僕は机へと向かった。ノートを捲り、ペンを走らせていく。今日は調子が良かった。二時間という時の経過を全く気にすることなく、僕は向き合っていた。
そして、今日も終わりを迎えるという時間になって、風に当たりに外へ出た。僕は今、自分の生命力を何よりも感じることが出来た。今にも落ちてきそうな星々が夜空を埋めていて、飛び移るように視線をずらし、隈なくそれを見渡した。耳には自然の響きが。ここには僕を含めた無数の自然の産物が存在する。それら一つ一つに感謝を告げられたら! ああ、僕は駄目だ。涙が溢れてしまったんだよ。全ての景色が瞳に溜まった涙で滲んでしまった。そして走り出したくなった。頭の中ではデヴィッド・ボウイの曲ががんがんに脳内再生され、一度でもあのシーンを見てしまったら、二度と忘れぬ自分の思い出のように刻まれてしまうアレを再現していた。誰もいない町を駆けて行く。過ぎ去る風と同じように。
部屋に戻ってきても高まる胸を押さえられない。今日というこの素晴らしき瞬間を僕は文章に変えなくてはならないと強く確信した。もう、眠らない人のために高く昇った月のために、その美しさのために、僕は夜を使い果たしても構わない。それが向こう見ずだと言われようとも、明日を台無しにしてしまおうとも。僕は今夜、眠らない。
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