宛先は君に 2021年7月27日

2021年7月27日

 何の予定も、目的も持たず、ただ一つの憶測、しかしそれは確信に近いものを持って僕は外へと繰り出す。家の中にいても、彼女と会うことはできないんだからね。
 それは嘘か本当なのか、まだ完全に昇り切っていない太陽の光を受けて、僕の目に眩しく映る彼女の姿を留めたのはやはりあの場所だった。川のせせらぎが心地よく耳を浸し、木漏れ日の下草に寝転がって、枝と枝の間に広がる青空を覗けるあの場所だ。彼女は黒のキャップを深く被って、ジーンズに白のTシャツというシンプルな格好で、でもこの場所には完全に適していた。ファッションは思考を反映させるものだが、行動を規定するものでもある。あの格好だったからこそ、彼女はここに自然と導かれたんだ。
 僕は借りたりかのスケッチブックをパラパラと捲りながら、近づいてくる太陽の光を浴びた下草の熱を背中で感じていたところだった。なぜだか、人の気配を感じ、スケッチブックを閉じて、腹筋に力を入れて起き上がり、その気配の方向を見てみると、彼女と目が合った。愛さんは僕を見て、驚きと喜びを連続で顔に貼り付け、小走りで駆け寄ってきた。僕は照れくさそうに下を向いた時に見せる睫毛の感じに視線を、心を奪われてしまった。僕もきっと、そんな感情の揺れを顔に表してしまったことだろう。照れ隠しをどのように発散させればいいか迷っている時の様子だ。思いがけない、偶然の喜び。でも、それに何を恥いることがあるのだろうか。
「こんなところで会うなんてね。後で教えてもらった家に寄ろうと思っていたんだ」と駆け寄ってきた彼女が言った。
「ここはいい場所ですよ。でも愛さんはなんでこんな所に?」
「長い朝の散歩ってところ。早起きをして、ちょっと書き仕事をして、外に出ようと思ってここまで来た感じ。目的があって来たわけじゃないよ」と愛さんは説明した。「でも、いい場所。東京じゃ、こんな静かな場所はなかなかお目にかかれないからね。君は何でここに?」と愛さんは周囲を見渡しながら、両手を横に大きく広げ、鼻で思いっきり息を吸った。
「ここで本を読んだりするのが好きなんです。誰も来ないですし、陽は差し込むけど、葉の生い茂った木のおかげで、自然のパラソルがありますから。快適ですよ」
「確かに」と言って、愛さんは近くの木に背もたれるようにして座った。僕もそれに正対する木に背もたれた。互いの視線がぶつかったのはこの時が初めてだった。足を前に伸ばしても、間に一人が余裕に立てるほどのスペースがそこにはあったが、それでも僕らの距離はずっと近くに感じられた。一切の障害物を自然が遮り、その空間には一対一で相手を感じられる環境が揃っていた。それは情報を過剰に供給してくる社会では稀なことだ。この場所が読書に適しているのもそういった理由からなんだ。現代社会ではあらゆるモノに対して情報が充分過ぎるほど付属してくる。昨日の僕もその渦の中に自分を置いてしまった。彼女の名前に付属する情報、彼女自身から受け取るのではなく、インターネットという大網の中で配列した情報を辿ってしまった。そうして、一夜のうちに、情報の千本ノック、いやこの喩えは適切ではないな。常に球が出てくるピッチングマシーンの球を取りに行く、そんな感じだ。そうやって放出される情報を手に入れて、まるで全てのボールを受け取ったつもりでいる。しかし、相手を知るということは、機械が投げる情報を受け取ることでは手に入らないんだよ。キャッチボールが必要なんだからね。
 この何とも言えない距離感で交わされる視線の動き、緊張が選び出す言葉、不自然に伸ばす指の先にある、解けてもいない靴紐、全てが完璧に存在していた。
 ああ、僕は幸せだ。こうやって机に向かっていても、あの瞬間がまざまざと浮かび上がってくるんだ。あらゆる記憶は時を重ねるうちに、その鮮明さを失っていって、ぼんやりとした良い思い出に収束していくものだが、僕は唾を吐いて誓ってやりたい。これはいつまでも続くと。

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