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本当に捨てたかったのは、目に見えないモノ

自分の長年の思考は、
それが当たり前になってしまっていて、
無自覚になります。

私は心の中に、
幼少期〜現在までずっと、

『幸せになってはいけない』
『楽しんではいけない』

この思い込みが、
へばり付いていたみたいです。

これは、
いつも不機嫌な母親から受け継いだ、
癖みたいなものです。
母親の顔色をうかがうことで、
自分の身を守っていました。

私は早くに母親を亡くしているのですが、
この思い込みが残っている事など、
それが当たり前になり過ぎて忘れる・・・というか、その思考と一体化していました。

だから、

いつもコソコソ生きていたし、
罪悪感がありました。

その【捌け口】が、物に現れていました。


自分が楽しくて喜ぶこと、
自分が幸せで安心すること、

そんな事に、お金や時間を使うと、
いつも居心地が悪く感じていました。

その事を私は、
『本当は欲しく無いのかも』

そう思って、
ミニマリズムで解決していたんです。


何かを購入したり、
遊びに出かけたり、
自分の為にお金を稼ぐ

罪悪感を感じる、苦しい

『浪費だ、買って意味があるの?』
『虚しい、心に穴が開く』
『貴方が働く意味は無い、貴方に価値は無い』

こうやって責められるループが苦しくて、

でも、

【本当に手放すべきもの】を手放していないので、

また、何かを買ったり、衝動的に外に出たりしてしまうのです。
働いている時も、地獄の心地なのに、辞められませんでした。

この流れを、
ミニマリズムに出会ったことで、
一旦止める事ができました。

ですが、それは、
スタートラインに帰っただけということに、
長年気付きませんでした。


本当に手放したかったのは、
【罪悪感】です。


罪悪感を手放して、
私が喜ぶことや幸せなことを、
ストレス無くやりたかったのです。

コソコソせずに、
堂々と生きたかったのです。


ミニマリズムで物質的には量が減り、
新規購入や、遊びや、行動は、
質を考えるようになりました。

より、慎重になったのです。

私はこの事を、
『本質的になっている』
と、勘違いしていました。

実際、幸福感自体は圧倒的に改善されていました。
なので、
『幸せになってはいけない』
この罪悪感は、上手に手放せていたのだと思います。

けれど、

喜びや、豊かさ、
『人生を楽しむこと』については、

ミニマリズムの皮を被った、
善意の監視───そういった言葉や態度を、自分にかけていました。

自分は無力だと思い、
勉強や労働への意欲を無くしていました。
安定収入も、精神を病み、手放しました。
(ただし、これらは『休める』という幸福感としては大変役に立ちました)

物を買う時や、
遊びに行く時、
自分の健康や暮らしに必要なものを揃える時、
一歩、自分の外の世界に出る時、
常に、虚しさや苦しさを感じて、怯えていました。


そして、SNSや動画サイトを見て、
『ああ・・・羨ましいな』
と、ため息を吐いていました。


でも、自分に何が出来るかなんて、
【ワカラナイ】
と、思っていました。

確かに、結果の保証は無いかもしれません。

けれど、
何が出来るか【ワカラナイ】では無くて、

気付いてはダメだと、思い込んでいたんです。

気付いたら行動してしまう、
そしたら、
楽しい人生を手に入れてしまうかもしれない。

そんなこと、許されない。
怖い目に遭う。
バカにされる。
あの頃のように────。


文字にすると、何だが大げさな感じがしますが、

これらの感情は、
内側・・・つまり、目に見えないモノですから、

無自覚です。


私が本当に手放したかったのは、

この罪悪感です。

罪悪感が投影される対象である、
・買ったもの
・遊び
・お金
・仕事

これら投影先ばかり、
手放していました。


そして、手放すことが出来なくなれば、
ミニマリズムの知識で、
ダイレクトに監視していました。

手放すモノは無くても、
自分は生きているのですから。

矛先は、自分に向かいます。


けれど、安心して下さい。


今回の私の気付きのように、
一見恐ろしいように見えて、
コインの裏にチャンスがあります。

こんな罪悪感まじで手放したいもん(笑)

しかも無自覚だから、厄介だったし(笑)

けれど、この罪悪感に
【守られてもきた】わけです。

だから、感謝と労いを添えて、バイバイ。


2024年───厄を手放せたような気分で、またひとつ身軽になりました。

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