蜻蛉日記の話③町の小路の女

私は気づいたぞ/疑はしほかに渡せる文見ればここや途絶えにならむとすらむ/三夜連続の不在/なげきつつひとり寝(ぬ)る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る/移ろいたる菊/げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸もおそくあくるはわびしかりけり/時姫との贈答/そこにさへかるといふなる真菰草いかなる沢にねをとどむらむ/この女なに言ってるんだ/真菰草かるとはよどの沢なれやねをとどむてふ沢はそことか/四ヶ月後の再犯/吹く風につけてもとはむささがにの通いし道は空に絶ゆとも/色変わる心と見ればつけてとふ風ゆゆしくも思ほゆるかな/町の小路の女の出産/呆れ返るほど最悪だ/裁縫の名手/町の小路の女の零落/胸がスッとした/いま来むよ/虚しくても書かずにいられなかったこと/時代錯誤の超大作/堤和博『和歌を力に生きる 道綱母と蜻蛉日記』

【以下、文字起こし】
さて、蜻蛉日記解説の第三回です。前回は、有名な町の小路の女のエピソードが、どういう文脈、どういうタイミングで登場するのか紹介しましたね。早速ですが、今回はその続きからお話ししましょう。


九月(ながつき)ばかりになりて、出でにたるほどに、箱のあるを手まさぐりに開けて見れば、人のもとに遣らむとしける文あり。


ここまでは前回読みましたね。道綱母は8月の月末に息子を出産したんですけど、その翌月に、夫がよその女へ出そうとしている恋文を発見してしまう。


あさましさに、「見てけり」とだに知られむと思ひて、書きつく。

疑はし ほかに渡せる文見れば ここや途絶えにならむとすらむ


ここほんと、彼女らしいと言うか、他の人には真似できない挙動なんですけど、浮気の証拠を見つけた時、彼女は即座に、「私は気づいたぞ、って兼家に伝えよう」と思うんですよ。彼女のこういうところが気持ちいいよね、絶対に黙って泣き寝入りとかしないところね。


しかも、気づいたぞって知らせる方法が面白くて、和歌作るんですよね。で、その和歌を、浮気相手宛の手紙の余白に書きつけた。これ兼家の立場想像したらビビるよね。恋人宛に書いておいた手紙、そろそろ送ろうかなーって思って取り出してみたら、他の女性が書いた恨みつらみの歌が上書きされてるわけでしょ。ヒエってなる。けどまぁ、兼家は性格的に、そういうの平気なんでしょうね実際は。


疑はし ほかに渡せる文見れば ここや途絶えにならむとすらむ


他の女性に渡す文、手紙を見ますと、私のところへ通ってくださる足も途絶えてしまうのではないかと疑われます。というような内容なのですが、これ結構凄まじい和歌でして、何でかっていうと、「疑はし」の「はし」が、川にかかる「橋」との掛け言葉になっていて、同様に、手紙を表す「文」が、足で道を踏み歩く「踏み」ともかかっている。で、「橋」とか「渡る」とか「踏む」っていうのは全部「縁語」っていう和歌の修辞技法で繋がるんですね。人によっては、「途絶え」も縁語だよーとか、「とだえ橋」って橋が陸奥にあるからそれも重なるよー、とか説明されることもあって、とにかく細々技巧が凝らしてある。存外冷静というか、めちゃくちゃ腹が立っているからこそ、こういう全力投球ができてしまうんでしょうね。


しかし、抵抗虚しく兼家とよその女との関係はどんどん進展していく。「かみなづきつごもりがたに、三夜(みよ)しきりて見えぬ時あり」と本文には書いていて、三夜連続兼家が姿を現さなかったというんですけど、これは意味が重いね。当時の結婚は男が女性の家に三日連続通うことで成立しましたから、ここの記述はそれを暗示しているわけですよ。あのー、繰り返しになりますが、8月末に子ども産んでますからね。8月末に男の子産まれて幸せ絶頂人生これからだわーって思ってたら2ヶ月後には夫が別の女と結婚してるんですよ。人生、って感じですよね。


ところが兼家は呑気なもので、何食わぬ顔して「しばしこころみるほどに」とか言ってきたらしい。「ちょっと距離を取ることで、あなたの気持ちを試してみたんですよ」みたいな感じですね。まるでただただあなたと恋の駆け引きを楽しんでるだけです、とでも言いたげなセリフですけど、

いやいやあんたこの前浮気の手紙私に見つかったやん、と、そんでこのまえ三日連続でよそにいっとったやん、つまりそういうことやろ、って、思うわけですよね、道綱母からすると。


そんなある日の夕方、彼女の家で過ごしていた兼家が、「そうだそうだ、どうしても外せない用事が宮中であったんだった」とかなんとかいって出ていくことがあった。これを怪しんだ道綱母が召使に跡をつけさせてみると、兼家を乗せた牛車は内裏に向かわず、町の小路というエリアにある女の家で止まった。ここの記述に由来して、浮気相手の女性のことを「町の小路の女」というわけです。


報告を受けた道綱母は「さればよ」と思う。やっぱりな、とね。仕事があるんだったーとかなんとかいって出ていったけど、実際は新しい女のところで夜を過ごすだけじゃないかと、こっちは全部お見通しだぞと、思うんだけど、この辛さをどうやってぶつけたらいいのか、すぐには思いつかない。そうして二、三日経ったある日、夜明け前のタイミングで兼家が訪ねてきた。普通に考えたら宿直明け、徹夜の仕事を終えた後に休憩がてら顔を見せにきたと捉えたいところですけど、これをよその女の家で夜を過ごした帰りだっていう人もいますね。


まぁいずれにせよ、道綱母からすると、やりきれない気持ちがまだ続いてますから、門開けないんですね。家の。そしてら普通は、機嫌なおして中に入れてくださいよー、みたいな和歌のやりとりが始まると思うじゃないですか。男女の間でね。多分道綱母もそれを期待してたと思います。前回お話ししたように、若い頃の彼女って結構な文学少女だったので、物語の中に出てくるような場面を、自分の人生で再現したがってるところがある。そしたら兼家どうしたかっていうと、ここ面白くって、あの男なーんも言わずに帰るんですよ。入れてくれねーならしゃーねーなーつって

。しかも、例の町の小路の女の家の方へ去っていったらしい。


「おい!」ってなるんですよね、道綱母からすると。おい、そうじゃないだろ!って思った彼女は、翌朝とうとう和歌を詠んだ。


「なげきつつ ひとり寝(ぬ)る夜のあくるまは いかに久しきものとかは知る」


百人一首にも取られた、彼女の代表作と言っていい歌です。しかし、彼女が作った歌にしては技巧の少ないストレートな表現になっていて、「夜が明ける」と「門を開ける」の掛け言葉くらいしか、目立った工夫はありません。学生向けのことを一つ付け加えておくならば、疑問反語の助詞である「や」「か」は、直下に「は」を伴うと反語になりやすい、という知識がここでは役に立ちますね。「嘆きながら一人寂しく眠る夜が、どれほど長く辛いものか、あなたにわかりますか? どうせわからないでしょうね」みたいな感じの歌です。


彼女はこれを、いつも以上にきっちりと、体裁を整えて書いたらしい。そして、色褪せた菊の花に添えて兼家へ贈った。この菊は本文中「移ろひたる菊」と表現されていて、つまりこれは、かつて自分を愛していたはずの兼家の心が他の女へ移ってしまったことへのあてつけになっているわけですね。


すると流石の兼家も、これを無視するのはまずいと感じたらしく、次のような返事を寄越しました。


「あくるまでもこころみむとしつれど、とみなる召使の来あひたりつればなむ。いとことわりなりつるは。」


夜が明けきってしまうまで待とうとしたんだけど、急な用事を知らせる召使が来てしまったんですよ。いやはや、あなたがおっしゃることはごもっともです、と。加えて、次のような和歌も添えられていました。


「げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸もおそくあくるはわびしかりけり」


いやぁ、まっことまこと、冬の夜とはなかなか明けないものですが、その冬の夜でもあるまいに、扉をなかなか開けてもらえないというのは辛いことでしたなぁ。みたいな内容で、道綱母が送りつけた和歌に対するアンサーとして不足はないんですけど、ここで重要なのは、全体的になんか、ノリが軽いってことですね。真剣味が薄い。


特に、「げにやげに」って言い回しは特徴的で、本格的な和歌では用いることのない、冗談めかした表現だと指摘されています。つまり、なんか相当思い詰めてる様子だから一応フォローはするけど、実際のところ、そんなに怒ることでもないだろ、っていうのが兼家のスタンスなんですね。だから、この時は適当に嘘ついて、急な用事があったんですよーとかなんとか言っていた兼家も、やがては平然と、何の弁明もなく町の小路の女のところに通うようになっていきました。そんな彼の振る舞いを、道綱母は無神経だと責めています。せめて嘘でもいいから何か取り繕ってくれよってね。


こういうすれ違いを読むと、なんだか兼家ばっかりが薄情で、女性の気持ちをわかってくれない男のように映りますけれど、これは道綱母にとって必要な通過儀礼というか、彼女が味わって然るべき苦悩だったとも、思うんですよね。この感覚、わかるでしょうか? だって彼女もかつて、先に妻になっていた女性から、兼家の寵愛を奪ってるわけですよ。そういう客観的な事実を、このときの彼女は失念しているように見受けます。いや、本当に失念していたのかどうかは不明なんですけど、そう指摘されても仕方がないような不思議な挙動を、この後の彼女はとる。


「年ごろのところにも絶えにた(ん)なりと聞きて、文など通ふことありければ、五月(さつき)三、四日のほどに、かくいひやる。」


「年ごろ」というのは複数年とか長年、って意味を表す古語単語ですが、ここでいう「年ごろのところ」というのは、最も長い間兼家と関係を結んでいる女性、つまり、最初の妻である時姫のことを指します。町の小路の女の登場によって、兼家は時姫さんのところにも一切通わなくなったらしい。もともと彼女とは何度か手紙のやり取りをしたことがあったから、5月の頭に和歌を贈ってみた、と言うんですね。


「そこにさへかるといふなる真菰草 いかなる沢にねをとどむらむ」

真菰草というのは水辺に生える多年層で、刈り取って様々なことに活用しました。この草を「刈る」と、離れる、という意味の「離る」が掛け言葉になっていて、兼家はあなたのところにも寄り付かなくなったそうですね、と歌いかけるのが上の句。そして下の句は、植物の根っこと男女が共に「寝る」ことをかけて、あなたのところじゃないとすると、兼家はいま、一体どこの女のところで寝ているんでしょうね? というような意味になっています。


これ、凄くないですか? ちょっと解釈の難しいところなので、ゆっくり考えてみましょう。


まずそもそも、一人の男性を間に挟んだ妻同士で文通したりするんだ、ってことに驚きますよね。一応、これは当時の女性たちにとって一般的なことだったようです。でもだからと言って、それぞれの女性がお互いに対してどういう感情だったかは、難しい問題じゃないですか。特に、時姫みたいな立場、後から後から、自分以外の若い女性が夫の通い先として増えていく女性はね。


一方道綱母は無邪気なもので、このときの彼女って、ただひたすらに辛いんですよ。町の小路の女が現れて、兼家の愛を奪っていったことが辛い。そこで彼女はあろうことか、時姫と二人でこの辛さを分かち合おうとするんですね。だから、先ほど説明したような和歌を贈ることになる。


ところが時姫からしたら、この女なに言ってるんだって話じゃないですか。あんただって私から兼家を奪っていっただろうがと。なのに、自分が奪われる側になった途端、仲間ヅラしてこっちに寄ってくるのかと、当然思う。そこで彼女は、次のような和歌を返しました。


真菰草 かるとはよどの沢なれや ねをとどむてふ沢はそことか


真菰草は兼家のことを指していて、「かる」が草を刈ると「離れる」の掛け言葉なのも先ほどと同様です。「よどの沢」とは淀川沿岸のことで、当時真菰草の産地だったらしい。これに「寝室」という意味の「夜殿」がかかって、私の寝室から兼家は離れてしまっている、という旨を上の句が表しています。


そして、下の句の「ねをとどむてふ沢はそことか」は、私の元を離れた兼家が新しく根を張った場所はあなたのところだと聞いています、くらいの意味になる。


しかし、だとすると、この時姫の返歌は、道綱母が贈ってきた歌の内容とは微妙に食い違うんですよね。だって、道綱母の方は、自分のところにも時姫のところにも姿を現さず、新しい女性に入れ込んでいる兼家を前提にしていたわけじゃないですか。けれど時姫の方は、確かに兼家は私の元から離れました。彼の行き先はあなたのところでしょう? と返している。


これって、別に、時姫が現状認識できていなくて、町の小路の女の存在を知らなかった、って話ではないと思うんですよ。ただ、彼女は、仲良く肩組んでこようとした道綱母のことを、その気安く伸ばされた手を、突っぱねてやりたかったんだと思う。相手が成立させようとしてきた和歌の構造を、そのまま受け入れるのが嫌だった。


しかも、ただズレた答えを返すだけじゃなく、私から兼家を奪ったのはあなたでしょう? って歌を返すところが、なんかいいね。落ち着けってことだと思うんですよ。あなたは今、はじめて奪われる側に回ったから狼狽しているだけで、兼家が新しい女に心を移すことなんて、これまでもこれからもたくさんあるんだと。そういう、相手を教え諭すような冷たさ、興奮して道理を見失っている相手の顔にピシャッとかけた水みたいな冷たさが、この歌にはあります。


こういうやり取りの結果、道綱母が何を思ったか、っていうのは、実のところ不明です。記述がない。和歌だけ載せて、それで終わり。多分、当初期待していたような結果にならなくて面食らったのではないかと思うのですが、そういう感想は一切日記に書かれていません。ただ、面白いことに、彼女、四ヶ月くらいたった秋頃に、もう一回おんなじことやるんですよね。何考えてたのかはわからない。何考えてたのかはわからないけど、全然反省してないことだけはわかる。なんかやたらタフなんですよ、こういうときの彼女って。そこが凄く面白くて、魅力的ですねー、この人は。一応、歌も紹介しておきましょう。


吹く風につけてもとはむ ささがにの 通いし道は空に絶ゆとも


「ささがに」というのは、カニではなく、蜘蛛のことを指します。蜘蛛が巣を張ったり、服にくっついたりするのは、想い人が会いに来てくれる予兆だ、っていう俗信が当時あったらしくて、恋歌のモチーフとしてしばしば和歌に詠まれます。


だから、ささがにの通り道が途絶えるっていうのは、兼家と彼女の恋路が途絶えるってことを意味するんですけど、そうやって蜘蛛の巣を断ち切ってしまった風に乗せて、私はあなたにお便り差し上げます、と歌いかけている。つまりこれ、やろうとしていることはさっきと一緒ですよね。兼家が通ってこなくなった寂しさを、時姫と分かち合おうとする歌です。それに対する時姫のスタンスも、前回と同様でした。やっぱり彼女は、肩組んできた手をつっぱねる。


色変わる心と見れば つけてとふ風ゆゆしくも思ほゆるかな


「ゆゆし」って言葉は、いささか語気が強いね。程度の高さやある種の力強さを表す言葉ですが、どちらかというと、近寄りがたい対象にや、親しみとは縁遠い対象に用いられることの多い言葉です。だから、縁起が悪い、というように訳されることもある。


そもそも、秋風っていうのは基本的に、恋の終わりと結びついています。相手に飽きるの「飽き」と季節の「秋」が掛け言葉になるし、冷たい風が草木の色を変えていくことが、恋人同士の心変わりと掛けられることもしばしばです。それを思うと、あなたが便りを託したという秋の風そのものが、ゆゆしく、忌まわしいものに思われます。みたいなことを、時姫の歌は言っている。


ちょっとうんざりしてる感じがして、面白いですよね、これ。あなたは親しげに何度も歌を送ってきますけれど、それ自体が私には忌まわしいんですよっていう、時姫の呆れ顔が浮かびます。


ただ、ここで一言断っておきたいのは、今お話ししたような解釈をそのまま全部信じてしまうのは多分危うい、ということです。私は二人のやり取りから、若気の至りで空回っている道綱母と、それに付き合わされてうんざりしてる時姫、っていう構図を読み取って笑ってるんですけど、それがとんでもない誤解である可能性だってあります。道綱母は、そんな無邪気で無自覚だったわけじゃないって人もいるし、時姫の返歌についても、別の意図やニュアンスを読み取る意見があります。そもそも、若い時のこういうやり取りを、わざわざ日記に書くことの意図自体が、解釈難しいじゃないですか。だから、自分なりの読み方を見つけたくなった人は、ぜひ日記の本文やさまざまな注釈をご自身で読んでみてください。


兎にも角にも、町の小路の女が現れて以降、道綱母の心は荒んでいます。ここで一つ、根本的なことをおさらいしておきたいんですが、『蜻蛉日記』という作品の、いま読んでいる上巻に当たる部分が、ある程度歳をとった後で過去を振り返りながら書いたものだとするならば、いろんなエピソードを思い出すための縁(よすが)となるものが存在したはずですよね。つまり、手元に紙で残っているもの。和歌とか手紙とかを参考にして、それらと結びついたエピソードや感情をつぎはぎした結果が、『蜻蛉日記』の上巻だということになります。


それを踏またうえで、一つの手紙を紹介しましょう。兼家が道綱母に贈り、彼女を心底憤らせた問題作です。


「このごろここにわづらはるることありて、えまゐらぬを、昨日(きのう)なむ、たひらかにものせらるめる。穢らひもや忌むとてなむ」


これ何言ってるかっていうと、ここ最近は、出産間近でふせっている人がいたから会いに行けなかったんだ、というんですよ。当然これは、町の小路の女の出産を指します。ここしばらく兼家の寵愛を一心に集めていた彼女は、とうとう懐妊するに至ったわけです。やがて出産が近づくと、縁起のいい場所で産まなきゃ行けないと言うことで、兼家は大騒ぎしながら京都中を駆け回りました。その時の苦しさや惨めさを思い出して道綱母は、死にたいほどだった、せめてもう、兼家の姿なんて一生見たくなかった、と書いています。


おまけに兼家は手紙の中で、近くにいた自分の身にも出産の穢れがあるだろうから、それを憚ってあなたに会いに行けないのだと述べました。これに対する道綱母の評価が面白い。「あさましうめづらかなることかぎりなし。」呆れ返るほど最悪だ、と言うんですね。自分のところに疎遠なだけでも恨めしいのに、言い訳としてよこした手紙が他の女の安産報告を兼ねていたわけで、これを詰(なじ)る彼女の気持ちは、まぁわかる。


やがて兼家は、何事もなかったかのようにまた、彼女の家を訪ねてくるようになりました。しかしこっちは怒っているから、ろくに相手をしない。仕方がないから兼家はさっさと帰ってしまう。そういうことが、度重なったと書いています。


こういうとき、機嫌を直してくれよー的な和歌のやりとりがあったらよかったと思うんですけど、そういうのは一切なかったみたいですね、兼家から。次に彼から送られてきた手紙も、これまたひどい。


裁縫の依頼が届くんですよ、道綱母のところに。縫い物ね。服を仕立ててくれって話です。どうやら彼女ってそれがかなり得意だったらしく、生涯を通してしばしば依頼を受けているし、その出来栄えに誇りも感じている様子なんですけど、今回はタイミングが悪いね。


いやいや、そんなの町の小路の女がやれよ、って話になる。だって今、兼家がもっぱら滞在してるのはあっちなんですから。しかも多分、今回依頼された服って、町の小路の女の服か、あるいは、新しく生まれた息子とか、彼に関する儀礼で必要とされる衣類を繕ってくれ、って感じの依頼だった様子なんですよ。


だからまぁ、道綱母は怒るよね。「見るに目くるるここちぞする」と書いています。腹が立ちすぎて眩暈がしたとのことです。


しかし、彼女のお母さんは先方を憐れんで「あないとほし。かしこにはえつかうまつらずこそはあらめ」と言ったらしい。「いとほし」っていうのは、気の毒だって意味ですね。「え~ず」は不可能を表す呼応の副詞だから、つまり、町の小路の女のところではできないから頼んできたのでしょう。断ったら気の毒ですよ。という旨のことを、母親は言ったようです。


多分これ、道綱母からするとびっくりする発言だったんでしょうね。母さん何言ってんの!? って、おそらく思った。だから記憶に刻まれて、こうして日記にも残っている。


この時彼女が考えたことは、侍女に代弁させる形で記録されています。「なま心ある人などさし集まりて、すずろはしや」「えせで、わろからむをだにこそ聞かめ」ここちょっと解釈が揺れるので難しいんですけど、とりあえず、町の小路の女のところには未熟でいい加減な人材しかいないから、裁縫の一つもできないんだろ、ということを言っています。


これ、面白いですよね。服を上手に仕立てることが平安貴族社会の女性に求められた重要スキルだったわけですけど、まさか貴族の家のお嬢様が手ずから全部こなすはずはないので、実際のところ、重要なのは采配とスタッフなんですよ。優秀な女房や侍女を集めていて、そこに適切なコンセプトと指示を下せる女性が、裁縫の達者な女性だと評価されます。


そういう人材が、あっちにはいないんでしょうよ、と見下す気持ちや、それをなんでこっちが手伝ってやらなきゃいけないのよって、馬鹿馬鹿しく思う気持ちなどが、「すずろはしや」という一言に込められている。この単語は、ネガティブな感覚に支配されて心が落ち着かない様を表します。


後半の「わろからむをだにこそ聞かめ」は、「わろからむ」ことが何なのか明記されていないので、ちょっと難しいね。こっちが依頼を断ったら、むこうはごちゃごちゃ悪口を言ってくるだろうけど、それを聞いてやろうじゃありませんか、みたいに訳す注釈書もあるし、衣服が揃えられなくて世間にみっともない思いをする先方の、恥ずかしい噂話を聞いてやりましょう、と読む本もあります。まぁいずれにせよ、依頼を断ったって良心は咎めない、というのが、このときの彼女の気持ちだったんでしょうね。


ちなみに、この一件の後、兼家は20日以上音信不通になったらしいです。そのことについて日記では、「かしこにも、いと情けなしとかやあらむ」と書いている。兼家の方でも、私が依頼を断ったことをひどく思いやりのない仕打ちだと思ったのだろうか、みたいなニュアンスです。これを当時の彼女が判断できたかどうかは不明ですけど、まぁ、後から振り返って、反省する部分もあったんでしょうね。


というのも、町の小路の女が現れたせいで彼女が被った不愉快な体験って、これで打ち止めなんですよ、実は。つまり兼家は、とうとうこの新しい女性に飽きた。しかも可哀想なことに、彼女が産んだ息子は、幼くして他界してしまいます。


「人憎かりし心思ふやうは、命はあらせて、わが思ふやうに、おしかえしものを思はせばやと思ひしを、さやうになりにしはてはては、産みののしりし子さへ死ぬるものか。」


底意地の悪い心理状態だった当時の私の思いとしては、命は取らずに生きながらえさせて、私と同じように苦悩させてやりたいと思っていたところ、その通りなった挙句、つまり、兼家からの寵愛が失われてしまった上に、産んだ子供まで死んでしまった。


と、蜻蛉日記解説の第一回でも紹介した結構どぎつい記述がここで登場します。加えて彼女は、不幸の底に落ちた町の小路の女の出自、どういう生まれの人だったのかってことを、いまさらのように扱き下ろしていきました。そして、あの女は言いようもなくつまらない素性の存在なんだと断じた上で、そういう事情を知らない者たちにチヤホヤされていい気になっていたようだけど、俄かに立場が転落して、あいつはどんな気分だったろうか。私の抱いた苦悩よりも少しは余計に嘆き苦しんだかと思うと、今は胸がすっとする。というようなことを、わざわざ日記に書いている。


ここで私たちは、藤原道綱母という女性の嫉妬深さや気の強さ、そして、あまりに露骨な憎悪の表現を、笑って済ませることもできます。だって、子どもを亡くしちゃった人に対して、あースッキリした! ざまぁ見やがれ!! みたいなこと書いてるわけでしょ。そりゃ、笑うよね、現代人の感覚からしたら。実際私も、学校の授業で扱うときは、そういう笑い話として紹介して終わると思います。


けれど、ちゃんと前後の文脈を踏まえて考えるならば、事はそう単純でもありません。何度も繰り返しますが、この日記って、何年も後になってから振り返って書いてますからね。もしこれがリアルタイムの日記なら、気の強い彼女が勢いに任せてこういうこと書くの分かりますよ? でも実際はそうじゃない。この点を、どう解釈したらよいでしょうか。


考えるためのヒントは、日記本文の続きにあります。引用してみましょう。


いまぞ例のところにうち払ひてなど聞く。されど、ここには例のほどにぞ通ふめれば、ともすれば心づきなうのみ思ふほどに、ここなる人、片言などするほどになりてぞある。出づとては、かならず「いま来むよ」と言ふも、聞きもたりて、まねびありく。


これ、何言ってるかっていうと、町の小路の女の元に通わなくなった兼家が、その後どうなったのかって話です。道綱母の感覚からすると、彼女の次に寵愛を受けていたのが町の小路の女なんだから、そいつに飽きたらまた自分のところへ戻ってくるだろう、と思ってたわけですよ。


でも実際はそうじゃなかった。兼家は、一人目の妻である時姫のところに帰って行ったんです。ここがね、兼家という男のまともなところであり、残酷なところなんですけど、彼ってどれだけ浮気をしても、時姫のことだけは尊重し続けるんですよ。その証拠に、彼女は今後も子どもを産み続け、三人の息子と二人の娘を歴史の表舞台に送り出していきます。


その一方で、道綱母には道綱一人しか子供がいない。この道綱がまた切なくって、赤ん坊だった彼も成長して段々言葉を覚えていくんですけど、たまーにしかやってこない父親の台詞、「いま来むよ」っていう言葉を、しきりに真似したっていうんですね。


これどういう意味かというと、兼家が家を出るとき言うらしいんですよ。「またすぐ来るよ」ってね。実際には滅多にこないんですけど、毎回そう言って帰るもんだから、息子は覚えて真似をする。その時の切なさが、よっぽど胸に残ったんでしょうね。彼女はわざわざ具体的なエピソードとして日記に書き残しています。


つまりこれって、時姫とそれ以外の女性との間には、超え難い壁があったってことなんですよ。兼家は今後もいろんな新しい女性に手を出し続けるんですけど、時姫だけは別格の存在として君臨し続けていた。それってまぁ、当たり前っちゃあ当たり前のことなんですけど、道綱母って女性は多分、そういう構造の中に自分も組み込まれているんだってことが、あんまりピンときてなかったんじゃないかぁって、思われます。若い頃はね。


彼女は二回も和歌を送って、時姫と気持ちを分かち合おうとしてましたけど、この二人の立場は全然違うんですよ。道綱母が兼家から最も深く愛された期間っていうのは、町の小路の女が現れたタイミングでもう終わったんです。本当はもっと前から兼家の心は離れていたんでしょうけれど、それを明確に自覚させられたのが、町の小路の女に関する一連の事件だった。


こういう前提を踏まえた上で、我々は、彼女の怒りや嘆きを読んだ方がよいね。ただのざまぁ見やがれじゃないんですよ。もう愛されないことが当たり前になってしまった彼女からすると、いまさら過去を振り返って、町の小路の女のことボロクソにいったところで、虚しいだけじゃないですか。虚しいけど、でも、彼女はそれをせずにはいられなかったんですよきっと。それってもののあはれじゃないですか。そういう微妙な感覚を一緒に感じて欲しくて、こうやって長々と解説をしています。


ただね、やっぱり彼女って、面白い人で、ただじゃ起きないと言うか、しんみり泣き寝入りするだけじゃ終わらないんですね。最後にそういう、パワフルなエピソードを一つ紹介して終わりにしましょう。


兼家が時姫の元へ帰っていったせいで、道綱母はまた改めて嘆き暮らすことになるんですけど、兼家自身はそういうの全然ノーダメージでどこ吹く風なんですね。「わしになんか悪いところあったか? ないだろ?」みたいなことを平然と言う。


そしたら彼女はね、どうにかして兼家の心を動かしたいって思うんですよ。こっちは本気で苦しくて、毎日いろんなこと思い悩んでいるのに、それが一個も真剣に伝わってないのが許せない。


となったとき、彼女の武器は当然和歌の力なんだけど、もうね、生半可な和歌じゃダメだって思うわけですよ。今までだって何度も何度も和歌で兼家に文句言ってきたけど、リアクションいまいちだったじゃないですか。だからどうにかしてスペシャルな一撃をお見舞いしてやろうって考えたとき、彼女が何やったかって言うと、長歌つくったんですよ。長歌。「ながうた」って書いて、長歌ね。


意味わかんないと思うから説明しますと、我々が一般的に和歌として認識している五・七・五・七・七っていうあれは、分類で言うと短歌なんですね。短い歌なんです。平安時代になるとあれが和歌のスタンダードになるんですけど、それより前の奈良時代には、五・七・五・七・五・七って組み合わせを何回も繰り返す長い和歌が存在していました。これが長歌です。柿本人麻呂とか、山部赤人とか、万葉集の歌人には、長歌の作品がいろいろありますね。


けれどこれは平安時代になると廃れていって、ほとんど作られなくなりました。わずかに残っている例も、愁訴、つまり、政治的な不遇などを嘆いて上司に訴えるための歌がいくらか見える程度です。


そういう時代にあって、道綱母はわざわざ、夫に対する文句をぶつけるためだけに長歌を作るんですよ。しかも、五・七のセットを60回以上繰り返して、合計一二三句の歌を作った。これ長歌としてもめちゃくちゃ長いんですよ。なんかもうね、おらーって感じなんですよ。ヤケクソになってる。


こういうところがねー、彼女の憎めないところですよね。兼家もビビったと思うなぁ。彼、律儀に頑張って長歌を返そうとするんですけど、途中で力尽きて、八十九句で終わっちゃってます。しかも出来が悪い。仕方ないですよね、当時はもう、長歌のやりとりなんて普通はしないんですから。いきなり一二三句送りつけられても困るよね。そういう、兼家の苦労も含めて面白いところです。


では最後に、今回も本を一冊紹介しておきましょう。堤和博さんが書いている『和歌を力に生きる 道綱母と蜻蛉日記』という本です。さっき紹介した長歌の件も含めて、和歌のやりとりにフォーカスして蜻蛉日記を読み解く内容になっていて、大変興味深かったです。これを読んで、改めて、あー確かにいきなり長歌作るのやばいなって、思いましたもんね。作品の魅力を引き出す素敵な内容でした。これ新書ですからね。学術書とはいえ、そこまで高価ではありません。もし興味が湧いたら、ぜひ手に取ってみてください。


ではでは、お疲れ様でした。また次回。

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