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【短編・青春小説】緑色の海

11月第4週の午後3時をちょっと過ぎたところ。
真島祐輔は、自転車を押して学校を出た。
今日は三者面談がある日で、部活はない。

神戸・長田の山手にある学校から垂水区の塩屋まで彼は自転車で帰る。
高校は自転車通学禁止なのだが、彼は先生に見つからないように、自転車を体育館の裏に隠している。

いい加減学校から離れたと思えるところまで来てから、彼はサドルに跨る。
ここから二国(国道二号線)までは、ずっと下り坂だ。
彼は通行する自動車に気をつけながら、車道をまあまあのスピードで下っていく。

須磨までは、小さい道を縫うように走る。
二国へ出るのはまだ早い。この辺の二国は道幅も広くて、幹線道路だ。

彼が自転車通学に拘るのには、訳がある。
須磨から塩屋までの海沿いの二国を走って帰りたい。それが理由だ。

彼は生まれた時からずっとこの海が大好きで、中学までは朝早くに起きて、海が見える高台で何だかよく分からない体操をしたりしていた。

彼は運動神経がない訳ではないのだが、中学、高校とずっと文化部で、中学は科学部、高校ではなぜかコーラス部に入った。
何故、科学部だったり、コーラス部だったりするかと言えば、親がうるさいからである。
怪我が怖いから運動部はやめてくれ、そういう要望を出されては、それに反してまで運動部に入る勇気が祐輔にはない。

でも、身体を動かすのが好きな祐輔が、親の反対を搔い潜って手に入れた権利が、自転車通学で、それは海沿いを走る事が必条件なのだ。

JR須磨駅を過ぎると、海が国道に近づいて来る。
風は潮臭いし、完全に海の方から吹いてくる。

往復4車線あった道路が、2車線になり、狭くなる。
南から海、JR、二国、山陽電車、山の順番で東西に細く長くなる。


今ごろを晩秋というが、この頃のここの海は、朝は快晴でも、午後からはいつも雲が覆いがちで、おまけに日が傾くのが早いため、大体深緑色で、白波が浮かんでいる事が多い。
でも、雲がなくて、あるいは、雲の切れ間から傾きつつある太陽光が直接海を照らす時、海の色は奇麗な緑色になる。エメラルドグリーンとかいうヤツだ。

そんな奇麗な緑色の海を見る事はレアだが、毎日変わる海の色を見ながら、学校へ行き、家に帰る事は、祐輔にはたまらなく楽しい事だった。
そして、お気に入りのプレイリストが、その楽しさを倍加させてくれた。

コーラス部に入ったのは、気まぐれではない。
楽器が何もできない自分が、せめて楽譜を読めるようになり、歌が上手くなりたいなと思って入部した。祐輔は音楽が好きだし、歌うのが好きだ。

自転車に乗り、大声で歌いながら帰る時、祐輔の心は満ち足りた気分になった。


但し…

今日はちょっと違った。

さっき言ったように、今日は三者面談があった。
高二の祐輔にとって、二学期の三者面談は重要な意味があった。

祐輔も面談する日で、父親の洋輔が来た。
お父さんは、自宅の隣りで歯科医院をやっている開業医だ。
勿論、お父さんは祐輔にも歯科医になってもらいたいと思っており、理系コースへの選択を祐輔に申し渡している。
祐輔は、理系科目が苦手な方ではないし、だから理系で大学受験する事についてはやぶさかではないと思っている。

でも…

自分の人生、もっと色々悩ませてくれてもいいんじゃないか?

祐輔はそう思っている。

だから、晴れてる日に自転車で海に向かって走っているのに、スッキリした気分になれないのだ。

もうすぐ、海沿いの道に出る。祐輔は舗道の方に自転車を乗り入れる。
ここからは滅多に歩行者も来ないので、海を横目に見ながら、大声で歌って帰れる。

どうしようか…

何だか気分が乗らないのだが、でも、やっぱり歌う事にした。

祐輔は声変わりした後で、すごく低い声質になってしまい、高い声が出にくい。
でも、歌いたい曲は大体キーが高い。

だから、自転車に乗りながら、海に向かって歌うのが丁度良い。

誰にも邪魔されずに、高くて出ないキーを大声で歌う。

一旦自転車を止めて、スマホを出して、プレイリストを選ぶ。

バックナンバーの「水平線」が歌いたいと思った。

イントロがかかると、祐輔は自転車を漕ぎ始める。

サビが来た。

やっぱり声が出ない。

出ないのに、大声で歌う。

「下手くそ!」

と、誰かが言った。

誰?

横を走ってる赤い車のウィンドウが開いていた。
よく見ると運転しているのは、近くに住んでいる二個上の従姉の亜希姉だった。

「うわ、亜希姉やんか!いきなりなんや?」
祐輔は自転車を必死で漕ぎ、追いつきながら言った。

「下手くそに、下手くそ言うて、何が悪いん?あんた、横断歩道渡って、山上公園の方へ入って来て!ソフトクリーム、奢ったげるわ」
そう言うと、亜希姉の車はスピードを上げて走っていった。

「寒いのに、ソフトクリームなんていらんわ」
祐輔は車のテールランプに向かって言った。

山上公園へ入ると、亜希姉は、もう車をパーキングに止め、売店の前で立っていた。

「遅いなあ」
「しゃーないやん。自転車やで。これでも精一杯や」
「そんでも、その自転車、良いヤツなんちゃうん?高いんやろう?」
「ああ、フランスのヤツや、15万ぐらいやから、そんなに良いヤツという訳ではないよ」
「アホ、だから歯医者のボンボンは困んねん。自転車が15万!たっかあーって唸るで。まあええわ。ソフトクリーム食べよ。あんた、何味がええ?バニラとチョコとミックスがあんで…」
「俺、自転車やったから、寒いわ。ソフトやなくて、たこ焼きか、おでんでもええか?」
「アカン、後で食べてもええけど、今はソフトクリームの気分やねん。あんた、付き合い!」
「分かった。じゃあ、俺、ミックス」
「ミックスはアカン。私が頼むヤツやから。あんたはチョコにしとき」
「何や、選択権ないやん。まあええわ、俺、チョコ。でも、後でたこ焼き、食うからな。それも奢ってなあ」
「ええよ、それぐらい。じゃあ、お金渡すから、ミックスとチョコ、買ってきて。私はあっちのベンチに座ってるから」
「人使い荒いなあ。分かった、じゃあ買ってくるわ」

祐輔は、亜希から1000円札を受け取り、売店へ向かった。
亜希はベンチへと向かった。

ソフトクリームを二つ持ち、祐輔は亜希がいるベンチへ歩いて行った。
日は西に傾いているが、今日は雲がなくて、空は明るい。
西日を受けてる亜希の横顔を祐輔は見た。
オレンジがかった光が亜希の右の頬を染めており、それが顔全体を金色に輝かせている。

 う、わ…
ヤベエ…
亜希姉、ムッチャキレイやん…

あ、そっか…亜希姉、化粧してるからやんなあ…

亜希姉、高校時代はバレー部やったから、化粧っ気なかったもんなあ…

マジ、ムッチャキレイや…

「祐輔、遅い。ソフト、溶けてしまうやん」
「夏やないんやから、この距離歩いたぐらいでソフト溶けへんよ。お待たせ」

祐輔は亜希にソフトクリームを渡し、二人でベンチに並んで座り食べた。


「なあ、祐輔、あれ見て。海、ムッチャキレイやん」

雲が全くない空で、低い角度の太陽光が海を照らしている。
海の色はキレイな緑色だ。

「ああ、せやねん。この時期だけやで、ここの海がこんな色になんのは」
「何あんた、「そんな事100万年前から知ってました」みたいな言い方して…やらしいわ」
「だって、晴れの日も雨の日ももう1年半以上、この道を自転車で走ってんねんで。そら、何でも分かるようになるわあ。まあ、それが車と違って、自転車で走る良いとこやね。しんどいけど」
「せやろなあ… 私は、そんなん絶対できひんわあ。それだけでも尊敬してあげるわあ」
「うわあ、亜希姉らしくない。尊敬するやて… そんなん言ったからって、後でたこ焼き食うのはやめへんからな。奢ってなあ」
「アホらし、それぐらい奢ったげるから心配しんとき。私、もう社会人やで」
「ああ、せやった、せやった… 」

ソフトクリームを食べ終わった。
祐輔は、亜希姉からもう1000円をもらい、たこ焼きと亜希姉のホットコーヒーを買いに行った。

日がだいぶ傾いた。
まだ30分ぐらいしか経ってない筈なのだが、海とこのベンチの間にある二国を走る車はライトを点灯し始めていた。
亜希姉の顔を照らす太陽光が威力を失くし始めていたが、今度はベンチの後ろにある明るい街灯の白い光が、亜希姉を照らしていた。
亜希姉は、赤系のチェックのネルシャツと、デニム、そして白いスニーカーというシンプルな格好をしていた。
でも、街灯の白い光が照らす亜希姉は、浮き上がって見えるほどの美しさだった。
祐輔は、近寄りがたさを感じながら、恐る恐るベンチに向かい、亜希にホットコーヒーを渡して横に座った。
横に座る分には気が楽だった。
なにせ、自分が意図してそっちを見なければ、亜希の姿を見ることはない。
祐輔はたこ焼きの蓋を開け、一心に食った。
ムチャクチャ熱かったのだが、我慢した。

食べ終わってから祐輔は、たこ焼きの器とホットコーヒーの紙コップをごみ箱に捨てに行った。
戻ってくるなり、亜希姉が祐輔に、「あんた、何悩んでるん?」と訊いてきた。

不意を突かれた。

別に… とは切り返せなかった。

変な間が開いた。

「俺、歯科医なんの、どうなんかなあって… 」
「イヤなん?」
「いや、分からへんねん。でもな、医者になろうと思ったら、理系やんか?」
「せやなあ」
「今、やってる数Ⅱとかの微分積分とか、あるやん」
「ああ、あれ… 私、チンプンカンプンやったわ。ずっと赤点やったし…」
「俺、オトンが、毎日、ウチの病院で歯の悪い人の治療してるん、見てるやん?ゴッツ痛がってるのに麻酔注射したり、歯、削ったり、入れ歯作ったり… それと理系って、何か関係あんのかなと思ってしまうねん。歯、削んのに、微分積分、いるかあって… 」
「それ、マジやな… そんで、あんたは何がやりたいん?」
「それはまだ、分からへんねん。自分が何をしたいか… どうしたら、ええんやろう?」
「そない、考えてる事、全部、正直にお父さんにしゃべってみたら。そんで、お父さんがどういうかやと思うわ。ゴリ押ししてきたら、モラハラで訴えたったらええねん」
「マジかあ… さすがに親は訴えられへんなあ」
「でも、私、マジでウチの親にはそう言うたで」
「ええ?亜希姉、やりたい事あるん?」
「それがあんねん。私、高校卒業して、ウチのお父さんがやってる工務店に入社したやん。経理が足らんとか言うから… 高校も商業科のある学校にして… でもな、私、大型トラックのドライバーになりたいねん。それでな、今、仕事しながら教習所通ってんねん」
「マジで!スゴイな… 」
「そう… あーっ、祐輔、あんたのどうでもええ話聞いてたら、すっかり暗くなってしもうたわあ。私、海に日が落ちるのを見ようと思ってたのに… あんたの性やで」
「海って… 今時分は、日が落ちても海やなくて、明石の奥の方に日は沈むからどっちにしても見られへんよ」
「ああ、そうなん。でも、あの緑色の海、キレイやったなあ。あれ見れただけでも良しとしようか?ほな、祐輔、帰ろか」
「うん」
「自転車と車、どっちが早く帰れるか、勝負やで」
「そんなん絶対無理や」
「そんな事ないで。二国は渋滞してるから」
「マジか?そうやなあ。よし、勝負や。それと亜希姉、一個言うてええ?」
「何?」
「トラックのドライバーになれたらええな」
「せやな」
「トラック乗れたら、俺、助手席乗せてな」
「ああ、二個言うた」

祐輔は自転車に跨った。
亜希は、パーキングへと歩いていった。

辺りはすっかり夜になっていた。
海も暗くなり、横を走る車やJRの車内灯の明るさに紛れて、すっかり存在感を失くし、遠くを行き交う船の灯りが海面を照らしていた。

しかし、それでも、今日見た緑色の海は一生忘れないと祐輔は思った。


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