宛先は君に 2021年6月16日

2021年6月16日

 日々は疾風怒濤のように過ぎ去っていった。この十日間で自分の身に起こったあれこれを話すとしよう。そうじゃなきゃ、君には何のことだか分からないだろうからね。
 まず、バーを経営する兄妹のところに次の日の午前中、すぐに向かった。お店は楽器を演奏できる小さなステージ、テーブル席、カウンター席があって、想像していたよりも立派なものだった。二人には悪いんだけど、僕はもっとこじんまりとしたものを想像していたんだよ。僕がお店の扉を開けると、妹のリンさんが出迎えてくれた。リンさんは僕にテーブル席に座らせると、一旦外に出て、裏の方に回った。二分ぐらい経った後で兄のジンさんを連れて戻ってきた。二人はとても優しくて、僕がこの町にやってきた事をえらく歓迎してくれた。二人は若者のたまり場を教えてくれて、実際、この十日間、夜はずっとそこで過ごしていたんだ。そのせいで、この日記は止まっていたんだよ。日記ってものは夜書くものだし、朝は小説の時間に当てているからね。それが十日間の沈黙ってわけなんだ。
 ジンさんはいわゆる外に居続けなくては死んでしまうって感じの男で、Tシャツの上からでも分かる筋肉はベッドの上で多くの人を魅了してきたことを暗に示していた。ベッドサイドテーブルに置かれた照明が照らす部屋で自慢気に首から白いシャツを脱ぎ取る姿を簡単に想像することが出来る。まさしく、バーベキューにやってきた大学生にそんな表情で自分に引き付ける場面に遭遇したからね。妄想ではなく移想とでも言えばいいのかな、分かんないけどさ。一方、リンさんの方はそれほど外に出るタイプじゃない。バーにいつもいるし、昼間、外に連れていかれる時は鍔付きのキャップを深く被り、目元にはサングラスがいつもある。そして、浜辺ではいつだってあるパラソルの下で片手にはレモネード。そして、サングラスの下にある冷めた目で海の遠くを眺めている。僕もジンさんのような光合成をしなくちゃ生きていけない人間じゃないから、リンさんと一緒にいる方が楽だ。リンさんは僕が時々、パラソルの下で浮かんだアイディアをノートにメモしているのを覗いてくるが、ただ見るだけで、何の反応も示さないで、すぐに目を離し、イヤホンを耳に挿して音楽を聴き始める。彼女は音楽に身を捧げているんだ。バーに行くと、店内にある楽器をいつも触っている。ギターで弾き語りをしている時もある。MITSKIの曲を歌う彼女を見るのが好きだ。歌自体も好きだし、何より彼女の歌い方がいいんだ。まるで誰にも届けたくないような感情を声に乗せるんだ。それが別に皮肉っぽくなくね。
 週末の夜になると、この場所はニュースから切り離されたかのように、この町にやって来る若者達やこの町に住んでいる若者が一夜限りのパーティーとでも呼べる騒ぎを起こす。破廉恥な場所とはまさにここだとも言えるようなものだよ。羽目を外したい都会の若者とこの静寂な町で開放を求める若者の気分がマッチする瞬間だよ。それが起きるんだ。週末はほとんどがそうだ。平日はバーに集まって、音楽を楽しむ優雅さを求めるんだけどね。

 今夜というものはそういったものから離れ、僕は今この机に向かっている。その理由は遂に離れから出た新たな同居人のためだ。彼女は一週間前にこの家にやって来て、僕と同じように離れで過ごすことになった。食事を運ぶのは僕の役目だった。僕は離れに行き、食事を扉の前に置いて、そこから離れる。すると、彼女は瞬きの速さで食事を離れの中に持っていき、僕はそこに座って扉越しに彼女とお喋りを楽しむんだ。同い年ってだけで親近感ってものは勝手に湧くものだし、僕は彼女が僕の繰り出す物語のアイディアにあれこれ口を出してくるのを聞くのも楽しかった。それに、彼女の言葉に微かに滲み出る、吐き出した煙草の煙のようなため息が僕の耳を引き付けたんだ。それでも、扉越しに僕らは笑い声を聞かせ合ったし、佐和子さん達もその声を聞いて安心していたみたいだ。まあ、それはかなり重要なことだし、同居人の仲がいいに越したことないしね。ギスギスした一つ屋根の下を楽しむのは液晶画面を覗く観客たちだけのものだから。
 彼女と初めて対面した時、あの部屋には鏡なんてなかったのに、髪形も化粧も、服装も完璧に決まっていた。まあ、彼女が後に教えてくれたことだけど、女性ってのは鞄に鏡の一つはいつだって忍ばせているらしい。
 シャネルの口紅がコーテイングされた唇は、肌の白さも相まって、まるでショートケーキの上に乗っかる苺みたいだった。頭にちょこんと乗せたベレー帽は漫画家を想起させるのではなく、リリーコリンズが演じる、馬鹿馬鹿しいテレビドラマの主役を感じさせるもので、それはとても彼女に良く似合っていた。黒い大きなボタンがへその辺りまで連なっている白いワンピースは熱さを運ぶ風に靡いて、裾がめくれるたびに生足が現れた。
「はじめまして」と僕は言った。手を差し出すか迷ったが、彼女の方が手を差し出してきた。手には彼女が捨てた性別の名残が残っていた。彼女はそれを呪っていることを今の僕は知っているが、その時は知らなかった。きっと、僕の目線が気になったのだろう。彼女はすぐに手を引っ込めて、風に揺れるワンピースの下に戻した。
 二人で近所を散歩しながら、それぞれの身の丈話に花を咲かし、そして最も重要なここでの暮らし方をどうするかってことも語り合った。僕らは社会の孤児のようなもので、羅針盤も持たずに海に放たれた船は無事、ここに辿り着いたってわけだ。彼女はここで、荒んだ航海で付いた傷を修復して、羅針盤を見つけ出したいみたいだ。僕はというとどうだろう。僕は自分自身と向き合ってみなくてはいけないと分かりつつも、気取った言葉ですぐ逃げてしまう。これは彼女にも言われてしまったことだけど、あなたって、自分の話になると、ドアスコープ越しにウインクをしてくるみたいだね。って。彼女の独特な言い回しは、どこからやって来ているのか知らないけど、まあ、僕には的を得ていると分かる。言ってしまえば、僕は絶対に破られないバリアを張って、そこから余裕あるふりをしているだけってね。
「これって、会う人みんなに試しているの?」とりかは言った。
「全員ってわけじゃないけど。でも、お願いはすることの方が多いよ。もちろん、断られることも多いけど」と僕は答えた。
「そうなのね」とりかは遠くを見ながら答えた。「で、どんな質問をするの?」
「それは今から分かるよ」
「じゃあ、始めて」
「まずは名前をどうぞ」
「大井りか。これは本名じゃないけどね」
「どうしてその名前を名乗ってるの?」
「うーん。変わるって自分で決めた時、名前が一番変えやすかったの。身体は難しいでしょ。でも、名前って、もちろん戸籍とかは本名のままだけど、あなたとこうして知り合ったみたいに、嘘をついたとしても分かるものじゃないでしょう?そもそも、名付けるってことに真実があるかどうかは知らないじゃない。私の言いたいこと分かる?」
「分かるよ。自分の構成要素の一部をコントロールできるってことでしょ?」
「セルフコントロールがしたいの。でも、それでも自分じゃ、納得するしか対応できないこともあるでしょ?それは仕方ないことだけど、私は人生の中でそれに折り合いを付けながら反抗していきたい。それが私の人生だと思うから」
「君はどうしてここに来たの?」
「これって絶対に聞かれたことは答えなきゃいけないの?」
「別にそういうわけじゃないよ。言葉に変わるのは君が考えていることだし、話すのは君の口なんだからね。それこそ、君の言葉は君自身でコントロールできるじゃないか。僕が君を見て、ある程度の感情を想像することは出来るけど、それは僕の中で完結しているものでしかない。君のものじゃない」
「そうね。話す。これから仲良くしなくちゃいけない同居人だしね。でもその前に、あなたがここに来た理由も話してよ。ほら、人に名前を聞く前にはまず、名を名乗れって言うでしょ?」
「名前じゃないけどね」
「意味は同じでしょ。他人を暴きたかったら、自分を曝け出さないといけない。そうでしょ?」
「まあ、僕のは単純だよ。ただ二人に誘われただけだよ。することも別になかったから、その提案に頷いただけ」
「そうなのね。私はもっと複雑なの。二人から提案してもらったのはそうだけど、そこに至るまでの経緯がある。私の両親がお願いしてここに呼んでもらったの。私が回復するようにね」
「回復?」
「私、お金が必要で、稼がなきゃいけなかったの。この身体のせいでね。この身体を変えるためのお金が。でも、私はまだ22歳で、求められる額は払えない。だから、身体を売ったの。それが両親にバレて、私はここで自分を取り戻せって、送り出されたの」
「両親は君がトランスジェンダーだってことは知ってるの?」
「うん。私はリベラルな家庭で育ったから、私自身も家族に話すのに少しの躊躇はあったけど、それは否定されるとかじゃなくて、ただ恥ずかしい気持ちの部分のせいだった。反対されたり、勘当を告げられたりとかは全くなかった。『そう。知ってた』ぐらいの反応でね」
「そうなんだね。それは良い親と言えるかもね」
「だからこそ、私が何の相談もなく、自分の身体を売って大金を稼ごうとしたことに失望したみたいなの。二人は私が手術したいって言ったと時のために、カミングアウトした時から貯金をしてくれたみたいだから」
「そうなんだ」
「最悪だよね。私は手っ取り早くお金を稼ぐために」
「まあ、そういった決断をしたくなる気持ちも理解できるよ」
「それで君は手術をしたの?」
「してないわ。ここで落ち着いて、自分を見つめ直しなさいってね。考える期間ね。自分がどうしたいのか」
「なるほどね」
「こんな対話を録音して何か意味があるの?」
「意味なんてあるのかは未来のある地点で教えてくれるだけで、求めるものではないよ」
「達観してるね」
「それはどういう意味?褒めてる、それとも皮肉?」
「意味なんて求めないんでしょ。ただの言葉だよ。口から発せられるただの言葉」
「でも、ここで会ったのは何か意味があるといいね」
「そうね。せっかく巡り合ったんだしね。それに一つ屋根の下で生活をしていくわけだし」
「この録音はどうだろう。僕の声が多く残っちゃったな」
「あなたの声が残ると良くないの?」
「僕にとってはね。他の誰かは僕の声を求める人もいるかもしれないけど、今は誰も聞くことはないし」
「消したかったら消してもいいよ。どうせ簡単に消してしまえるんだしね」

 浜辺で夜の海を見ながら、吹く風が二人の言葉を遮って、口と耳を近づけながら話すことでより会話も身近なものに変わっていった。彼女も最初に感じたドアスコープ越しの視線から、チェーンに繋がれた壁と扉越しに覗き込むまでに変わったと思ったことだろう。実際に僕らは想像していたよりもすぐに仲良くなることが出来た。もちろん、遭難者が助け合うような心境が彼女にあったのかもしれないが、理由はともかく、仲良くできたという事実だけで安心を得ることが出来る。
 過去はいつだって付きまとうものだが、未来はいつだって僕らの先にあることを忘れたくない。僕らはこの世界の遭難者でお互いに助け合わなくては、安住なんてものは月の裏を目指すようなものだ。何が自分を悩ませているかは問題ではなく、悩みというものに自分が閉じ込められていること、そしてそこからの脱出を図っているということ、それだけで僕らは手を繋ぎ、暗い森の中でも手探りで、微弱な明かりを振り回しながら歩いていく理由になるはずだ。僕は今そう思うんだ。それは本当の気持ちだ。

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