源氏物語の話20 消える女

第二帖「帚木」⑧/都合のいい恋人としての女房/左馬頭の助言/折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰/中将の体験談/右大臣家の怒り/山がつの垣ほ荒るともをりをりにあはれはかけよ撫子の露/あな恋し今も見てしが山がつの垣穂に咲ける大和撫子/昔物語/藤原道綱母『蜻蛉日記』/養女が欲しい/源宰相兼忠の娘/おきそふる露に夜な夜な濡れこしは思ひの中にかわく袖かは/母たちの期待/昔物語のやうなれば皆泣きぬ/消える女と手放される娘/咲きまじる色はいづれと分かねどもなほ常夏にしくものぞなき/うち払ふ袖も露けきとこなつに嵐吹きそふ秋も来にけり/運命の母娘

【以下文字起こし】

源氏物語解説の第20回です。「帚木」の解説としては8回目になります。


前回は、左馬頭の二つの体験談について紹介しましたね。あのときは時間の都合で話さなかったのですが、後半の女性、風流人で、殿上人と浮気していた女性のエピソードを語った後、左馬頭は一つ興味深いことを言っています。曰く、たまに関係を持つだけの宮仕の女房だったら、やたら気取って風流ぶっている女性でもいい、と、彼はいう。

これは何度か説明してきたことですけど、当時、貴族の家の女性というのは、家族以外には姿を見せないように暮らしていたんですよね。だから男性は、顔も知らない声も聞いたことないって状態からスタートして、噂話とか、何かの拍子にチラッと垣間見える衣服のセンスとかから想像を膨らませることで恋愛をスタートさせます。そして和歌を送り合うようなやり取りをしばらく挟んだ後、ようやく面と向かって男女の交際をスタートできるようになっていく。

ところが女房って存在は、そういうまどろっこしいステップを全部パスできる相手なんですよね。宮中っていう同じ職場で働いている相手なので、最初っから姿見えるし話もできる。もちろん、女房の側は精一杯ね、顔を見られないように振る舞うんですけど、まぁ限界がありますよそれは。

だから男性貴族からすると、女房って存在は、普通の女性よりも手っ取り早く、恋愛の深いところを楽しめる相手だってことになる。それゆえに、女房たちはある種の蔑視に晒されている面もあって、清少納言も『枕草子』の中で色々言及していますね。このあたりは、結構前に「女房の話」と題して解説したことがあるので、興味があればまた振り返ってみてください。

では、話を左馬頭の発言に戻しましょう。彼は自身の恋愛経験から、風流すぎる女性は信用ならんって教訓を獲得したわけなんですよね。で、女房だったら別にそれでもいいよ、という。なぜなら彼らにとって、女房というのは初めから、遊びの付き合いに過ぎない恋愛対象だったからです。でも、ずっと連れ添う妻選びの場合は要注意だぞ、というわけですね。

左馬頭は恋多きタイプの男性なので、いろんな女性とたくさん関係を持った結果、結構若いうちに、この境地へ達した。今後歳を取れば、ますます強くそう思われるでしょう。だから、光源氏とか宮腹の中将も、どうか気をつけてくださいと彼はいう。二人とも今は若いから、ほんのひと時の儚い風流にこそ興味がある年頃だろうけれども、あと7、8年もすれば、私のいうことが正しかったとお分かりになるでしょう、とね。

ここ、表現が少し凝っていて、「折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰」と言っています。

玉笹っていうのは、笹の葉っぱの美称のようですね。その葉っぱの上に霰の粒が載っていたとして、拾えば溶けて消えてしまう。儚く美しいものの例えとして、なかなか詩的な表現です。たぶん実際、なんらかの和歌か漢詩から引用したんでしょうね。

もう一方は、「手折れば落ちてしまう萩の露」。これもおそらく、和歌からの引用だろうと言われています。萩って、頭の中にイメージできますか。とても小さな葉っぱと花がつく、可憐な植物でして、平安人はこれをとても好んだので、ぜひ一度、画像検索で調べてみてください。萩の葉についた露というのは、ちょっと風に吹かれただけでも揺れて落るほどに儚い。まして、茎を手折ろうとすれば、その振動で必ず露は落ちてしまう。これもまた、儚く美しいもののたとえですね。

繰り返しますが、平安人は、萩と、その上にたまる露の儚さをことさらに愛しました。実は、源氏物語のとある名場面においても、この萩の露が登場します。だけどその話は、ずいぶん先のことになるかな。雨夜の品定めの段階で一度この表現が出てきていたというのは、今回改めて読んだおかげで気づけた発見でした。

とにもかくにも左馬頭としては、露や霰のような、ひと時の美しさっていうのは、ずっと連れ添う現実的なパートナー選びとは相反するものですよと、若い貴公子たちに教えてやりたいわけです。人生の先輩としてね。これに対して中将は、相変わらず熱心な生徒として頷いてくれていましたが、光源氏の方は、なるほどそういうものかねって感じで、ちょっと冷静に距離をとって、軽く笑っていたらしい。

これは結構大事なことで、よく誤解されがちなところなんですけど、光源氏も一緒になって、それは素敵な女性だね、そんな女性は嫌だね、わかるわかるー! みたいな品評会をやってたわけじゃないんですよ、雨夜の品定めって。彼は基本的に、一歩距離を置いた聞き役にすぎない。

その一方で、宮腹の中将はこの座談会にテンション上がりっぱなしだから、「次は私が、愚かな女の話をしましょう」とかいって、自分の体験談を語りだす。

以前話したように、中将って左大臣家の嫡男であると同時に、右大臣家の娘婿なんですよね。弘徽殿の女御の妹の一人と彼は結婚していて、おそらくその人が、彼にとって正妻にあたる人物なんですよ。だからそれ以外の女性というのは基本的に浮気な恋愛の相手ということになる。

ただ、ここで重要なのは、今まで話していた左馬頭と、左大臣家の嫡男とでは、身分が全然違うということです。若い頃の左馬頭は、うだつの上がらない男として、妻の家の世話になっていましたよね。けれど中将は、若くして既に、女を世話する側なんですよ。

だから、右大臣家に内緒で、とある女性と関係をもった彼は、そんなにしょっちゅう会いに行くような相手でもなかったけれど、見捨てたりはせずに最後までちゃんと面倒を見ようって、思っていたらしい。

この辺りの感覚は、大丈夫ですか? 今まで左馬頭の話ばっかりしてたから、急にはチューニングが合わないかもしれないんですけど、そういう人はぜひ、さっき紹介した『「女房」の話』という解説を聞いてみてください。当時、金銭的に余裕のない家の娘っていうのは、人生の選択肢があんまり多くなくて、その数少ない選択肢の一つが、中将や光源氏みたいな貴公子に見染められて、面倒を見てもらうという生き方でした。

中将の恋人も、ある段階からは、彼を頼りに生きていこうという様子が明確になったらしい。中将って、結構普通に浮気するタイプなんですけど、彼女はそれも気づかないふりしてね、疎遠な時期も努めて大人しく振る舞っていた。そういうの、中将からすると心苦しかったと書いていますね。だから、「ずっと私のことを頼りにするように」なんてことも、常々言っていたらしい。

何が辛いって、どうやら彼女は親がいないんですね。これって平安貴族社会においては本当に重いことなので、彼女はいつも心細そうにしていた。そこへ、見るからに家柄良さそうな貴公子がやってきて、もう大丈夫だよ、将来万事私に任せなさい、なんてことをいう。

そしたら女の方も、だんだん心を委ねてきてね、それなら、この人を信じてやっていこうかしら、と思って、いろんな場面でちょっとずつ中将のことを頼るようになっていく。若い中将からすると、それがとても可愛いんですね。

ただ、この時代の男性の悪い癖で、こういう穏やかな、文句言わない女性というのは、男性側の気まぐれで、長い間放って置かれたりするんですね。中将と彼女の場合にもそういう時期がありました。で、まずかったのは、ちょうどそのタイミングで、二人の関係が中将の正妻にバレてしまったことなんですよ。つまり、右大臣家を怒らせてしまった。

するとどうなるかっていうと、「情けなく うたてあること」が、裏でこっそり女に告げられたという。

「情けなし」っていうのは、あれですね、皆さんに一番馴染み深い例を挙げるならば、平家物語の「扇の的」で、那須与一が見事に的を射抜いた後、船の上で踊り出した平家の武者、いたじゃないですか。彼のことを与一が撃ち殺したときに周囲から呟かれた感想がまさに「情けなし」でしたよね。

一方、「うたて」っていう古語は、これ、現代語に残っていないから古語単語帳でも要チェックな言葉ですけど、とにかくネガティブで嫌なニュアンスを持ちます。ひどい、嘆かわしい、みたいな訳され方をする。

結局全然具体的なところはわからないんだけど、とにかく無慈悲で酷いことを右大臣家の娘は言った。もう少し厳密にいうと、右大臣家の娘が直接やったのではなく、誰かが間に入って間接的にプレッシャーをかけた。

具体的な内容がわからないせいで、かえって怖いね、ここは。何言われたんだろう、というか、何をいうのが普通なんでしょうね、こういうときって。

だって、複数の妻とか妾を持つこと自体は、まぁよくある時代じゃないですか。左大臣家の嫡男ならそれなりに甲斐性もありそうだし、自然な成り行きのようにも思われますが、右大臣家はそれが許せなかった。許せなかったとして、いったいどういう論理とか言葉で、浮気相手を責めるんでしょうか。このあたり、まだちょっと不勉強なので、推しはかりきれませんね。

とにもかくにも、女は辛い立場に追い込まれたわけですが、中将は当初、右大臣家がやっていることに気づいていませんでした。だから平気な顔して彼女のことをほったらかしにした。すると女は困りますよね。心細くて悲しくて、これから先のことが不安でたまらない。

しかも、あの、みなさんピンときていないかもしれませんが、この時点で中将って、すでに子供がいるんですよ。右大臣家の娘との間にも何人かいるし、今話題に登っている大人しい女性との間にも一人娘がいました。

だからなおのこと、彼女は辛いんですね。自分自身もそうだけど、娘の未来を保証してくれる存在として、中将のことを頼りにしていたわけです。けどなんかもう、それどころじゃない展開ですよね。そこで彼女は、撫子の花に手紙を結んで中将へ送りました。

さて、これはどんな内容の手紙だったでしょうか。気になるところですけれど、中将はぐずぐず涙を浮かべ始めて、なかなか続きを教えてくれません。光源氏から「それで、具体的な手紙の内容は?」と、先を促すように尋ねられることで、ようやく話が再開されました。

山がつの垣ほ荒るともともをりをりにあはれはかけよ撫子の露

という歌が、中将に届いた手紙の内容だったと言います。

「山がつ」というは、平安京みたいな都市じゃなくて、山の中で暮らす人々のことを指す言葉なんですが、別にその、女が実は木こりでした、とか、もののけ姫でした、みたいな話ではなくて、単に、自分のことを卑下してね、私は山がつのようにいやしくて、家の垣根も荒れ果てておりますが、どうか見捨てずに、折に触れて尋ねてきてください、というような話をしている。

末尾に来る「あはれをかけよ撫子の露」というフレーズは、いかにも和歌的な表現で、「撫子」という花の名前には、子供を撫でるとか、撫でるように愛しむ、というニュアンスが重なっています。

つまりこれって、完全にお母さんの歌なんですよね。左大臣家や右大臣家に比べて私たちは卑しい身分ではありますけれど、どうかどうか、二人の間に生まれた娘のことは見捨てずに、温情をかけてあげてください、と。すがるように訴えている。

ちなみにこの歌は、古今和歌集にもととなった恋歌があると指摘されていているので、そちらも紹介しておきましょう。

あな恋し 今も見てしが 山がつの垣穂に咲ける大和撫子

ああ恋しい、今すぐ逢いたい。山の中で暮らす家の垣根に咲いている、大和撫子の花のようなあの人に。といった風情の歌で、この場合、撫子の花は恋しい女性のことを表しています。しかし紫式部は、この歌の「山がつ」という言葉を、女と中将の身分差と、それに起因する苦悩に結びつけ、「撫子」の花を幼子に重ねたわけですね。

どうも紫式部という人は、古今和歌集にある、この撫子の歌が結構気に入っていた、というか、大変便利な素材として認識していたようでして、別の大事な場面でも、同じようにこれを元にした和歌を登場させています。これについてもやっぱり、紹介するのは相当先のことになるかな。

余談はさておき、中将の話に戻りましょう。女からの手紙に心動かされた彼は、久しぶりに彼女の元を訪ねたと言います。すると彼女は、いつも通りの、特にわだかまりもないような様子で彼を迎えてくれた。少なくとも、当時の中将の目にはそう映りました。この時の彼はまだ、女が右大臣家から受けた仕打ちを知りませんでしたからね。

しかし、彼女が一人物思いに耽る面持ちからは、ただならぬものを感じるわけですよ。荒れた庭先では、生い茂った草が露に濡れ、秋の虫の音が鳴り響いている。それと重なり合うように、声を漏らして啜り泣く女を見て、「まるで昔物語のようだな」と、中将は思いました。

この感覚が、現代人の我々にはわからない。「昔物語」というのは、ちょっと難しい言葉で、『竹取物語』や『伊勢物語』のように、「今は昔、」とか、「昔、男、」とかいう語り出しでスタートする作り物語のことだ、という解釈もあるし、もうちょっと広い意味で、古くから伝わっている物語のことだ、みたいな解釈もあるんですけど、とにもかくにも、どうやら当時、涙を誘うような感傷的な内容の、古いお話が流行していたようです。

ここ、面白いので時間をかけますね。当時の人々が享受していた泣ける「昔物語」って、いったいどういうお話だったのか。

藤原道綱母が記した『蜻蛉日記』にも同様の用例があって参考になるので、紹介しておきましょう。『蜻蛉日記』って何? 道綱母って誰? という人は、源氏物語解説第18回、「愛の駆け引きとしての出家」という話を聞いてみてください。

彼女って、夫である兼家との間に、道綱一人しか子供ができなかったんですよね。そこで晩年、養女を一人迎えたい、という話になるんです。細かい事情は語りだすと煩雑なのですが、頑張って説明してみますね。ここから先はフィクションじゃなくって、実在した人々の人間関係の話になります。

藤原兼家という男は気の多い人物でして、かなり多くの女性に手を出しています。そうして関係を持った相手の中に、源兼忠という貴族の娘が含まれていました。兼家と同じ「兼ねる」の字に忠義の「忠」で兼忠です。最終的に参議の位までのぼったので、参議を中国風に言い換えた「宰相」という言葉を間に挟んで、源宰相兼忠と呼ばれていました。源氏であることからわかるように、この人は皇族の血筋でして、具体的にいうと、兼忠は清和天皇の孫にあたる人物だった。

憶えていますか、清和天皇。藤原良房とか基経の時代に天皇や上皇をやってた人ですね。伊勢物語でヒロインやってた藤原高子を妻として、陽成天皇の父となった人物でもあります。

ただし、源兼忠の父親は、高子じゃなくって、別の女性と清和天皇との間に生まれた皇子でした。清和天皇って高子以外にも滅茶苦茶たくさん妻がいて、子供がいたんですよね。すると当然、臣籍降下もたくさん発生するので、大勢の源氏がこの時期に誕生しました。源頼朝の祖先とかも、この清和源氏が起源だったらしいと、一般的には言われています。

で、この兼忠の娘と藤原兼家がどういう関係だったかと言いますと、兼家が30歳くらいのころに、兼忠は死んじゃうんですよね。で、この時代の貴族の姫君っていうのは、親父が死ぬと途端に立場が危うくなりますから、兼忠の娘も、父の喪に服しながら、心細い日々を過ごしていたと。

どうやら兼家は、こういう境遇の女性の、不安な心に漬け込むのがいつもの手口だったらしく、大丈夫ですかー? 困ったら私がいろいろ面倒を見てあげますよー、といった体で近づいて、どさくさに紛れて関係をもったといいます。

この二人の恋って、『蜻蛉日記』の中での描かれ方が結構面白くて、というか、いや、面白いと言ったら気の毒ですね。なんというか、まぁ、結構ひどい。リアルな酷さがあります。

兼忠の娘は当時すでにそこそこ高齢だったらしく、華やかなタイプでもなかったので、自分と兼家がそういう関係になるということについて、初めはあんまりピンときていなかったようです。ただまぁ、兼家からアプローチの手紙が届くもんだから、一応返事はしていたと。

そうこうしているうちに深い仲まで行くんだけれども、そのあとはもう、兼家もあんまりやる気こめた和歌を贈らなくなるし、女の方からの返事を道綱母と二人で読んで、下手な和歌だねぇ、なんて笑ったりしていた。露骨にどんどん、心が離れていっていると。

その一方で、兼忠の娘にとっては切実な状況になっていくわけですよ。だって、子供ができちゃいますからね。親父死んでるし、自分は高齢だし、兼家に責任とってもらわないと困る。

おきそふる露に夜な夜な濡れこしは 思ひの中にかわく袖かは

夜露と涙に濡れた袖は、あなたを思う心の炎でも乾かすことができません、みたいな感じの歌を贈ったりして、兼家の情けに訴えるんだけれども、彼はますます疎遠になっていって、結局二人の関係は断絶してしまったそうです。

その後どうなったかといいますと、兼忠の娘は平安京を離れ、滋賀に移住しました。そこでお寺の僧侶をやってる兄弟を頼りに、ひっそりと暮らすことになったらしい。憐れな話ですよ。だってこの女性、曽祖父は清和天皇ですからね。親父は参議ですよ。でもこれが、当時を生きた女性たちの、一つのリアルなんですよね。

で、彼女と兼家の間に生まれた娘が、ちょうど12、3歳くらいに育ったタイミングで、道綱母が、「あー、養女欲しいなー」って言い出すわけですよ。そしたら折よくね、兼家の娘が滋賀で侘しく暮らしているという情報が耳に入る。

そこで道綱母は、平安京の中で暮らしている、とあるお坊さんに相談を持ちかけました。この人は、兼忠の娘の腹違いの兄弟にあたる人物でして、滋賀に住んでるおたくの姪っ子を養女にしたいんだけど、という相談に対して、「何も問題ありません。大変結構なことだと私は思います。そもそも、あの土地で娘を育てていく生活というのは、とても頼りない、先行き不安なものですから、母親自身も、出家して尼になってしまいたと考えていたようです」と返事をしました。

そしてこのお坊さんが、直接滋賀まで行って、兼忠の娘に話をしました。最初彼女は、日頃疎遠な腹違いの兄弟が突然訪ねてきたことを不思議がるんですね。けれど話しているうちに段々要件がわかってきて、泣き崩れてしまう。辛い場面ですよ。ひとしきり泣いて、やがて心を落ち着けた彼女は「あなたのご判断にお任せします」と返事をする。自分自身はもう高齢で、老い先の見えた身だけれども、それはそれとして、こんなところで娘を道連れにしてしまっていることを、かわいそうだ、どうしてあげたらいいんだと、常々思っていました。だから、都の方からいいお話があったのなら、あなたの判断にお任せしますので、娘のためにうまく取り計らってあげてください。と、彼女は言った。

当時の女性たちの人生において、誰の妻になるか、ということはとても重要で、当然親としても、なるべくいいところの男性と結ばれて欲しいと願いながら養育するわけですけれど、滋賀でシングルマザーやってる状況で、果たして娘にどんな縁談を用意してやれるだろうかって、話なんですよ。無理ですよね、そんなの。娘の将来を思うなら、兼家のいる平安京へ養子に出すのが一番いいに決まっている。このとき、この決断を下す彼女の心情を、私たちは精一杯想像しなければなりません。

返事をもらった道綱母は、自分で直接手紙を書いて、兼忠の娘に贈りました。こちらの要望に応えてくれたことへの感謝を述べた上で、無礼なお願いであることは重々承知していたけれど、尼になりたいという意志があるとも伺っていたので、それならあるいは、と思ってお願いしましたと。娘を手放す母親の気持ちを思いやりながら、細々言葉を尽くした。

その一方で、道綱母自身も、このとき不安を抱えていたんですよね。兼忠の娘が涙を飲んで我が子を手放したのは、養女にやれば、父親である兼家が面倒を見てくれるはずだと期待してのことだろう。それはわかる。わかってるんだけど、しかし道綱母という女性の人生自体が、兼家からの愛の不安定さに苦しみ続けているわけで、自分のところに来る養女もまた、どれほどの愛情を獲得できるか、保証はないんですよ。

だから、思い切りといきおいで縁談を進めたはいいものの、ここまで他人の人生を動かしておいて、先方の期待通りにことが運ばなかったら忍びないな、という懸念がだんだん湧いてくる。

このとき女性陣が抱いていた期待というのがピンとこない人もいると思うので、少し補足しておきましょう。

道綱母って、兼家にとっては二番目の妻でして、一番目の妻は時姫という女性なんですよね。彼女は非常に子沢山で、息子の道隆や道長はのちに摂政関白を勤めますし、娘の超子、詮子はどちらも帝に入内して女御となりました。

こういう未来が、母親たちからすると理想なんですよ。息子は出世、娘は入内。そこには、夫の政治的な権力と後押しが必要不可欠です。

あわよくば、という期待が、道綱母の心にも、兼忠の娘の胸の内にも、おそらくあった。けれど実際のところそれは望み薄で、でも、いまさら引き返せなくて、複雑な心境を抱えた状態で、道綱母は養女を迎えました。

彼女が平安京へ到着する当日、どこから噂を聞きつけたのやら、兼家自身がわざわざやってきて「いったい誰の子供を引き取るんだ、早く見せてくれ」と迫りました。彼は詳しい事情を知らないので、どこか、赤の他人の子供を養子にしたと思ってるんですね。結構ワクワクしてるんですよ、このときの兼家って。子供が増えるのを嬉しがっている。

そこで道綱母も、「それではご覧に入れましょう。あなたのお子様として、認めてくださいますね」と確認しました。すると兼家は上機嫌に「そりゃあいいな。そうしよう。だから早く子供を見せてくれ」と急かした。

いざお披露目、となった女の子は、聞いていた年齢よりも幼い感じだったけれど、とても美しい髪で、品のある少女だったと書いています。それを見た兼家は一層盛り上がって「いやぁ、とても可愛いなあ。一体誰の子なんだ? さぁ白状しなさい」と言って、道綱母を責めました。

ここで彼女も、これはいけるな、と判断した。この子の素性を明かしても、兼家はきっと受け入れてくれるだろう。しらばっくれられて拒絶されたら、幼い養女はとんでもない恥を晒すことになってしまうわけですが、どうやらそういう心配はなさそうだった。

「この子はあなたのお子様ですよ」と言って、種明かしすると、兼家は咳き込んで「それは一体どういうことだ、どこの女の子供なんだ」と慌てました。無邪気にはしゃいでいた様子から一転して、神妙な流れになります。道綱母が何も応えず黙っていると、兼家はやがて自分で答えを見つけて、「もしかして、彼女のところに産まれたと聞いていた子供か」と尋ねました。

道綱母が肯定すると、兼家は泣いた。「今ではすっかり落ちぶれて、もう誰も行方がわからないだろうと思っていた。こんなに大きくなるまで知らずにいたなんて」。

そう言って涙を流す父に、果たして何を感じたのか、幼い娘も顔を伏せ、泣き崩れてしまいました。その様子を見ていた周りの人々も感極まり、「昔物語のやうなれば、皆泣きぬ」だったという。すなわち、まるで昔物語のような有様だったので、みな涙を流した、と、書かれています。

以上が、『蜻蛉日記』における「昔物語」の用例なのですが、これと、『源氏物語』における中将の話を考え合わせると、当時流行していた「昔物語」がどんな内容だったのか、なんとなく想像することができます。

おそらく当時、貴公子に愛されて子供を授かるものの、姿を消さなければならない憐れな女、というモチーフが、物語世界の中に、一つの典型として流通していたのではないかと思われます。しかもそのお話は、母の犠牲を伴って、都で父に引き取られる娘、というモチーフと、おそらくセットになっていた。

具体的な論文はまだ読んだことないんですけど、この辺りのことを追究した先行研究が、きっと存在するでしょう。なぜなら『源氏物語』という作品は、この「娘を手放す母」や「引き取られる娘」という題材を、とても大切に、繰り返し描いているからです。

『蜻蛉日記』を読むと、それが単なる「昔物語」の中の出来事ではなく、しばしば実際に起こり得た、身近で切実な悲哀だったことがわかるので、なお興味深い。やっぱり、『源氏物語』と『蜻蛉日記』は、セットで読むと面白いですね。

ずいぶん寄り道してしまいましたが、改めて、中将の話に戻りましょう。

撫子の歌に心動かされて女のもとを尋ねた中将でしたが、あくまで母親の立場で愛を求めている女の気持ちというのが、まだ若い彼にはピンと来ていなくて、どこかズレた歌を彼女に返します。

咲きまじる色はいづれと分かねども なほ常夏にしくものぞなき

入り混じって咲いてしまうと、花の美しさは区別しがたくなってしまうけれど、それでもやはり、常夏の魅力に及ぶものはありません。といった感じの歌なのですが、これは常夏について補足が必要ですね。

「常に夏」と書いて「とこなつ」と読むのですが、これって現代だと、「常夏の南の島」みたいな感じで、いつでも夏みたいに暖かい、気候を指す言葉としての用法がメインですよね。

一方で、「常夏」には撫子の花の異名としての意味もあって、なぜかというと、撫子が、夏を挟んで非常に長期間咲き続ける花だったからです。

中将はこの常夏の花を、子どもじゃなく、母親である女性と重ねる意味で歌に詠みました。つまり、母親も娘も、どちらも花のように可憐で美しいけれど、私にとってはやっぱり、子どもではなくあなたの魅力が一番ですよ、と歌いかけている。

ちなみになぜそう解釈できるかというと、「とこなつ」という言葉の中に、寝床を表す「とこ」という言葉がかかっているからですね。夜を共にしたことのあるあなたこそが、私にとって一番魅力的な人ですよ、というニュアンスが読める。

これ、女からすると、がっかりしたんじゃないかなぁって、思いますね。そういう言葉が欲しいんじゃないんだよなって、失望したんじゃないでしょうか。

中将はこのときの判断を、「大和撫子をばさしおきて、まづ塵をだになど親の心をとる」と語っています。大和撫子っていうのは、幼い娘のことですね。「塵をだに」っていうのは、古今集にある和歌に由来した言い回しなんですけど、男女の仲が疎遠になると、使われなくなった二人の寝床に塵が積もる、っていうような慣用表現が、当時あったんですよ。

だから、中将はここで何を言っているかというと、娘のことはひとまず傍に置いて、恋人として女の機嫌を先に取ろうとした、ということなんです。それに対して女は、次のような和歌を返しました。

うち払ふ袖も露けき とこなつに 嵐吹きそふ秋も来にけり

寝床の塵を払う袖も、涙の露で濡れている私に、嵐までが吹き加わりました。あなたに飽きて捨てられる季節がきたのですね。といった感じの歌で、「床」という言葉を出してきた中将の意図を受け止めながら、疎遠な男を恨むときの一般的な言い回しである「秋が来た」という表現で締めくくっているんですが、その間に挟まっている「嵐」って言葉が本当は大事で、ここに、右大臣家から攻撃されている現状の辛さがこもっているんですよね。

けれど多分、当時の中将はそのさりげないアピールに気づけなくて、なんか、俺のこと、あんまり強く恨んでなさそうだな、と感じたそうです。むしろ、涙を隠して、恨めしさを悟られまいとしているように見えたから、そういうことならこちらも変わらず振る舞いましょうということで、結局中将は、再び彼女の元から遠のいて行ったといいます。

その結果彼女は、いつの間にか姿を消してしまいました。

まだこの世に生きているなら、頼る相手もいない、心細い身の上で、さぞ落ちぶれているだろう、と、中将は語ります。私が心を寄せていた頃に、もっとはっきり、うるさいくらいアピールしてくれていたら、こんなふうに行方知らずにはさせなかったのに、と。

あんなふうに疎遠にせず、右大臣家とは別の、しかるべき交際相手として、末長く面倒を見てあげることもできただろうに。

あの撫子のような幼い娘が可愛いらしかったので、どうにかして尋ね出そうと思いましたが、今なお、消息は不明です。

と、いうのが、中将の語る思い出話でした。

いやー、なんとも言えない、絶妙な話なんですよね、これ。若い貴公子特有の至らなさ、甲斐性のなさっていうのが伝わってきて、これまでの話とは一味違う面白さがあります。

雨夜の品定めっていう枠組みにおいて、中将のこのエピソードは、左馬頭が語った、嫉妬深い女とか、浮気をしていた女とかと並ぶ、最後まで添い遂げられない女の一典型にすぎません。

しかし、光源氏にとっては違うんですよね。重みが全然違う。このとき語られた女性とその娘は、彼の人生において、ある種運命的な存在になっていきます。『源氏物語』のあらすじをある程度知っている人なら既にご存知のことと思いますが、私がそのことについて詳しく話せるのは、ずいぶん先のことになってしまうかな。

仄めかすだけ仄めかして、ひとまず今回は、ここまでにしておきましょう。長く続いた雨夜の品定の解説も、残すところあと一回です。ではでは、お疲れ様でした。また次回。




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