源氏物語の話17 一夫一妻多妾制

第二帖「帚木」⑤/平安時代の婚姻制度ってどうなってたの問題/高群逸枝『招婿婚の研究』/一夫多妻妾制/妾(しょう)/一夫一妻多妾制/三つの論点/工藤重矩/フィクションから制度を読み取る危うさ/家の内のあるじ/左馬頭の衝撃発言/葵の上って光源氏の正妻なのか問題/モテる女性の手練手管/過度の「もののあはれ」は邪魔/伊勢物語「筒井筒」/幼く素直な妻と、無愛想だけど有能な妻

【以下文字起こし】


源氏物語解説の第17回です。帚木の解説としては5回目になります。もういい加減、「雨夜の品定め」の場面ばっかり続いていくことに、みさなん飽きてきている頃合いではないでしょうか。

そこで今回は、最初に問いを立てておこうと思います。何の仕掛けも無しに、ただひたすら何十分も話を聞くのって辛いですが、課題を設定しておいて、課題解決のヒントをこれから始まる話の中から見つけ出してください、って形なら、飽きずに集中力を保つことができるのではないかな?

というわけで、今回ははじめに、私と皆さんで問いを共有しておきましょう。これは、源氏物語を読む上で避けては通れない重要な問題でありながら、同時に、めちゃくちゃ複雑で扱いの難しい問題でもあります。ずばり、「平安時代の婚姻制度ってどうなってたの」問題です。

こう言われると、学校の授業を真面目に受けてる人ほど、首を傾げるはずですね。いや、それ習ったことありますやんと。一夫多妻制でしょ知ってますがなと。なんなら、このポッドキャストでも過去にそういう説明してましたけど? って、勉強熱心な人ほど、多分思う。

そうなんですよ。私もかつて、「藤原道長の恋愛事情」って解説を収録して、平安時代の男女関係とか結婚って大体こんな感じですよーって話したんですが、恥を忍んで正直に言うならば、あの頃はまさか、こんなに真剣に源氏物語の解説をすることになるなんて思っていなかったので、まぁ高校の授業で古文を読む助けになればいっか、くらいの考えで、だいぶ杜撰な説明をしていました。

実際のところ、めっちゃ複雑なんですよ、平安時代の婚姻制度って。たくさんの研究者がいろんな説を唱えていて、相互に引用、批判、応答を繰り返しながら、数多の論考を積み上げている。

こうした研究の流れを全部紹介していたらキリがないし、私自身、そこまでちゃんと勉強できているわけではないので、まぁ結局今回もいい加減な説明にはなってしまうんですけど、一体どこに論点があるのかってことに注目しながら、以前よりは多少詳しい説明を試みたいと思います。

そもそもの前提として、高群逸枝って研究者が1950年ごろに書いた、『招婿婚の研究』っていう大著があるんですよ。招婿婚っていうのは、招く婿の結婚って字を書きます。つまり、近現代の日本で比較的主流な、男性側の家にお嫁さんが嫁いでくるタイプの結婚ではなくて、逆に、女性側の家にお婿さんがやってきて暮らすようになるタイプの結婚、あるいは、一緒に暮らさないにしても、とにかく男の側が女性のところへやってくるタイプの結婚のことを、招婿婚と言います。古代日本の婚姻形態ってこれだろってことで、それに関するさまざまな史料を集めてきて論考したのが『招婿婚の研究』です。

これほんとに、滅茶苦茶大きな影響力を持った大著でして、昔の日本の婚姻形態とか家族形態、あるいは、昔の日本における女性の社会的立場とかについて研究しようとする学生は、必ず一度目を通すように指導されます。

私も大学生の頃、教授から読むように言われました。ただ、猛烈に分厚い本だから、正直に告白すると、あんまりちゃんと読めてはいない。なので今から説明する内容はもしかしたら誤っているかもしれないんだけど、その罪を恐れず言わせていただくと、この本の中で高群逸枝は、平安時代前期において、貴族の男性にはパートナーとなる女性が複数いて、正妻とそれ以外っていうのはあんまり区別されていなかったと述べています。そして平安中期、源氏物語の時代ですね、になると、誰の家で夫が暮らすのかってあたりの都合から、正妻とそれ以外が区別されるようにはなったんだけど、誰が正妻かってことははわりかし流動的に事後的に定まることであって、時には複数の正妻も存在したんだ、というようなことを言っている。

一夫多妻制って言葉を高群逸枝が使っていたかどうかは記憶にないんですけど、現在一般的に使われている、平安時代の結婚は一夫多妻制だった、って表現のベースには、この招婿婚の研究があると考えていいでしょう。

彼女の研究は非常に大きな影響力を持ったので、その一部を引き継いで発展させた人もいれば、それを激しく批判することで新たな見解を示した人もいます。

私が以前「藤原道長の恋愛事情」って解説を収録したときは、高群逸枝とは別の研究者なんだけど、比較的それに近い、「正妻って立場は流動的で、一度決まった正妻がランクダウンさせられるケースもある」って考え方の人を参考にしていました。

こういう考え方のことを、「一夫多妻妾制」ということもある。「多妻」は多くの妻だからわかりやすいんですが、「妾」って言葉は使い慣れないね。「立つ」に「女」とかいて「しょう」って読むんですけど、現代では「めかけ」って読みで使われる方が多い。ただ、現代における「めかけ」って概念と、平安時代研究における「しょう」の概念は、ちょっと意味が違うかな。

「妾」って言葉は平安時代の法的な文章とか貴族の日記とかにも出てくる表現で、だから研究の世界でもしばしば用いられるんですけど、要は正妻以外の妻を指します。本当はこれも、研究者によって微妙な使い分けがあるんですけど、今回は仮に、正妻以外の妻が「妾」だってことで話を進めさせてください。

「多妻妾制」ってどういうことかというと、複数のパートナーがいる状態から、「正妻」と、それ以外の「妾」に二分されていく、って考え方です。そしてこの「正妻」と「妾」って区別は、例えば先に男子を産むとか、親父が途中で死んじゃうとか、自分よりランクの高い家の姫君が妻になるとか、そういう様々な要因によって変動するし、場合によっては複数の正妻が共存することもある、ってのが一夫多妻妾制の特徴です。

それに対して、いやいや、平安時代において、正妻っていうのははっきり一人に決まってて、何があろうと途中で変動するものではない、って主張する人もいて、こういう理解のことを、「一夫一妻多妾制」という。一人の夫に一人の妻、そして多くの妾、で一夫一妻多妾制。一夫多妻制は知ってても、一夫一妻多妾制については知らない人が多いから、少し時間をとってゆっくり紹介しましょう。

ここで論点となるのは、まず、平安時代において、一人だけ区別された正妻って存在するのか? ということ。そして、仮にそうだとしたら、いつ、どういう基準でそれは決まるのか? ということ。加えて、一度定まった正妻の立場というのは、流動的に動き得るものなのか? という点も問題になります。

これに対して、「一人だけ区別された正妻は存在する」し、「それは結婚した順番とか男子を産んだかどうかとかじゃなく、法的手続きの有無によって決まっている」し、「離婚しない限り正妻の立場が動くことはない」とするのが、「一夫一妻多妾制」の考え方です。正妻が誰かってことは最初から決まっていて、他は全部妾だった。

実のところ、平安時代の律令制社会において、他のパートナーと明確に区別された正妻、あるいは嫡男の嫡に妻で「嫡妻」って呼ばれる立場が法律的に存在したことは、多くの研究者が認めているところなんですよ。じゃあなんで「一夫多妻制」の方が広く認知されてて、「一夫一妻制」が通説化していないのかというと、実態としてその法律は無視されてたんじゃない? 機能してなかったんじゃない? って声が強いからです。

この点について、私は自分で史料を集めて検討したわけじゃないので、どっちの立場も取り難いというのが正直なところです。しかし、一夫一妻多妾制の考え方は、決して無視できるものではない、有力な主張だとは思います。

この立場をとっている研究者の中で、現在最も著作を参照しやすいのは、工藤重矩という方です。大変明快で興味深い論を展開しているので、興味がある人はぜひ調べてみて欲しい。

例えば工藤先生は、平安時代の婚姻形態を一夫一妻多妾制で理解すべきだって主張するにあたって、次のようなことを言っています。

現代社会においてだって、法的に定まった妻が一人いるのに、他の女性もパートナーとしてある程度の社会的認知を獲得していたり、容認されたりしているケースがあるし、そういう相手との間に生まれた子供の権利も一部認められている。じゃあ現代の日本は一夫多妻制なのか? 常識的に考えて、そうは言わんだろ、だったら平安時代だって一夫一妻制だよ、と。こういう旨の発言をなさってて、滅茶苦茶面白かったですね。確かにそうだなーって、思うでしょ。

そこで今後は、雨夜の品定めにおける男たちの発言を通して、当時の社会って一夫一妻多妾制だったのかな、それともやっぱり、一夫多妻制的な仕組みだったのかなってことを、自分なりに考えながら聞いてもらえると、一層興味深く作品を楽しめるように思います。

混乱している人もいると思うので、最後に一回整理しておきましょうか。

平安貴族社会の人たちが、割と普通に、特別罪悪感もなく、複数の相手と関係性を築いていたことは、疑いようのない事実なんですよ。だから中学校や高校で当時は一夫多妻制だったんですよって教わることに、大した不都合はない。

ただ、一夫多妻制って表現してしまうと、同列に扱われる妻、あるいは、同等のチャンスを持って序列争いする妻が複数存在したように聞こえますよね。加えて、そういう複数の妻が、法律上、公の制度上でもちゃんと認められていたように取れてしまう。

そうじゃないだろ、正妻とそれ以外の妾には明確な区別があったはずだ、って考えるなら、妻だけじゃなくて「妾」って言葉を使って表現しなくちゃいけなくなるし、正妻が誰かってことは、いろんな要素の競争によって決まるんじゃなくて、最初っから法的な手続きによって定まっているんだ、法的に認められた妻は一人だけなんだ、って考えるなら、「一夫一妻多妾制」って表現した方が、実態に近いことになる。このあたりの論点について、物語の中ではどう描かれているか注意深く見ていくと面白そうだねって話です。

ちなみに、さっき紹介した工藤先生は、源氏物語って所詮フィクションだから、それを参考にして当時の社会の実像を判断するのは危ういぞってことを指摘していて、例えば、恋愛小説とか恋愛ドラマを根拠にして現代日本の婚姻制度を論じる人がいたらおかしいって思うだろ、ってことをおっしゃっいます。確かにそれはごもっともなんですけど、でもやっぱり、その点を意識しながら読むってことが、源氏物語を深く楽しむ上で有効な作法だとは思うので、ぜひチャレンジしてみて欲しいですね。

さて、ずいぶん長い前振りとなってしまいましたが、ここからは本文の続きを読んでいきましょう。
男たちは女性談義を続けていて、前回の範囲で言えば、中流階級の中には思いがけず魅力的な女性ってのもいて、これはこれで捨て難いものです、とかなんとか話してたんですよね。そこからまた少し話題が移って、左馬頭はこんなことを言いました。

おほかたの世につけて見るにはとがなきも、我がものとうち頼むべきをえらむに、多かる中にも、えなむ思ひ定むまじかりける。

うん。なかなか難しい表現が並んでいますね。「世」って言葉には「世の中」とか「世間」だけじゃなく、「男女の仲」って意味もあるだろうと言われていて、今回出てきた「おほかたの世」っていうのは、「普通の男女関係」ってニュアンスで訳されることが多い。じゃあ普通じゃない関係は何かっていうと、「我がものとうち頼むべきをえらむ」って行為は、特別な関係を結ぶことを意味する。

「我がもの」って、素直に訳したら「私のもの」ってことですけど、多くの注釈書はここを「自分の妻」しかも、正妻や嫡妻にあたる相手を選び出すって意味で訳をとっています。

つまり、普通の男女関係として付き合っている分には、特別文句のない女性でも、いざ自分の正妻として頼みにする相手を定めようってことになると、たくさんの候補の中からでも、なかなか決めにくいものです。というようなことを、左馬頭は言っていることになる。

あるいは、「おほかたの世」の部分を、自分とは関係のない、世間一般の人々の恋愛や結婚を見ている分には、女性の欠点ってたいして気にならないけど、って感じで訳しているケースもありますね。だけど、自分の妻選びとなれば難しいよね、と。

ここで早速、さっき紹介した「一夫多妻制」と「一夫一妻多妾制」の議論が思い出されます。論点の一つとして、正妻って立場は最初から定まっているものなのか、事後的に選び出されるものなのか、見解が分かれてるって話でしたよね。

ここで左馬頭が言っていることはどううけとるべきでしょうか。たくさんの妻がいて、そのなかから「我がものとうち頼むべき」正妻を選び出そうとしている、って訳すなら、それは一夫多妻制的な解釈ということになるかな。

一方で、世の中に女性はたくさんいて、自分と関係ない世間の人々のパートナーとしてなら欠点も気にならないけど、自分の正妻を選ぶとなるとなかなか定め難いよね、くらいの訳なら、一夫一妻多妾制的な解釈とも矛盾しないかもしれない。

このあと左馬頭は、男社会の職場の話を引き合いに出してきます。朝廷にお仕えしている政治家たちの中から、この人は国を守る柱だなって言えるような、本当の大人物を選び出すっていうのは、妻選びと同様に難しい。

ただ、国の政治って別に一人で動かすわけじゃないから、上司は部下に支えられ、部下は上司に従って、多くの人々の関わりの中でなんとか動いていくだろうと。

その一方で、「家の内のあるじ」ってのは一人しかいないから、欠けていては困る大事な素養が多いですよね、と左馬頭は言う。この「家の内のあるじ」が、男と一緒に暮らして家のことを取り仕切る女性、つまり正妻だっていう風に理解されています。

男の職場と違って、家庭っていうのは女主人である正妻一人に求められるものが多いから、条件を満たせる人がほんとに少ないと。生涯心の拠り所にできるような妻、しかも、夫が頑張って、ああするんだよこうするんだよって教育するような手間も掛からず、そのままスッと満足できる理想の相手に巡り会えないものかと思って、今まで女性選びに励んできました。私の女性経験が多いのは、別に、色好みな浮気心で色んな女性と関係を持ったのではなく、正妻選びが難航したからなんです、というようなことを、左馬頭は語る。

この続きがまた興味深いんですが、本文では、

必ずしも我が思ふにかなはねど、見そめつる契りばかりを棄てがたく思ひとまる人は、ものまめやかなりと見え、さてたもたるゝ女のためも、心にくくおしはからるゝなり。

と、書かれています。正妻選びにおいて、必ずしも希望通りにいかなかったとしても、一度関係を結んだからには、相手のことを捨てがたく思い、別れずにいる男性っていうのは、誠実な人柄に見えるし、そうやって関係が保たれている女性に関しても、何かしら心惹かれる魅力があるのだろうと、推しはかられます。というようなことを、左馬頭は言う。

これ、多分離婚の話をしているんですよね。正妻たるに不十分な女性っていうのは、離縁される可能性があって、だけどあえてそれをしない夫婦を見ていると、夫の側にも妻の側にも、人間的な魅力が窺われるよね、って話です。

これ、面白いのは、離婚するかしないかを、男女双方の人柄に求めているところですね。男が誠実だから離婚しないとか、女性の側に奥ゆかしさがあるから離婚しないとか、ほんとにそういう問題か? って思うけれど、とにかく左馬頭はそう語っている。

そして彼は次に、結構衝撃的な発言を光源氏と宮腹の中将に投げかけます。本文続きを読んでみましょう。

されど、なにか、世のありさまを見給へ集むるまゝに、心に及ばず、いとゆかしき事もなしや。君だちの上なき御選びには、ましていかばかりの人かはたぐひ給はむ。

そうはいっても、いやはやどうでしょう、夫婦の実情というものを色々拝見いたしますに、心底から心惹かれるような関係性というものはないですね。若君たちのために最上の相手を選び出そうとしましたら、なおのこと、求めるものが高くなるでしょうから、果たしてどれほどの女性ならばお似合いの相手として連れ添えることでしょう。

こんな感じのことを、左馬頭は若い二人に言う。これ、衝撃的じゃないですか? まるで、光源氏も中将も、まだ正妻が決まってないみたいな口ぶりなんですよね。

ここほんと意味がわからない。だって、だとしたら、え? 葵上って光源氏のなんなん? って、話になってしまうじゃないですか。でも、あんなの、どう考えたって正妻でしょ。左大臣と内親王の娘なんですよ。おまけに、元服した直後から一緒にいる最初のパートナーだし。そしてなにより、桐壺帝と左大臣っていう、父親同士の話し合いによって結婚が決まった二人なのに、これが正妻じゃないなんてこと、ありますか? あるのかなぁ。

うーん、多分、解釈は三通りに分けられそうですね。

一つ。親の家柄も、初めての妻かどうかも、父親同士が決めたかどうかも、正妻という立場を確定する条件ではなく、実際問題として光源氏には現状正妻がいない、という解釈。

二つ目。正妻という立場は途中で入れ替わる可能性があり、現状葵上が正妻だとしても、それ以上の相手を探し求めることは不思議な話ではない、という解釈。

三つ目。そもそも左馬頭がここまで語ってきたのは、正妻選びの話ではない、という解釈。

んー、難しいですねぇ、これは。どうだろう、どの解釈も、個人的にはいまひとつしっくりこないんですね。

あー、あとは、男同士のノリで、半分冗談として言ってる可能性も、なくはないのか。光源氏が葵上のこと好きじゃないのも、中将が右大臣家の娘を鬱陶しいと思ってるのも、公然の秘密みたいなもんだから、いや、でも、中将って葵上の兄貴だからなぁ。さすがにそれは、感じ悪いですよねぇ。

とりあえず、個人的に確かなところを言うと、正妻とそれ以外の女性は、結構はっきり区別されていただろうと、思うんですよ、私は。そして別に、初めてのパートナーかどうかっていうは、正妻の決定条件ではない、とも思う。それでも、いや、別に、これを聴いてる人たちへ解釈を押し付けるわけではないんですけど、それでも、葵上が光源氏の正妻じゃないとは、考え難いんだよなぁ。

まぁ、あんまりぐだぐだ言っててもしょーがないので、ことここに至っては、保留するしかないですね。いや、保留にしたらまずいくらい重大な問題だと思うんですけど、今の私の力ではそうするしかない。皆さんもぜひ、私の意見は気にせず、自分なりの解釈を探してみてください。

では、本文続きを読んでいきましょう。左馬頭はここから、深入りしたり、妻にしたりすべきではない女性について語ります。

顔かたちが小綺麗で、若々しい女性が、自分自身には塵ほどの欠点もないように注意深く振る舞って、手紙を書くにしても、解釈を相手に委ねるような言葉選びで、墨の濃淡もほんのりと思わせぶりにしつつ、はっきり姿を見てみたいと、男をどうしようもなく待ち遠しい気持ちにさせて、いざ実際に、お近づきになれたとしても、吐息と区別がつかないくらい微かに、言葉少なに受け答えする。こういう女性は、悪い部分を上手に隠すものです。

あのー、これ、多分ね、当時の女性の手練手管なんですよ。モテる女ってこれでしょ、みたいな典型的姿を示している。そして、それに騙されてほだされるとまずいぞ、ってのが、左馬頭の主張になります。彼、続きとして何言ってるかっていうと、

こういう相手を物腰柔らかで女らしい人だと思って、あんまり深入りすると、いよいよ色っぽい感じを出してきて、抜け出せなくなってしまう。これが女性の怖いところだって左馬頭は語る。だって、この女性って現状、自分の本当の姿を何一つ表に曝け出してないでしょ。ただただ控えめに、注意深く振る舞って、思わせぶりに男を誘っているだけだから、実際どんな人なのかはわからない。こんな相手を正妻に選んじゃったら後が怖いぞ、という話です。

続けて左馬頭は、妻として夫の世話をする、って観点からいうと、「もののあはれ」を知りすぎてる人はよくないと語ります。しょーもないちょっとしたことにまで逐一情緒を動かしたり、何でもかんでも趣深いようにする必要はない、と。

これめちゃくちゃ面白くないですか。え、そうなの? それが本音なの? って、思いません? だって、平安貴族と言ったら「もののあはれ」と「をかし」みたいなところ、あるじゃないですか。風流でね、色んなことの情緒とか趣を細やかに感じ取って、自分自身でもそれを演出できる人こそが、心の平安貴族なんだ、みたいな認識、みんな持ってると思うんですけど。

家で世話してくれる妻に求めてるのはそーゆーことじゃないから、あんまりやりすぎないでくれって、左馬頭は語る。すごいリアルなご意見で、興味深いと同時に、身勝手でもあるなぁと、感じますね。

加えて彼は、逆にバリバリ効率重視の妻も嫌だよね、と語っている。ひたすらテキパキ家事をこなして、邪魔だからっていって髪の毛を耳に挟んでとめちゃうような、美しさのかけらもない「ザ・主婦」みたいな妻に世話されたくないよね、と。

うるせぇなー、文句ばっか言うなよって、思いますけど、まぁ、このあたりの価値観は、伊勢物語の中の「筒井筒」っていう有名なエピソードの中にも出てくるので、平安時代あるあるの夫婦ネタだったんでしょうね。

続けて左馬頭は、仕事で疲れて帰ってきた夫の精神的なケアもしてほしいよね、と言い始める。

男ってのは、朝出勤して夕方帰ってくるまでに、色んなことが起こるし、色んなことを感じるんだと。でもそれを誰にでも話すわけにはいかないから、家に帰って妻に話したい。一緒に笑って、泣いて、怒りたいんだと。そういう、心のパートナーであることを妻には求めているのに、この人に何話してもしょーがないなーって、諦めてしまいたくなるような女性もいて、そういう女性の夫は、仕方ないから自分だけで思い出し笑いをしたり、独り言をこぼしたりする。それに対して何もわかってない妻が、「え、急にどうしたんですか?」とかって間抜けに尋ねてきたら、残念な気持ちになるよね、と、左馬頭は語る。

これもまぁ、勝手な言い分ですねぇ。源氏物語を読もうって一念発起して、桐壺の話は頑張って読んだんだけど、次の帚木でイライラしすぎてやめたって人、絶対いると思うんだよなぁ。

結局左馬頭は、もう贅沢言わんから、とにかく子供らしくて、素直で、柔順な人を妻にした上で、足りないところは後から補っていくのがよかろう、最初は不安でも、そういう素直な妻なら、夫としても、頑張ってこの子のまずい部分を一緒に直していこうって気持ちになれるでしょ、というようなことを言い出します。

ここ、何気ない話の流れで語られてるんですけど、結構重要な伏線というか、後々意味を持ってくる前振りなんですよね。源氏物語のことをちょっとでも知ってる人なら、ピンとくると思いますが、多分光源氏って、このとき左馬頭が言ったことを、結構ちゃんと意識してるんですよね。この先ずっと。

ただ、左馬頭は子供っぽい妻の欠点も指摘していて、そばで見ている分には、素直で未熟なも可愛らしいんだけど、自分が家を離れた状態で、妻にやっておいてもらわなきゃいけない用事が出てきたとき、それが趣味的なことで、とにかく気の利いた感じにしてほしいケースにしても、逆にめちゃくちゃ実務的な、公の仕事に関わるような頼み事にしても、自分一人で判断できなくて、思慮深い対応ができない妻っていうのは、やっぱ残念なんですよね、と。

なんだかんだ言って、頼りにならない妻って困りもので、逆に、いつもは無愛想で付き合いづらい女性が、折に触れて、目を見張るような働きぶりを見せてくれることもあるものです、といって、結局どういう女性を妻にしたらいいのかいまひとつ結論を出せないまま、左馬頭はため息を吐きます。

最後の、普段は無愛想で親しみづらい女性が、妻として有能な場合もあるって話は、葵上に対するフォローなのかなって、一瞬思いましたけど、そういう指摘をしている人は特にいない様子ですね。これでこの後、葵上の思慮深い判断によって光源氏がめちゃくちゃ助かる、みたいなエピソードがあったら良かったんでしょうけど、別にそういう展開にはならないので、ここはただの一般論なのかな。

ここまでの話を読んでみて思うのは、あれですね。平安時代の姫君って、独身の頃はひたすら和歌とか音楽の教養を仕込まれて、深窓の令嬢として、奥ゆかしいキャラクターを求められるのに、誰かの妻になった途端、ちゃんと夫の世話しろ、家のことを任せられる思慮深い女主人となれって要求されるの、無理難題すぎませんか。準備期間をくれよって、思いますよね。だからきっと、そばでサポートする女房が大事になってくるんでしょうけれど。

あとはまぁ、紫式部がこの部分を、結構大袈裟に、わざと男のわがままっぷりを前面に押し出して描いている可能性は、念頭に置いておいた方がいいでしょうね。別にこれ、語ってるのは光源氏じゃなくて左馬頭ですから。

彼って、言って仕舞えばまぁ、たいして身分の高くない、ただの色恋達者なおじさんじゃないですか。そういう男の口から語らせているに過ぎないって認識は、やっぱり大事なことだと思います。

考えれば考えるほど、当時の人々の実態がわからなくなってきますが、ひとまず今回は、ここまでにしておきましょう。ではでは、お疲れ様でした。また次回。

この記事が参加している募集