蜻蛉日記の話②期待外れの最低プロポーズ

ルール無用の求婚手続き/夢見る文学少女/しょーもない紙で字も汚くてとにかくめちゃくちゃみすぼらしかった/音にのみ聞けば悲しなほととぎすこと語らはむと思ふ心あり/歌を咎める/彼女があえて書かなかったこと/夕ぐれのながれくるまを待つほどに涙おほゐの川とこそなれ/技巧を尽くした後朝の文/一晩はいいけど二晩は許せない/もっと和歌で繋がりたい/父の離京/君をのみたのむたびなる心にはゆくすゑ遠く思ほゆるかな/われをのみたのむと言へばゆくすゑの松の契りも来てこそは見め/「末の松山」って何?/契りきなかたみに袖を絞りつつ末の松山波越さじとは/貞観地震/君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波も越えなむ/変わらぬ愛/出産後の思いやり/町の小路の女


【以下、文字起こし】

さて、蜻蛉日記解説の第二回です。今回は早速本文に入っていきましょう。教科書に載っている「町の小路の女」のエピソードって、あそこだけ読むとイマイチ面白さがわからないんですけど、前後の文脈を知ると結構深みが出てくるので、それを目指して今回は頑張ります。

前回お話ししたように、蜻蛉日記の上巻は、藤原道綱母が19歳の年からスタートします。なぜそこから始まるのかっていうと、兼家から求婚されるのがその年だったからです。

さて、あはつけかりしすきごとどものそれはそれとして、柏木の木高きわたりより、かく言はせむと思ふことありけり。

と書いてあるのですが、途中出てくる「柏木」って言葉は、兵衛府で働いている人たちのことを指します。このとき兼家は右兵衛佐という役職だったので、彼から求婚があったんだ、ということを洒落た言い回しで表現していることになる。

ただ、ここで面白いのは、手前に書かれている「あはつけかりしすきごとどものそれはそれとして」って部分ですね。

「あはつけし」っていうのは、重みのない、軽々しいニュアンスを表す言葉です。「すきごと」ってのは色恋沙汰のことですから、これ何言ってるかっていうと、兼家から求婚される前にも恋愛絡みのイベントはあったんだけど、それはもう全部省略しますねって話をしている。

そりゃまぁ、美人で和歌の上手い女性なんて当時絶対モテるから、実際いろんな男から声かかってたんでしょうけど、それ、わざわざ書く必要ある? って疑問も湧くので、これを書いたって事実そのものが、藤原道綱母という女性の人物像を思い描く参考になりますよね。

では、本文続きを読んでみましょう。

例の人は、案内するたより、もしは、なま女などして、言はすることこそあれ、これは、親とおぼしき人に、たはぶれにも、まめやかにも、ほのめかししに、「便なきこと」と言ひつるをも知らず顔に、馬にはひ乗りたる人して、うちたたかす。

ここ何言ってるかって言いますと、兼家が求婚してくるにあたってね、世間一般的には、然るべき仲介者とか仲人を立てるか、せめて女房づてに手紙で申し込んでくるのが、普通の作法だっていうんですよ。

だけど兼家は、父親である倫寧と顔を合わせたときに、面と向かって仄めかしてきたらしい。しかもそれが本気なのかふざけてるのかわからない感じだったと書いてある。これ、家柄のランクが違いすぎるから雑に扱われてるって側面もあるとは思うんですけど、根本的な兼家の人柄というか、性格に起因する部分もおそらくあって、この人、終始こんな感じなんですよね。デリカシーないというか、細かいことあんまり気にしないで、なんでもかんでも冗談にしちゃうような男なんですよ。そこが魅力でもあり、器の大きさだとも思うんですけど、道綱母はね、多分一生、兼家がちゃんとプロポーズしてくれなかったことを怒ってたと思うな。

まぁ、それはそれとして。父親がね、仄めかされた兼家の意向を持って帰ってきたとき、一家騒然としたはずなんですよ。え、まじで!? あの、右大臣家の貴公子が、うちの娘と!? って、絶対なった。道綱母本人も、正直感激したと思います。でも、だからって言って安請け合いするわけにはいかないから、「便(び)なきこと」、釣り合いの取れない関係性なので不都合です、という反応を一応返していたらしい。

だけどまぁ、それは建前ですから。兼家と倫寧の間でどんどん縁談は進んでいって、やがて、何月何日のこのときに結婚の申し込みを送りますって日取りが固まった。

当時まだ10代だった道綱母は、その日がやってくることを、どれほど胸ときめかせて待っていたでしょうか。

これ、蜻蛉日記全体を読んでるとわかるんですが、「古物語」とか「昔物語」って言葉が、本文中にしばしば出てくるんですね。当時はもう、仮名文字で書かれた物語というのが結構たくさん普及していた様子で、現存しているものはわずかなんですけど、特に貴族の家のお姫様たちは、女房に読み聞かせしてもらって、物語の世界に浸りながら子供時代を過ごしました。

道綱母って、文学的な感性の鋭い人でしたからね。多分、普通の人以上に深く、物語の世界をインストールしてたと思うんですよ。そんな彼女が、夢みたいな玉の輿に乗ったわけですから、きっといろんなこと想像してたはずで、ひょっとしたら彼女の人生って、この結婚する直前の時期が一番キラキラしていたかもしれません。

ところが、実際にやってきた求婚の使者は、彼女の想像を絶するものだった。これが本当、可哀想というか、面白いというか、なんとも言えないんですけど。馬に乗った武官が突然家に乗り込んできて、でけぇ声で騒ぎながらどんどん門を叩いたっていうんですよ。こんなの求婚の作法としてあり得ないし、普通の日常生活送る中でも、そうそう体験しないことだった。

だから家の中は騒然としたし、道綱母としては、全然想像してなかった展開だったと思うんですけど、それ以上にショックだったのは、この馬に乗った使者が持ってきた求婚の手紙が、滅茶苦茶雑だったことなんですよね。

紙なども例のやうにもあらず、いたらぬ所なしと聞きふるしたる手も、あらじとおぼゆるまで悪しければ、いとぞあやしき。

と本文中には書いてある。

当時って手紙がコミュニケーションの主要な手段だったので、その内容だけじゃなく、何にどういう字を書くか、ってとこまで含めて、メッセージとして受け取ったんですよね。というか、その手紙全体がもう、相手そのものみたいなところがあった。

で、兼家が送ってきた手紙は、しょーもない紙で字も汚くて、とにかくめちゃくちゃみすぼらしかった、と書いてある。

しかもこれってね、もともとの期待値が低かったらまだ許せたと思うんですよ。でも兼家っていいとこのお坊ちゃんだから、ちゃんとした紙を用意する財力は十分あったはずだし、字の美しさについても、見苦しいところはないって評判だったらしいんですよね。だから道綱母は、これ本当に兼家本人が書いたの? 嘘じゃない? と思うほどだったって、わざわざ書いている。

だからイメージとしては、裕福で万事スマートな男性が、立派な身なりと整った振る舞いで、ロマンティックなプロポーズをしにきてくれるはずだって夢見てたら、人違いかと思うくらい見窄らしい格好した人が、ガラの悪い乗り物からどやどや騒ぎながら降りてきて、めっちゃくちゃ雑に結婚の手続きだけ済ませようとしてきた、くらいの落差があった。ショックだったんですよね、これが、彼女はすごく。

おまけに手紙の内容も酷くて、そこには和歌が一つ書いてるだけでした。本当は、求婚するときってもうちょっといろんなこと書いてるはずなんですよ。だからそこも手抜きだし、一番肝心の和歌も、明らかにやる気ない作品だった。

音にのみ聞けば悲しなほととぎすこと語らはむと思ふ心あり

ほととぎすって鳴き声が特徴的で、古くから愛されている鳥なわけですけど、声だけ聞こえて姿は見えないってことがしばしばあるわけですね。それと同じように、あなたについても噂ばかりが耳に届いて、その姿を見ることができないのは悲しいです、と。ぜひ、直接顔を合わせて親しい関係になりたいと思っています。みたいな歌ですね、一応。

この歌の、どこがどうやる気ないのかってことは、道綱母が送った返歌と比較したらわかりやすい。

語らはむ人なき里にほととぎすかひなかるべき声な古しそ

あなたが語らうに相応しい相手などいないこの辺鄙な場所で、甲斐もなく鳴いて、声を使い古すのはおやめなさい、ほととぎすよ。みたいな感じの歌ですね。直接会いたいなんて言ってきても無駄ですよってことです・

この時代、男から送られてきた恋歌っていうのは、しばらく突っぱねるのが作法なんですよ。だから相手が詠んできた「ほととぎす」とか「語らふ」って言葉を承けながら、拒絶的な内容に仕立て上げている。おまけに、「かひなし」の「かひ」って部分は、卵のカラを表す「かひ」って単語との掛け言葉になっていて、さりげなく技巧を凝らしているところも手がこんでいます。

ていうか、この「かひなし」の掛け言葉って、本来なら兼家が先に用いるべきなんですよね。「音にのみ聞けば悲しなほととぎす」の「悲しな」って部分は、「かひなし」と差し替えてもいいわけで、その程度の工夫を入れ込む努力すらしなかったところがやる気ないって言われてるわけですね。そもそも、下の句の「語らはむと思ふ心あり」って滅茶苦茶リズム悪いし、あと、ほととぎすから聞こえてくるのは「音」より「声」の方が自然だから、「音に聞く」って表現と「ほととぎす」を無理やりくっつけてるところもちょっと苦しい。

そういう、兼家の歌のダメなところを咎めるニュアンスも、道綱母の歌からは読み取れるんですね。

そもそも彼女は、兼家のやりようがあんまり酷いから、最初は歌を返すつもりすらありませんでした。別にそれも、作法としては許されるんですよ。むしろ、男から送られてきた歌をいきなり女性本人が返歌する方が稀で、無視したり、女房や母親に代筆させたりするケースが多くみられました。

ただ、彼女のお母さんが古風な人で、こんな良い家柄の息子から送られてきた歌を無碍にするのも拙かろうって急かすもんだから、仕方なく自分で作って返したんだ、というような事情が、ここまで具体的には書かれていないんだけど、多分そうだったんだろうなと伺われます。

ここでね、親に言われて返事書きました、まではまぁいいけど、その返事の歌の中に、相手のやる気のなさを咎めるようなニュアンス込めちゃうところが道綱母って女性の彼女らしいところですよね。

そういう彼女の不満を、兼家の方でも察したらしく、その後徐々に、兼家が送ってくる歌がまともになっていくんですよ。それを全部具体的に紹介したらキリがないので省きますが、結構涙ぐましい努力で、手を替え品を替え新しい歌を捻り出している。兼家って人は、熱し易く冷め易いタイプで、始まったばかりの恋にはやたら熱心な人なので、どうやらこの時もかなり頑張ったらしい。

なんでそんなに頑張るのかっていうと、最初の一回以降、道綱母自身で歌を返すことがなくなってしまったからです。適当にやり過ごそうとしたり、女房に代筆させたりしてね。この辺りの振る舞いもなんというか、まぁ、良いように表現するなら気高いですよね。

凄まじい身分差があるにも関わらず、相手におもねったりせず、自分が満足できる和歌のやり取りが成立するまで相手を試し続けている。

で、ここで面白いのは、季節が夏から秋へ移って、日記の記事が切り替わったタイミングで突然、道綱母自身がちゃんと自分で返歌を返すようになってるところなんですよ。

鹿の音も聞こえぬ里に住みながらあやしくあはぬ目をも見るかな

っていう兼家の歌に対して、

高砂の尾上わたりに住まふともしかさめぬべき目とは聞かぬを

って返したり、

逢坂の関や何なり近けれど越えわびぬれば嘆きてぞ経る

って歌に対して、

越えわぶる逢坂よりも音に聞く勿来をかたき関と知らなむ

と返したりしている。

これらの歌についても詳細な解説は省きますが、簡単にいうと、「あなたに直接逢えないせいで辛いなぁ」って歌を贈ってくる兼家に対して、「そんなこと言っても無駄ですよ!」って歌で道綱母が切り返す構図を繰り返しています。

一見すると思いっきり拒絶しているように見えますが、さっきも言ったように、恋歌のやり取りの上で女性が相手を突っぱねるのは作法ですから、むしろ鋭く切り返せば切り返すほど、ちゃんと作法通りに自分たちの恋を進展させようとしていることになる。ここで大事なのは、彼女がちゃんと自分で歌作って返してるってことで、その客観的事実が、彼女の内面的な変化を仄めかしている。いつの間にか仲良くなってるんですよ、この二人。そしていつの間にか、あとちょっとで直接逢えそうな雰囲気を醸し出している。

にも関わらず、そういう途中経過が蜻蛉日記には一切書かれていません。滅茶苦茶酷い期待外れのプロポーズされましたって記事があって、向こうは何回も歌を送ってきたけど私は直接返事しませんでしたって記事があって、その次、季節は秋になりましたって言い出したかと思ったら、なんかもう仲良くなってるんですよ。

こういうところに、蜻蛉日記の文学的な複雑さと面白さがありますね。前回説明したように、蜻蛉日記ってのはリアルタイムに毎日かかれていったものではなくて、後になってから過去を振り返ってかかれたものだと考えられています。特に、今回紹介している上巻は体験と執筆の間の距離が大きくて、19歳とか20代のときのこととかを、30代半ばを過ぎてから書いてるんですよね。

多分、手元に残してた和歌や手紙を作品メモとしてつぎはぎしながら書いたんだと思うんですけど、そのとき当然、何を書いて、何を書かないか、という編集意図のようなものが彼女の中で働いたはずです。それを細かく斟酌しようとすると、非常に深い論考が必要になってしまうので省きますが、一つの傾向として、幸福だった時間とか嬉しかったことをあんまり書かない、って傾向は指摘できるように思われます。

だから一見すると蜻蛉日記って、夫への不満ばっかり書いているように映るんですけど、通しでゆっくり読んでいくと、言葉の端々から、とはいえこの時期は幸せだったんだろうな、ウキウキしてたんだろうな、とか、彼女の機嫌を取るために兼家頑張ってたんだろうな、って、微笑ましい様子が伺われます。

そんなこんなで関係を深めた二人は、とうとう直接対面し、結婚の日を迎えます。本文でどう書かれているかと言いますと、

いかなるあしたにかありけむ、
夕ぐれのながれくるまを待つほどに涙おほゐの川とこそなれ
返し、
思ふことおほゐの川の夕ぐれは心にもあらずなかれこそすれ

「いかなるあしたにかありけむ」っていうのは、古文特有のお上品な言い回しで、いったいどういうことがあった日の翌朝だったでしょうか、って感じですね。

これはつまり、二人が初めて直接顔を合わせて、深い関係になった夜の翌朝ってことですね。でもそういうこと、古典文学は具体的に描写しないので、こういう曖昧な表現になるわけです。

当時の恋愛っていうのは、男性が女性の家へ訪ねていく形式を取りますから、夜を一緒に過ごしたあと、朝になったら出ていくんですよね、男は。そしてその後すぐに和歌を送ることが作法だった。これを「後朝の文」といいます。後ろの朝と書いて後朝(きぬぎぬ)です。

これ、恋愛においてかなり重要な作法で、後朝の文をちゃんと作らなかったり、出すの遅れたりすると、女性の側は滅茶苦茶悲しくなるんですよね。あ、私ってイマイチだったんだ、ってなる。

だから兼家が贈った和歌も相当気合い入っていて、「夕ぐれのながれくるまを待つほどに涙おほゐの川とこそなれ」って歌の中に、かなりの技巧を詰め込んでいます。

まず、「夕ぐれ」の「くれ」が、「榑木(くれき)」っていう、山から切り出したあと、川に流して運搬する材木との掛け言葉になっているんですね。

で、「ながれくるま」は川の水や材木が流れるって意味にプラスして、恋しくって泣けてくるって意味の「泣かれ」が掛かっているし、「涙おほゐの川」には、恋し涙が多いって意味と、「大井川」の地名がかかっている。

総合すると、あなたに再び逢える夕暮れを待つ間、恋しさの涙が溢れて止まりません。その涙の流れはさながら、榑木を運ぶ大井川の流れのようです。ってな具合のね、なんぼほど泣いとんねんってくらいオーバーな表現なんですけど、まぁ、男女の愛情がもっとも高まっているタイミングの歌ですから、これくらいでちょうど良いんですよね。

これに対して道綱母の返しは「思ふことおほゐの川の夕ぐれは心にもあらずなかれこそすれ」って歌で、兼家の歌の表現を踏まえながら、私も夕暮れには物思いが多いので、心ならずも泣けてしまいます。と訴えている。

以前までとは打って変わってしおらしい歌ですけど、これも当時の作法なんですね。結ばれるまでは女性の側が男のことを突っぱねまくるんですが、いざ一線を越えると、こうやって相手を恋しがって見せます。

特に彼女の場合、次の日の夜も兼家が訪ねてきてくれるかどうかってことは非常に切実な問題だった。昔「藤原道長の恋愛事情」って回で軽く説明したこともあるんですが、当時って、男性が女性の家を三夜連続尋ねたら結婚成立なんですよ。だから逆にいうと、兼家があと二日連続で通ってくれない限り、道綱母の玉の輿は破談となってしまう。まぁ親にちゃんと話通してある縁談ですから、今更ダメになる可能性なんて普通はないんですけど、万が一の可能性として、噂ばっかり美化されてて、実際顔を合わせてみたらイマイチだったわ、で結婚不成立となったら悲惨ですから、彼女としても、夕暮れ時には色々切実な物思いがあるんですね。

このあと本文には「また、三日ばかりのあしたに、」とあって、二人の歌の贈答がもう1組掲載されていますから、兼家は順当に三夜連続で彼女を訪ね、晴れて結婚成立となったようです。

これが、最悪のプロポーズから結婚成立までの馴れ初めなんですけど、贈られてくる和歌の変遷を見ると、兼家の側がかなり頑張って、道綱母が要求するハイレベルなやりとりに合わせようとしている様子が伺われます。彼女は多分、それが結構嬉しかったはずで、このあたり、若い男女の関係性として微笑ましくて良いんですが、いざ結婚が成立してしまうと、また色々事情が変わってくるんですね。

例えば、結婚成立後、二つ目の記事には、こんなことが書かれています。

つごもりがたに、しきりて二夜(ふたよ)ばかり見えぬほど、文ばかりある返りごとに、
消えかへり露もまだ干ぬ袖の上に今朝はしぐるる空もわりなし

「つごもり」ってのは月末ですね。「しきりて」というのは繰り返し何度も、という意味で、これが「二夜(ふたよ)ばかり見えぬ」にかかってますから、二晩連続で尋ねてこないことが何度か繰り返された、ということです。

これ意味わかりますか? 繰り返しになりますが、当時の恋愛って、男性が女性の家を訪ねるんですよ。だから、訪ねるかどうかの意思決定は男性の側に委ねられていて、軽く扱われている女性のところには、めったに通わない、という現象が起こる。

そして、本文中にはまだ書かれていないんですけど、藤原道綱母って、兼家にとっては二番目の妻なんですよね。最初の妻は時姫っていう女性です。だから、仮に道綱母と時姫とを均等に愛そうとしたら、一晩交代で交互に尋ねることになりますよね。

道綱母も、そこまでだったら我慢できるんです。もちろん、本当は1日と空けず来て欲しかったと思いますよ? 結婚が成立する前後の、一番恋が盛り上がっていた時期には、毎日アプローチがあったはずですからね。それでもまぁ、時姫さんの方にも通わなきゃいけないのはわかるから、一晩会えない夜があるのは仕方ないなって、多分割り切っていた。

ところが、二晩連続来ない日が繰り返されるとなると、これは話が変わってくる。え、私の優先順位、ずいぶん下がってきてない? と、不安や不満が募る。

この、一晩ならいいけど二晩は許せないってところが、初心で可愛いんですよね。のちにはもう、二日どころじゃない期間放っておかれるようになっていくんですけど、結婚したばっかりの頃の彼女には、「二日も連続で来ないのよ!?」っつってプリプリ怒るいじらしさがありました。

兼家って、基本大雑把なんだけど、細かいところのケアは最低限ちゃんとする人でもあったから、この二番連続で会いにいけなかった日も、釈明の手紙は出してるんですよ一応。けどそれが彼女はかえって不満で、なんでかっていうと、手紙に和歌が添えられてなかったからなんですね。それがさっき引用した、「文ばかりある」という本文に表れています。「気持ちがこもってない!」って、ことなんでしょうね。道綱母からすると。

兼家って人は、頑張ったらそこそこちゃんとした歌を作るので、和歌が滅茶苦茶苦手だったわけではないと思うんですけど、気合い入れて歌を詠むことを億劫に思っている節があって、湯水の如くスラスラ名歌を生み出せる道綱母とは、感覚的にすれ違う部分がありました。

だから今回、寂しさを訴える道綱母の和歌に対して、兼家も一応返歌を返すんだけど、その歌に対して彼女が次の歌を返そうと準備しているうちに、彼は直接家まで尋ねてくるんですね。

「返りごと書きあへぬほどに見えたり。」と本文には書かれていて、それはそれで嬉しかったんだろうけど、肩透かしを食らっているような呆気なさも読み取ることができる記述となっています。

多分彼女からしたら、もっとたくさん和歌でコミュニケーションしたかったんだと思うんですよ。その方が心で繋がれるって、おそらく彼女は信じている。だから返歌を準備していたわけですけど、でも兼家からすると、寂しさで機嫌を損ねてるんだったら、会いにいく時間を作ってさっさと顔を合わせた方がよかろう、って判断になるんですよね。

こういうすれ違いが二人の間にはしょっちゅうあって、和歌のやり取りをスキップして直接会いに来る兼家のことを、彼女は「自ら来て紛らはしつ。」と表現しています。

この、兼家は兼家なりに頑張って気を遣ってるんだろうけど評価してもらえないシリーズが蜻蛉日記にはしばしば見られて、例えば、二人が結婚した後すぐに、藤原倫寧が陸奥国に旅立ってしまうんですね。

前回も解説しましたが、倫寧というのは、藤原道綱母の父親にあたる人物です。彼は陸奥国の受領に任じられていましたので、京の都を離れて東北地方へ引っ越さなければなりませんでした。一度赴任すると、3年くらいは帰ってこれません。

彼女はそれが滅茶苦茶辛いんですよ。それは単純に、親子が仲良しだったから寂しくて離れがたい、って意味だけではなくて、倫寧の存在が、自分と兼家の関係性を繋ぎ止める仲介役でもあったからなんですよね。

貴族の家庭の女性って基本的には家から出ませんから、ただひたすら、男の来訪を待ってるしかないんですよね。けれど、男性同士は職場で顔を合わせるので、例えば倫寧が平安京の中に残ってくれていたら、兼家と娘の関係が疎遠になったときに、なんかのついででこそっと、「たまにはうちの娘のところにも顔を見せてやってくれよ」的なことを頼めるじゃないですか。こういうの、実際結構大事なんですよ。

だから道綱母は父の出立が不安で仕方ないし、倫寧としてもその気持ちはわかるから、娘を思って涙を流しながら、一通の手紙を書き残しました。

彼女は最初、別れが辛すぎてその手紙を読む気にもなれなかったんですが、ちょっと気持ちが落ち着いたタイミングで内容を確認してみると、どうやら兼家宛の和歌を書き残しているらしかった。

君をのみたのむたびなる心にはゆくすゑ遠く思ほゆるかな

という歌で、なんというかまぁ、「君だけが頼りだから、どうか行く末まで娘のことをお願いします」ってな感じの、悲痛な歌ですね。

これ読んで、道綱母はまた具合が悪くなるんですよ。そうこうしているうちに、兼家本人が彼女のもとを訪ねてくる。彼は意気消沈している彼女に対して、「どうしてそんなに悲しんでいるんだ、こんな別れは世の中ざらにあることだよ」と声をかけます。そして、「ははぁ、ここまで酷く悲しんでいるのは、私のことを信頼してないせいだろう」といって、彼女の心を汲み取って見せました。

やがて倫寧の和歌を発見した兼家は、その内容に感じ入った様子で、次の和歌を読み、倫寧のところへ届けさせました。

われをのみたのむと言へばゆくすゑの松の契りも来てこそは見め

この歌の言わんとするところを理解するためには、「末の松山」という歌枕について説明しなければなりません。

これに関連する情報として、みなさんにとって一番馴染みがあるのは、百人一首で清少納言のお父さんが詠んでいる、「契りきな かたみに袖を絞りつつ 末の松山波越さじとは」という歌でしょう。

約束しましたよね。互いに涙で袖を濡らしながら、末の松山を決して波が越えないように、私たちが心変わりすることはないと。

みたいな感じの恋歌なんですけど、この、「末の松山を波が越えない」って一体何? って話になりますよね。

これ、東日本大震災が起こったときに注目されたことなので、聞いたことがある人もいるかもしれませんが、実は平安時代にも一度、大地震と津波が東北地方を襲ったこと、あるんですよ。西暦869年。その年の元号をとって、貞観地震と呼ばれています。『日本三代実録』という歴史書によれば、津波の被害だけで一千人の死者が出たそうです。

時の帝は清和天皇、若干二十歳。彼は詔を発して、蝦夷を含むすべての遺体をちゃんと埋葬するよう命じたと言います。

これどういうことかっていうと、当時の東北地方って、全てが日本人、っていうと語弊があるな、全ての人が大和朝廷を中心とする政治機構の中に収まっていたわけではなくて、そういう外部の人々のことを蝦夷(えみし)って呼んでいたんですね。

で、そこには争いがあるわけですよ。支配する範囲を拡大したい大和朝廷側と、それを拒む蝦夷の間でね。だから朝廷は、征夷大将軍坂上田村麻呂とかを東北に派遣して、度々武力衝突を起こしていた。征夷大将軍って、源頼朝が任命されてから江戸幕府が滅びるまでは、ただの名誉職というか、武家のトップを表す称号みたいになっちゃいましたけど、もともとは、蝦夷を征伐するための将軍って意味ですからね。

で、貞観地震のときの清和天皇は、そうやって争っていた蝦夷も含めて、すべての被災者を弔ってやりなさい、と命じたわけです。

ちなみに、こうやって東北地方で戦っていくにあたって、戦略拠点として建造されたお城がいくつかあるんですけど、そのうちの一つである多賀城のそばの海辺に小高い丘があって、そこに松の木が生えていました。これを「末の松山」といいます。高いところに生えていた松だから、「松山」の部分は納得できるんですけど、「末」要素はどこからきているのかわかんないね。増田繁夫先生は、多賀城の近くの海辺に「末」という地があった、と説明されています。

で、この末の松山は丘の上にあったから、貞観地震の津波の高さでも、これを越えることはなかったと言われています。そういう伝承が残ってるんですよ。そこから転じて、「末の松山」って言葉は、「起こり得ないこと」を表すキーワードになっていった。

『古今和歌集』の中には、「君をおきて あだし心をわがもたば 末の松山波も越えなむ」という歌が収められています。もしも私が、あなた以外の相手に浮気心を抱いたならば、末の松山を波が越えるでしょう。逆にいうと、末の松山を波が越えることはあり得ないから、私が浮気心を抱くこともありえなくて、イコール、ずっとあなただけを一途に愛し続けますよ、という意味になる。

兼家が倫寧宛に呼んだ歌は、おそらくこの古今集の歌を前提にしています。

われをのみたのむと言へばゆくすゑの松の契りも来てこそは見め

私だけを頼みだと言うので、あなたがお帰りになったら、行く末まで変わることのない私たちの夫婦仲をご覧にいれましょう。あなたがこれから向かわれる、末の松山にかこつけて詠まれた、あの歌のような男女の絆を。

て感じの歌で、これどこが上手いかって言うと、陸奥守が赴任する国府、いまの県庁みたいな建物こそが、多賀城だったんですよ。つまり、仕事で陸奥に向かう倫寧に対して、あなたがこれから赴任先でご覧になる末の松山を決して波が越えないように、私から彼女への思いも、決して移ろうことはありません。だから安心してください。という歌を読んでいることになる。

これは、かなり気が利いていると言っていいんじゃないですか。兼家、結構頑張ったと思いますよ。

けれど蜻蛉日記本文には、「人の心もいと頼もしげには見えずなむありける」と書かれている。兼家の心は信頼できそうに見えなかった、って言うんですね。

あのー、これは別に、誰か研究者の人が具体的に指摘していたとかではなくて、私がただ、個人的に思ってるだけなんですけど、この時の兼家の振る舞いとか、彼が倫寧に贈った和歌について、リアルタイムにそれを見ていた時の彼女は、正直滅茶苦茶嬉しかったんだと思うんですよ。当時20歳くらいだった彼女はね、感激して、お父さんがいなくなっても、この人を信じて生きていこうって、少なくともその瞬間は思ったんじゃないでしょうか。

でも、蜻蛉日記を執筆している段階の、30代も半ばを過ぎた道綱母としては、そんな初心なトキメキを書き残す気持ちにはなれなかった。

同じようなことが、彼女の出産後の記述でも起こります。

倫寧が旅立った記事の二つ後の記事で、彼女は唯一の子供である藤原道綱を産むんですけど、その記事の末尾には、「そのほどの心ばへはしも、ねんごろなるやうなりけり」とだけ書かれています。

これ、「そのときのあの人の思いやりは、さすがに心がこもっているようでした」くらいの意味なんですけど、絶対もっと嬉しかったはずなんですよ。だって、なんなら、ここが彼女の人生の絶頂だったとしてもおかしくないくらいじゃないですか。受領階級の娘が摂関家の貴公子の妻になって、息子産んだんですよ。絶対兼家は喜んだはずだし、彼の一族とか貴族社会全体も、道綱母に対する認識を一段階引き上げたはずです。

なのに彼女は、そんな人生の節目について、全く嬉しそうな記述を残していない。なぜか。

この次の記事の冒頭を読むと、なんとなく、彼女の気持ちが想像できます。では、本文引用してみましょう。

さて、九月(ながつき)ばかりになりて、出でにたるほどに、箱のあるを手まさぐりに開けて見れば、人のもとに遣らむとしける文あり。

「出でにたるほどに」というのは、さっきまで一緒にいた兼家が出て行ったタイミングで、ということです。そのタイミングで彼が残して行った文箱を開けてみると、誰かよその女へ送ろうとしている手紙があった。と、書いている。

そう、これこそが有名な、高校古典の教科書に掲載されている、「町の小路の女」への恋文を、道綱母が発見してしまうシーンなんですね。

このタイミングなんですよ、「町の小路の女」の話って。えー!?ってなるでしょ。道綱母もえー!?ってなったんですよ。え、私ついこの前、息子産んだんですけど?って思ったし、お父さんが旅立った日の、末の松山を決して波が越えないように、私たちの絆も変わることがありませんって和歌も、あれ全部嘘だったの!?って、絶対なった。

この文脈を知ってると、滅茶苦茶面白いんですよ、「町の小路の女」の話って。続き気になると思うんですけど、一旦、今日はここまでにしておきましょう。

ではでは、お疲れ様でした。また次回。


この記事が参加している募集