宛先は君に 2021年7月15日
2021年7月15日
騒がしい、東京からの若い客人たちは、町に喧騒だけを持ってきて、嵐のようにすぐ去ってしまう。リンさんたちのバーに押し寄せて、僕らの居場所を奪ったと思えば、砂浜ではテントの下でゆっくり本を読んだり、音楽を聴く静かな空間までも、彼らは簒奪するのだ。そして居場所のなくなった僕らは、どこに行けばいいのか分からず、彷徨った挙句、自転車を漕いでは決して登りきることのできない坂道の上にある、小屋を見つける幸運に巡り合った。まさに不幸中の幸いだね。リンさんにあれは何かと尋ねたところ、よく分からないけど、私たちが小さな頃からあって、ちゃんと、使った人が掃除していくから綺麗なままなんだ、とだけ返答が帰ってきた。確かに何もない、その小屋は毎日人が使っているかのように、埃一つなかった。それに、周りの木々が強い日射を遮っているおかげで、そこは避暑地としても使えた。りかは騒がしくなくていいね、とここを気に入り、砂浜で水着になる大学生の集団を見なくて済むと喜んでいた。僕もここが気に入った。なぜだか、ここにいる間は時間を箸で掴むように自在に操れているような気がするんだ。月の出現が待ちきれない時はそれがすぐに叶い、太陽が沈むのを惜しめば、空に長く残ってくれるような、そんな時間感覚なんだ。
りかはそこでノートにスケッチをしていた。そこには世界のあらゆる対象が、彼女の目を通して、イメージ化され、そして、それが再び彼女の手によって紙の上に現れる、その行為の全てがあった。僕は頼みこんで、それペラペラと捲った。そこにはジャンル分けのできない、際限なき対象が彼女を通して現れていた。落雷の瞬間、スニーカー、それになんと名前を付けてフォルダを作ればいい? それは世界、美しさなんだと思う。僕は彼女がその磨き上げた本性でもって、その本質を確と見極めていると知った。そしてその対象は、彼女の線画によって、快活に紙の上に浮かんでいた。
「あなたは言葉によって、美しさを切り取るわけだけど、それってどんなことに注意しているの?」とりかは僕が創作ノートと自作する、メモ帳を見ながら言った。僕は彼女のスケッチブックを見ていた。
「注意?」
「そう」とりかは僕を見て言った。
「何だろう」と僕は考えた。それは難しい問いだった。そこで僕は大学で研究した、『若きウェルテルの悩み』について説明した。彼女は僕の説明を興味深く、時には質問攻めに僕を合わせ、聞いた。そして、納得したように、その本性という意味を考えだした。
「もし、世界中にいる人間が充分にそれを持ち合わせていたら、私たちはこれほど辛くはなかったのかもしれないね」とりかは言った。
「僕もそう思う。だけど、それとは相反する考えもあるんだ」
「相反?」
「うん。全ての人がその本性を持ち合わせていないことが重要なんだとね」
「それって、それを持っている人達が優れている集団ってこと?差異があるから良し悪しがうまれるみたいに」
「それだと、至上主義みたいに、誤った思想を導いてしまう。違うんだ。僕が思うのは、人類とは自然のように、個々に意味を求めるのではなく、その全体のバランスに意味を求めるんだと」
「どういうこと?」
「つまり、僕がいて、君がいるという状況がいいんだ。僕がいて僕がいる。君がいて君がいる。そういうことは望ましくないというわけ」
「なるほど。色んな状態の人がいるのが好ましいってわけ?」
「その方が自然の流れなのかもしれないと、ぼんやりと思うんだ。この町は自然に囲まれていて、素晴らしい。しかし、僕らがいた場所のように、そしてこの小屋に僕らを追いやった都会人のような人たちが住む街もあるんだ。そこは、自然ではなく、人工によって囲まれていたわけだけど。これは対比するもので、ということはどちらにも支持者がいるものなんだ。しかし、どちらかに偏った瞬間にそのバランスは崩壊し、どちらも存在しなくなってしまうんだ。コインの表の喪失は裏側の喪失も意味していて、最終的にはコインそのものの喪失とも言えるとでも言えばいいのかな。説明難しいけど」
「うん。でも、何だか言いたいことは分かる。だけど、その対立するものが自分たちの存在を脅かすものだった時はどうすればいいの?」
ああ、完璧など存在しないという事実が、僕を苦しめる。しかし、その事実だけが向上の余地があるという、未来への渇望になるのだから仕方ない。りかの言いたいことは分かる。彼女の対立する考えは、彼女の存在を脅かすものだ。トランスジェンダーに対する風当たりはまるで嵐のように吹き荒れており、台風ならば過ぎ去るのを待つという、解決策はあるがその台風は次から次に、まるでこの朝陽のように出くわすものだからだ。
僕は間違っていた。世の中は今、自然のように適切なバランスにはなく、既に偏ったものであると。そうなんだ、僕らは今、間違った思想の氾濫の中にいる。本性は汚されてしまっているのだ。それを取り戻さなくてはいけない。
しかしどうやって?
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