【歌詞考察】加川良「教訓1」-ちょっとためらってみる勇気

はじめに

以前、何かの本で「ホモ・サピエンスが生き残ったのは、個人ではなく集団で生活することを選択したからだ」というようなことを読みました。たしかに個人ではできないことも、集団でやればできることがあります。大きなマンモスを狩る。農業をする。複雑な物を製作する。情報を集める……
何かと便利な「集団」ですが、時には反対に集団よりも個人のほうがいいのではないかと思うような場面にも出くわします。集団でいたら自分の命が危ない! そんなとき、あなたは集団を脱け出して個人になれますか?
今回考察するのは、フォークシンガー 加川良の名曲「教訓1」。時代を超えて我々に逃げることの大切さを伝えるこの曲を、読んでいきたいと思います。

「教訓1」について

「教訓1」概要

「教訓1」は1970年の「第二回中津川フォークジャンボリー」で発表された加川良の楽曲で、1971年にこの曲を収録したアルバム『教訓』で加川はデビューします。実はこの曲の歌詞には加川の完全なオリジナルではありません。1967年に児童文学作家の上野瞭が発表した書籍『ちょっと変わった人生論』のガリ版刷り文集を、大阪・梅田の地下街で購入した加川が、その中の「戦争について」に登場する詩「教訓ソノ一」に感銘を受けて作詞したのが「教訓1」でした。

大坂、梅田の地下街でガリ版刷りの文集を売る人がいて、100円もしなかったかな。買ったらこういう風な内容のことが書いてあって、これはいいな、(参考にして)歌を作ろうと考えた。

加川良(西日本新聞 2014年11月16日)

話によれば、梅田の地下で、身障者のためにボランティア活動を続けている人がいて、パンフを売っていた。それを(加川が)一部買ってみたところ、イーヨー(上野の自称)の書いたものが載っていたというのである。加川良は、これは歌になると思った。うたってみたいと思った。かくしてフォーク・ソング『教訓1』が生まれ、それはシンガー・ソング・ライターとしての加川良を人びとに知らしめることになった。

上野瞭『日本のプー横丁 私的な、あまりにも私的な児童文学史』

「教訓1」は加川の代表曲として世に受け入れられ、フォークソングブームが過ぎ去ったあとも多くのミュージシャンによってカバーされてきました。たとえば最近では、女優の杏がコロナ禍の日本に向けて「教訓1」のカバーを歌い、大きな反響を呼びました。


加川良という人

加川良は日本のフォークシンガーで、本名を小斎喜弘といいます。高田渡や岡林信康らの影響でフォークソングを歌い始め、1970年に第二回中津川フォークジャンボリーに飛び入り参加し「教訓1」を披露。第三回に出演し話題になった吉田拓郎とともに、岡林以後のフォーク界を背負う若者として認められました。フォークソングの全盛期が過ぎた後も、加川は依然としてフォークソングを追求し続け、2017年に急性骨髄性白血病により69歳で亡くなるまで精力的に活動を続けました。

「教訓1」考察

「御国のため」という誘惑

それでは考察に入っていきましょう!

命はひとつ 人生は1回 
だから命をすてないようにネ
あわてると ついフラフラと
御国のためなのと言われるとネ

加川良「教訓1」

命は大切。命を守ろう。交通事故防止のポスターや、こころの相談室の広告で幾度となく目にしてきた文言。「わかってる、わかってるから」とうんざりする気持ちもわかりますが、さて、もしあなたの友達や親に「御国のために命を捧げて」と言われたら首を横に振れますか? もしあなたの周りの人が次々と命を投げ出していく中、あなたひとりだけ「命が大事だから……」と言うことができますか? 空気を読んで、「じゃあ自分も」と流されずにいられますか?
周囲と反対のことをするのはとても勇気のいることです。自分の考えを持たずに周りに従っているだけの人なら、尚更困難です。ついフラフラと歩いて行ってしまいます。ちょっと待って! 付いて行く前にいったん、立ち止まって考えてみましょう。

にげなさい、かくれなさい

青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい

加川良「教訓1」

自分の命を投げ出した人も、冷静になって考えれば自分の命が惜しくなってぶるぶる震えるでしょう。人間が命を懸けられるのは、何か熱いものに憑かれているときです。その熱が自分に憑くまえに、こわい気持ちが残っているうちに、逃げましょう。隠れましょう。それが、自分の命を守る秘訣です。

御国は長く人生は短し

御国は俺達死んだとて ずっと後まで残りますヨネ
失礼しました で終わるだけ
命のスペアはありませんヨ
青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい

加川良「教訓1」

よく考えてみてください。もしあなたが国のために死んだとしましょう。そうしたら御国もあなたと一緒に死ぬでしょうか? いえ、あなたの命なんて御国の大きさに比べればちっぽけなもの。あなたが死んだあとも御国は残り続けるでしょう。しかし死んだあなたに御国は「失礼しました」「お悔やみ申し上げます」でオワリ。たったひとつの命、あなたはその言葉に憤ることもできません。
そんなことになるくらいなら、自分の命を優先して、ぶるぶる震えながら逃げて隠れたほうがマシだとは思いませんか?

「男でしょ」に抗おう

命をすてて 男になれと
言われた時にはふるえましょうヨネ
そうよ 私しゃ女で結構
女のくさったのでかまいませんよ
青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい

加川良「教訓1」

「あんた男なんだから」。今でも男の心を強く揺さぶりにかけるこの言葉。この言葉を聞くとプライドが刺激されて、ついつい頑張ってしまいそうになります。でも、もし「命を捨ててこい」という言葉と一緒に「男なんだら」と言われたら? そんなときはプライドなんか投げ捨てて、強くうなずきましょう。「そうよ、私は女で結構。女のくさったのでかまわない」。少々女性蔑視な発言ではありますが、こう言い放てる勇気は大事にしたいものですよね。

英霊にはなりたくない

死んで神様と言われるよりも
生きてバカだと言われましょうヨネ
きれいごと ならべられた時も
この命をすてないようにネ
青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい

加川良「教訓1」

「英霊」という言葉があります。日清・日露戦争、そして第二次世界大戦で「御国のために」戦死した軍人たちをあらわす言葉です。戦時中、日本人たちは英霊たちを褒め讃える一方、生きて帰って来た軍人には容赦ない罵声を浴びせてきました。「生きて虜囚の辱めを受けず」なんて言葉もありましたよね。
でも、その誉め言葉を英霊たちは聞くことができたでしょうか? いいえ、できません。いくら万歳を受けても死者は死者。対してさんざん馬鹿にされた人たちは、命を抱えて明日の太陽を拝むことができました。どちらが幸せでしょうか? 周囲からきれいごとと一緒に圧力を受けた際は、ちょっと勇気を出して断ってみましょう。後で幸福になれるのは、その勇気を持てた人だけです。

「教訓1」の時代

やわらかい言葉で逃げることの重要性を説いた「教訓1」。これが発表された1970年は、ベトナム戦争の真っただ中。海の向こうではまさに戦いが行なわれている。戦争を経験していない日本の青年たちも決して他人事には思えませんでした。一世代前には日米安全保障条約を巡って反対運動が巻き起こってもいました。しかし1969年頃に学生運動はただの反対運動から血なまぐさい内部抗争「内ゲバ」に発展。争いを無くすための運動が、逆に新たな争いを引き起こす事態になっていました。
そんな時代に発表された「教訓1」は、何かと異質な曲でした。学生運動で使われていたような強く硬い言葉はいっさい使われていません。ナントカ主義やホニャラライズムも見当たりません。誰もが理解できるやさしい言葉で、人間が抑え込んでいた動物的な本能「逃げること」を歌ったのです。
発表されてから50年が経過した今日でも、「教訓1」は多くの人の胸に響きます。加川は「教訓1」についてこのように語っています。

当時はベトナム戦争があってましたから反戦の歌だと思われがちですが、ほんとは命の歌。生きているからこそ良き人と出会っていい時間を持てる。生活も大笑いも大泣きも…年取るってそんな悪いもんじゃない。…(中略)…やっぱ生きてないといかん、という歌ですから。

加川良(西日本新聞 2014年11月16日)

おわりに

「教訓1」、いかがだったでしょうか。
現代も1970年と同様、様々な大義があふれている時代です。きっとこれからはもっと多くの大義が出てきて、我々に命を捧げろと脅してくるかもしれません。そんなときに、ほんのちょこっと、逃げたり隠れたりする勇気を持てるかどうか。その小さな勇気が大切なのだと思います。
それではまたお会いしましょう。ありがとうございました!

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