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やりたい事って何でしょうね?

今はのんびりと田舎に住む暮らしを心地よいと感じている私ですが、若かりし頃(?)は地元から出たい気持ちを強く持っていました。
当時は、地元から出たら(都心部へ行けば)、
『欲しいものは何でも揃うわ、いろんな人に出会えるわ、自分のステータスが上がる(様に感じる)わ』と、
まるで〇ンピースを求めて、海賊王になる為に大海原へ出るような勢いだけの勘違いをぶちかましておりました。
ああ黒歴史…

黒歴史ついでに、当時の自分は、
今の自分は何かダセぇ!絶対変わりてぇー!!
だの、
やりたい事は絶対やるから。悪いけどほっといてくれない?
と、まぁ何とも中身の無い、くっそ生意気で、「やりたい事って何なのよ」と問い質してやりたくなる様な事を思いつつ、今か今かと出て行く機会を虎視眈々と伺っていたのです。
結局は親の事故をスタートにいろんな事が起こりまくって、人生計画を大幅に変更するというオチでしたね、ああ無情。

人生半ばにして、色々感じ自分なりに悟った(つもりの勘違い炸裂)はこさんの「やりたい事って何だろう?」をブツブツ呟いてみようと思います。
お時間が宜しければ、ちょいとだけ覗いてみて下さい。
こんなやつもいますよ、と。

黒歴史から学ぶ事もあるんです(白目)。

『やりたい事とは。…え?何それ?オイシイノ?』

あの時の自分が言っていた事、時々似た様な事言ってる人がいるんです。

「やりたい事やって好きな様に生きる」

何か知らんが、カッコいい。
ウワーン何ソレ、超カッコイイ、ソンナ生キ方シビレル、アコガレルゥ~。
(すみません、ちょっと言ってみたかっただけです。)

えーっと、何を根拠に仰せられていらっしゃるのか…
(別にケンカを売ってる訳では決して無いのですよ、決して、はい。)

現実にやりたい事(夢や目標)があって、プロセスを持ち、それを元にして向かって進みたいんだ!!という確固たる意志があれば「おう、頑張れ!」と諸手を挙げて言えますが、

あの、やりたい事って、そもそも何々ですかね?
漠然とした夢の事を言ってるのでしょうか?
自分が進もうとしている設計図の先の事でしょうか?
流行ってるから自分も乗っかりたいって事でしょうか?
勧められた適性に自分を合わせようと思い込んでいる事でしょうか?
自分の欲望に忠実に生きる事でしょうか?
現状から逃げ出す為の言い訳としての理由でしょうか?

うむ、わからん。

当初のやりたい事がそのまま職となる人もいれば、やりたい事が変わっていく人もいる。
二足の草鞋でやっつけちゃうバイタリティ溢れる人もいる。
やりたい事が分からなくなって迷子になっちゃう人もいる。
やりたい事を諦めて別の道へ行く人もいる。
ま、これ位でいいかと妥協して満足する人もいる。

人は様々で一本道を進む人もいれば、分岐点の多い道を進む人もいる。
老若男女、十人十色、人の数だけ大なり小なり、白でも黒でもグレーでも、やりたい事というものは、わんさかあるもので。
進もうとする道は、まあ好きに進めばいいじゃないか、と。

しかし、人には向き不向きがある。
タイミングに上手く乗れる人もいれば乗り損ねる人もいる。
壁を乗り越えられる人もいればそのまま挫折する人もいる。
最新の世界に居を構える人もいれば、古の世界に身を置く人もいる。
ましてや昨今はAIの時代、人じゃ無くてもいい場合もある訳で。
やりたい事がそのまま自分の全てになっている人なんて、ごく僅かなものなんですよね、現実的に。

100%やりたい事をやって好きに生きるというのは、正直『都市伝説』か何かだと思っています。

「80~90%やりたい事やって生きてます。」は結構いると思うんです、その道の職人さんとか、望んで芸能活動されている方とかね。
やりたい事やって好きに生きているとは言えなかったとしても、趣味なり興味を持った事を「やりたい事」にして、どう反映していくかを考えてみるのも面白いんじゃないんでしょうか。
それをベースに道を開いて行った場合、四方八方壁だらけだったとしても、突破口ってヤツは実に色々な箇所にあったりするんです。
偶にいるでしょ、「趣味がいつの間にやら生業になっていた」という人が。
本当のやりたい事なんて、最初っから肩肘張ってガチガチで挑むのも良いけれど、ちょっと力抜いた方が案外上手くいくものかもしれません。


『やりたい事に対してのレスポンスが、考え方一つでイージーモードだったの巻』

色々経験してきた今だから言える事は「つべこべ言わずに取り敢えず、まあ動いてみろや。」です。
趣味にしろ、興味を持った物事に対しての行動にしろ、己の生業にしろ、未来に向けた準備にしろ、です。
動きもせず、言及もせず、失敗も成功も何も無く、ただ流れを見てるだけ、悶々と心の内に籠りっぱなしで何が出来るんでしょう。
「だって、どうせ、もし」の逃げ口上は、自分を正当化して、自分を受け入れない世界の不満を口にする為の接続語にしか過ぎないんですもの。
逃げて、背けて、塞がって、そして責任から逃れようとする、無意識?に自分の人生を人に背負わそうとする。

だって、できるわけないじゃん。
どうせ、無理って分かってるし。
もし、やってダメだった時どうすんの?
そして「責任取ってくれんの?」までが決まってワンセット。
ダメだった前提で物事始めたら、そりゃダメになるわ、出来たらスゲーわ。

やったー出来た!成功したじゃん!イエーイ!な未来を描いて物事始めるも、残念ながら失敗してトホホな結末だったとしても、それはそれで命取られなきゃ別にいいじゃないの、と思うのです。

「じゃあ次はこうしよう」と経験値に変えられますよ。
「じゃあ新たなルートに進もう」と視野が広がり道が増えますよ。
「しくじった…ダメージでかい」と打ちひしがれたのなら休めばいいですよ。
「どうすればいいの!?」と悩んだら第三者やネットで相談してみたり、あるいは本を読んでみるのもいいですよ。
「これ本当に見合ってるの?」と疑うなら自分自身によく聞いてみたらどうですか。
「やっぱりこっちだったか」と気付いたら素直にそちらへ進んでみたらどうですか。

失敗するのは誰しもが嫌です。
が、しかし誰でも簡単に苦労なくしての順風満帆なんてものは、まずは疑ってかかった方がいい。
必ず落とし穴がある。
中には類稀なる修正能力や回避能力を人外問わずに発揮する方がいらっしゃいますが、まず万人には無理です。
だって、

『にんげんだもの』にスポットを当てた展覧会相田みつを 生誕90年『にんげんだもの』出版30周年記念企画展  より …にちょっとおまけ。

人より頭を使ったからこそ、いろんな知識や技術を身に付けたからこそ、こっそり努力したからこそ、常にどうすれば現状打破できるか考えたからこそ成功がある訳で。
もっと簡単に言えば、その道すがらの工程をしんどい、キツイ、面倒くさいと受け取るか、それもまた楽しと受け取るかで、いずれ見えてくる結果が変わってくるんだよって事です。
どんなに失敗したって生きてさえいれば、何度だって方向修正できるし、キャリアアップ、自分の良質な引き出しとなりますからね。

あ、そうそう。
「わたし、失敗しないので」はちょっと懐かしい女性外科医のスカッと系フィクション話です、アンタ強いね凄いのねと取り敢えず褒めてみますが、あまりオススメできません、あしからず。


実体験から始まるエトセトラ

『昔を生暖かく、遠い目をしながら思い出してみる。』

我ながら何でこんな事、いきなり話出したかと言いますと。
まあ「やりたい事がちょっとわかんなくなった。」とボヤいている人がいまして。
改めて「やりたい事かぁー…。」と考えた時に、ふと若かりし黒歴史…いやいや、問い質してやりたい昔の自分を思い出したんですね。

子供の頃は、絵を描く人か字を書く人(字を書く人って何?)になりたいと思い。
中学生の頃は、デザイン関係か物書き(多分作家の事かと…)になりたいと思い。
高校生の頃は、書家か日本語教師といった国語に関わる職を希望し。
これが当時のやりたい事でして。
「そんなんで本当に食べていけるの?」とよく大人の人に言われてましてね、「悪いけどほっといてくれない?」とか、まぁ碌に説明もせずに、くっそ生意気な事を言ってた黒歴史の自分でございます。
そんな日本語教師の道を目指す為(後で知ったけど博物館学芸員補も取れたらしい)県外へ進学したのですが、父親が事故りましてね。

THE☆とーんぼ返ーり!!

そこから色々、本当に色々、すっごく色々、笑っちゃう位色々ありまして。
紆余曲折を経てからの、身体ぶっ壊してドロップアウトを2回やらかしーのの結果、今に至るのであります。
(この件に関しては、後日noteで書かせて頂きます。)

本当にやりたい事って、何でしょうね。
本当に何々でしょうね。
当初のやりたい事は、出来ませんでした。
現実に直面し、やる事なす事が精一杯で方向転換しました。
ちっともスムーズでは無かったし、人を見る目や考え方が変わりました。
味方だったのかもしれないけれど、結果、敵を増やしました。
超ウルトラスーパーハイパーくるくるぱーな絶対的現実主義者で、第一印象が100%「怖い人」でした。
でも根がこんなんなので、時が経つに連れ、くるくるぱーしか残らず。
至極全うながら、当然の如く上手くいく訳ないよねーって。
周りにいたのは、ごちゃごちゃとただ表面のみ言ってくるだけの「オトナ」と、本当に心配してくれる「大人」と、マジで面倒事には関わりたくない感満載の「ほぼ空気」と、さりげなく気持ちを切り替え笑わせてくれる「友」でした。
「大人」と「友」がいた自分はhappyでしたね、気付くまでに数年掛かりましたけど。

気付いてからは、その時その環境の中でやりたい事が生まれ、それが出来たり出来なかったり。
結果、取り敢えず大なり小なり、やりたい事は何でもやってみました。

得られるものがありました。
失ったものもありました。
引き出しは確実に増えました。
そして、取り巻く環境や世間の考え方がちょっとずつ変わっていきました。
やりたい事に対して柔軟に考えられる様になりました。

年も取ったし、まだドロップアウトの身ですが。
色んな事に興味を持ったおかげで、晩年に向けての設計図がよりぶっ飛んだ面白いものになりそうです。


『前向きな未来を語る気持ちは元気な後ろ向き』

やりたい事があるって、本当に幸せな事だなとこの年になって改めて思います。
根本的にふざけてるヤツが、何を急に言い出すんでしょうね、ああ寒い。
と、もう一人の自分が死んだ目をして冷静に呟いております。

良くも悪くも、やりたい事があるという状況は「やりたい事を考えられる時間と環境がある」事なんです。
自分にもあったんですが、「やりたい事を考えられる時間と環境が無い」と周りが見えずに、超絶現実主義者に変身してしまいました。
現実主義者が悪いという訳ではありません。
現実が見えているのは、高度なスペックで最強の武器でもあります。
が、この場合での現実主義者は「やりたい事」が「今は余計な事」に脳内変換されるんですよね。
上手く選択できない、全て排除すべきものと捉えてしまったんです。

例えば、「よし、この仕事を終えたら寿司でも食べに行こう」という近々で且つ、割合でいうと小さめのやりたい事があるとします。
しかし「やりたい事」が「今は余計な事」と脳内変換されてしまうと、
「まだ仕事中、余計な事考えてる場合か。」「お腹すいたのなら何か小腹満たすやつ後で口に入れとこ。」となってしまうのです。

やりたい事が少々難しくて、ちょっと無理かもと思ったとしても、取り敢えず動いてみる。
「やりたい事が余計な事に変換」されても、突破口の存在を思い出したら、「余計な事をやりたい事に再度変換」してみる。
どう考えても、どう脳内変換してみてもダメだった場合は、もうそのまんまダメだったと捨てちゃうのも有り。
いっその事「やりたい事じゃなかったんだな。」と自己解決して次に進む。
やりたい事を無理に見つけようとしない。

ダメな前提で物事始めてダメだったは当たり前。
できると思って物事始めたけどダメだったは良いんです。
マイナスな中にも、ちゃんとプラスな結果が自分の中に残るので。

やりたい事は何ですか。
自分はやりたい事があるので、それに向けて驀進中です。
この年になってみつけちゃったもんね~。
だってちょっくら前まで暇だったんだもん、入院中ってさ~。
ある意味、子供の頃のなりたいと思ったものが、何十年の時を経て叶うかもしれんのですよ。
おーっとビックリ、何てこったい、いやはや分からんモンですな。

楽しいねぇ。
追い込まれたら、ちょっとだけしんどいけれど。
うん、やっぱり楽しいねぇ、やりたい事は。
寝不足の顔が凄まじくブサイクだったけれど。
以前より我ながらいい顔してるもん、贔屓目1000%だけど。

何にもないよ…って人もいるでしょう。
嘗ての自分もそうでした。
まずは、やりたい事を見つけてみる所から始めるのも楽しいですよ。
「あ、これ好きかも…」でいいんです。
「もうそんな年じゃないし」でリミッター掛けないで下さい。
何だっていいんですよ。
見つけて、気持ちが傾いて、目が活き活きし始めた時の自分における相乗効果は抜群ですから。

やりたい事って何でしょうね?
ええありますよ、やりたい事!

と返す人がどんどん増えるといいですな。

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