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リトルハート 

 夢見通りには、美容院、お総菜屋さん、貸衣装屋さん、花屋さん、ケーキ屋さん、ヨガスタジオ、チベット人が営むシンキングボールの店がある。それぞれ洒落たお店が並んでいる。
 その中でひときわ目を引くのが赤いハート形の看板を掛けたお店がある。このお店は、ほんのひと月前に夢見通りに仲間入りした、靴の修理店『リトルハート』だ。史郎さんと奥さんの真知子さんの二人でお店を切り盛りしている。「ちょっとした心配りを大切にしたい」との思いで、二人で名前を付けた。
 開店して一週間ぐらいは、物珍しさも手伝ってか、たくさんの人たちがお店に来た。真知子さんは、ハート形のクッキーをたくさん作り、開店祝いに綺麗な赤い袋に入れて、金色のリボンで結んで、お客様に配った。
 物があふれ、何でも手軽に手に入る世の中だからだろうか。ひと月たったころには、ぽつりぽつりと雨だれが落ちてくるようにしか、お客様が来ない。まるで潮が引いた後の砂浜のようだ。
 でも、史郎さんの手にかかると、くたびれた靴が新品同様に生まれ変わる。
「素敵ね。まるで魔法みたいね」
「そう? 魔法でお客様をたくさん呼べたらいいんだけどね」
 史郎さんが笑いながら言う。
「そうね。私はお客さまがたくさん来るように、せいぜいお美佐の窓ガラスをピカピカに磨いておきましょう」
 真知子さんは、窓ガラスをピカピカに磨き始める。窓ガラスに青い空とふんわりとした白い雲、ゆっくりゆっくり流れていく。

 アジサイの花が開き、ピンク、紫と色づき始めた。
 真知子さんは、窓に伝う雨だれをぼんやり眺めている。
 どうしたら、お客様がたくさん来るのかしら?

 史郎さんの仕事ぶりは、一つ一つ心を込めてやっている。
でも、暇な時間が多くなり、史郎さんもため息をつくことが多くなった。
やっぱり脱サラをしたのがまちがっていたのかな。いいや、そんなことはない。せっかく始めたお店だもの、なんとかしなければ。史郎さんの頭の中に不安と後悔が渦巻いている。

 そんな史郎さんの姿を見ると、真知子さんの心はキリキリと痛んだ。
「あなた、そろそろお昼にしましょう。おいしいオムレツをこしらえるわ」
「そうだね。どうせ仕事がないんだから」
「そんな投げやりな言い方をしないで。あなたらしくもない」
「僕らしいって? いったいどういうふうに言ったら君の気がすむのかい? ふん」
 史郎さんは吐き捨てるように言うと、出て行ってしまった。
 二人はほんの些細なことで喧嘩をすることが多くなった。二人の心の中まで雨が降り続くようになった。
 梅雨の中休みだろうか、珍しくきれいな青い空が広がった。真知子さんは、お店の外に出て深呼吸をした。空を見上げると、ぽっかり浮かぶ白い雲が見える。
 ああ、あの雲を見ていると、なんて心が軽やかになるんでしょう。
 真知子さんは久しぶりに晴れやかな気分になる。アジサイの葉に乗っているカタツムリがふと目にとまる。
「史郎さん、来て、来て」
 真知子さんに呼ばれて、史郎さんがお店の中からのっそりと出てきた。
「どうしたの?」
「見て、見て。ほら、カタツムリよ」
「うん?」
 カタツムリは、アジサイの葉の上をゆっくりゆっくりと進んでいる。ようく見ていないと、動いているのかもわからない。
 史郎さんはお店の先行きばかりに気を取られ、季節が移り変わっていたことにも気付かずにいた。まわりのことがすっかり見えなくなっていた自分に気が付いた。
「そうか、カタツムリか。心機一転頑張るか。焦ってもしょうがないな。コツコツ地道にやるしかないな」
「そうよ。その意気、その意気。でも、カタツムリみたいに一歩ずつね。それにあの雲みたいにゆったりとね」

 よく晴れた青い空に、白い雲がゆったりと流れていく。
 史郎さんも久しぶり晴れやかな気分になった。

 ある晴れた日、真知子さんはお店のビラを配りに行った。配り終わってほっと一息ついたとき、強い風がドドッと吹いてきて、手に残っていたビラが飛ばされてしまった。そのうちの何枚かが空高く舞い上がる。

 梅雨が終わり、夏の扉を開け始めるころになった。
 真知子さんは暇に任せて、余った靴の革でイヤリングやブローチを作り、お店の片隅に並べた。


 透き通るような青空にマシュマロみたいなフワフワな雲がぽっかり浮かんでいる日だ。
 白くなった髪をきちんと結い上げ、エメラルドブルーの服を着たおばあさんが、にこやかにお店に入ってきた。そのとたん、お店の中にさわやかな風が、さあっと流れ込んできた。
 真知子さんと史郎さんには、棚に並べられた靴も機械も、イヤリングもブローチも、お店の中が何もかも、ほのぼのと明るくなったように感じられ、気分がとても軽やかになる。
おばあさんの胸元には、雲のブローチが光っている。
「新しいお店ですね。このビラを見てきました。この靴の修理をお願いできますか?」
 おばあさんはくすんだ青い靴を差しだした。
「ほう、これは、これは、たいそう履きこまれましたね」
 史郎さんは、目を丸くする。こんなにくたびれた靴を今まで見たことがない。
「私のお気に入りの靴ですの。思い出がいっぱい詰まっていて、捨てられなくて」
「しっかり直しますよ」
 史郎さんは靴を受け取った。
 おばあさんは、お店の隅に飾ってあるイヤリングやブローチに目をとめた。
「これはあなたが作っているの?」
「はい。靴の修理で使ったあまりの革で作っているんです」
 真知子さんが答える。
「そう、それでは、私にも作ってくださるかしら? 靴とおそろいのイヤリングなんて素敵だわ」
「はい。では、明日のこの時間までにご用意しておきます」
 おばあさんを見送った真知子さんと史郎さんは、さっそく仕事に取り掛かる。
 史郎さんは、心を込めて仕事をする。まず、機械にくたびれた青い靴を入れ、型崩れを直す。底をはがして取り換える。靴の前のほうに新しい青い革をきれいに張り付ける。かかとの縫い目のほころびを直す。靴の革用のブルーの絵具で靴全体をきれいに塗る。最後に、絵の具が乾いてから、靴クリームでピカピカに磨き上げた。
「まあ、素敵。さっきと同じ靴とは思えないわ。あなたは、やっぱり魔法使いね」
 真知子さんは、史郎さんにいたずらっぽくウインクする。
「君の言う魔法で、なんだか僕の心の中まで温かくなったような気がする。君も魔女かな?」
 二人はお互いの顔を見て、笑いあった。
 真知子さんも、靴の余った革を使ってブルーのイヤリングを作った。ブルーのイヤリングのはじっこには白い雲を描いた。

 次の日もとても良い天気だ。約束の時間にエメラルドブルーの服を着たおばあさんが、にこやかに入ってきた。さわやかな風がお店の中にさあっと広がっていく。史郎さんも真知子さんも自然に笑顔がこぼれてくる。
「お待ちしていました。靴とイヤリング、出来上がっています」
 真知子さんは、靴とイヤリングをおばあさんに差し出す。
「まあ、素敵にしあがっていること。また、この靴が履けると思うと嬉しいわ。これは亡くなった夫が私にプレゼントしてくれたものなの。あなたが考えたの? イヤリングの雲の模様?」
「はい。お客様は、胸元に白い雲のブローチをしていらしたので。それにお客様と一緒にいると、白い雲の上にいるみたいに心が軽くなってウキウキしてくるんです」
 真知子さんは、にっこり微笑む。
「まあ、それはありがとう。あなたの笑顔もとても素敵よ。このブローチあなたに上げましょう。靴とイヤリングを素敵に仕上げてくださったお礼よ」
 おばあさんは、真知子さんの胸元に白い雲の形をしたブローチをつけてあげた。
 ブローチをつけると、白い雲のように、それはふわふわとした軽やかな気分になる。
「まあ、うれしい」
 真知子さんの声は、喜びに弾んだ。
「ありがとうございました」
 史郎さんと真知子さんは、心からお礼を言った。このにこやかなおばあさんは、二人の心にさわやかな風を吹き込み、どんより曇った空をいっぺんに青空に変えてしまった。
 史郎さんは、靴の修理店を始めてよかったとしみじみ思う。大切にしていた靴を修理していて、おばあさんの温かい心が伝わってきたからだ。おばあさんの輝く笑顔を見ることができて、とても嬉しい。

『リトルハート』に少しずつお客が増え始めたのは、その日からだ。真知子さんと史郎さんは、仲良くお店を切り盛りしている。そして、真知子さんの胸元には、白い雲のブローチがいつも輝いている。

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