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住職のお話

金曜日、祖母が亡くなった。92歳だった。

最後の10年は施設で過ごした祖母。歩行に若干の不自由はあったものの、頭はしっかりしていて、施設生活の中で介護レベルが下がった。年齢にしては若い人だった。それでも、3年前、実質的に長男である父に、戒名を作りたい、と申し出た。自分の後先を整理しておきたかったのか。

個人の戒名を不特定多数の目に晒すのも考え物だが、祖母は反対しないだろう。祖母の戒名は、「麗幸院妙法清蓮大師」。少し説明したい。「幸」は祖母の俗名から、「麗」はそれを形容する。「妙法」は祖母の信仰に基づく。「蓮」というのは、祖母が生け花を趣味としていたことからとった。一つの名前に「麗」と「蓮」が入っており、なかなか派手だ。「キラキラネームならぬキラキラ戒名ですかね」。父は嬉しそうにこう形容した。

「戒名を授かるというのはどういうことでしょうか。これは、仏様の弟子になる、仏門にはいるということなんですね。私事で恐縮ですが、私が仏門に入った経緯について、少しお話しさせていただきます」。住職は戒名から自分の経歴に話をつなげた。この話には惹かれるものがあったので簡単に共有したい。以下、住職の話。

 
“私は、学生を終えたのち、3年ほどアルバイトをしながらふらついていました。その後、〇〇セッタンという、中条の住職のところに弟子に入りました。その人は、こんな人になりたい、思えるような、私にとって憧れの人でした。弟子入りを志願すると、〇〇と言われ、断られました。数年後、もう一度の師匠の門をたたいたとき、ちょうど兄弟子にあたる人が出たということもあり、私の弟子入りが決まりました。

しかし驚いたことは、弟子入りするまでは憧れの人物だった人が、豹変して、鬼のようになってしまいました。私が入門してから初めての法事の前日、読経の練習をしていると、「練習なんかするんじゃない」と怒鳴られました。私と別の弟子は師匠の言葉の意味がわからず、ポカンとしていました。

翌日、法事の日、練習不足の私は当然まともな読経ができません。帰りのタクシーの中で、「お前など死んでしまえ」と師匠に言われました。私は、とんでもないところに来てしまったな、と思ったことを覚えています。

ここで、師匠の言った「死んでしまえ」というのは、お釈迦様の弟子になるに際して自分を捨てろ、滅しろという意味でした。自分という存在がないように努めるも、なかなか一朝一夕ではいきません。「お前のお経は聞くに堪えない」。師匠からはこういわれる毎日でした。やってもやってもだめ。あまりにもうまくいかないので、ある日、どうでもよくなり、何も考えないまま、てきとうにお経を読んだ日がありました。すると、師匠からは、「今日の読経は悪くなかったな」と言われました。私はますます訳が分からなくなりました。

私が悪戦苦闘する中、仲間の弟子はどんどん師匠に認められていきます。私は焦るばかりです。努力とは、今の自分から、自分が目指す理想の自分への姿になるべく力を注ぐことです。私の場合は、だめな自分から、仏様の弟子になりたいと思ってお勤めをしていました。

そんな中、自分が無理をして、仏門に入ろうとしていることに気づきました。「自分がやりたいことをやろう」。私がやりたかったのは、世界旅行、そして、車が好きでしたから、仕事は、車が運転できる仕事であればなんでもいいと思いました。こんなことを言っては失礼かもしれませんが、ごみの回収車。お寺には毎日ごみ収集車が来ます。あの仕事なら人のためになる。
仏教をやめることを決意した私は、お寺から出る最後の一週間のお勤めを、本当に楽な気持ちで過ごしました。だって、もう仏教を目指さなくていいわけですから。心が軽くなりました。そのとき、私はありのままの自分になりました。これが解脱だったんです。

私はすぐに先生のところへ行き、このことを伝えました。「なんだ、ようやくわかったのか」。私は自分がようやく修行のスタートラインに立つことができました。

菩提寺からの風景



曹洞宗では、これを心意識の運転を停める、と言います。人間誰しも、ああなりたい、これが欲しいと思い、希望や欲に向かって動いていきます。私の場合、それは仏教でした。人間、自分をアップデートしようと、そう思ったときに四苦八苦が始まります。ちょうど、こんな風にして、地図を見ながら、あっちでもない、こっちでもないと試行錯誤して、目的地を目指す運転手のようです(手でハンドルを握る真似をしながら)。

自分で自分を背負って苦しんでいる状態。辛いと思います。釈迦は、これをどう克服したか。その解決が脱落でした。ありのままの自分を受け入れ、自分を忘ずる(住職はこれを「アンインストール」と言った)。道元は、この脱落・解脱に至るための修業として座禅を普及しました。

自分を一人称として世界を見ているうちは、人生は苦しいものです。自分自身から脱落する。これによって居心地の良い世界に至ることができるのです。

話が長くなってしまい恐縮ですが、私が言いたいのは、Sさん(祖母)は、自ら、仏様のお弟子さんとなって、皆さんにありのままでいることの大切を示しておられるのです。皆さん、何か辛いことがあったときは、肩の力を抜いて、脱落ということを思い出してみてください。"
 

意味が通るように、若干校正を加えたが、話の趣旨に相違はないと思う。

なぜ私はこの話にひかれたか。自分の心の中に、住職の話で思い当たるものがあったからだ。就職して4年目。望んで入った職場だが、周りと比べて給料は安く、海外駐在の機会も少ない。どこか自分が描いていたイメージと違う。学生時代の友人は研究や大企業で海外へ赴任。ああいう風になりたい。もっとこうだったらよかったのに。こんな感情を抱くことが少なくない。

目標や欲を追いかけ、いろいろと行動する自分自身の様子は、まるで夜中の山中をライトなしで走るようなものだと思った。ありのままの自分を受け容れるのは簡単なことではない。ただ、座禅による脱落、という手段があることは知れてよかったと思う。

そんなきっかけを与えてくれた祖母に感謝しようと思った。

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