源氏物語の話19 指を噛む女

第二帖「帚木」⑦/指物/墨書き/嫉妬深い女/指を噛む/手を折りてあひみしことを数ふればこれ一つやは君がうきふし/うきふしを心ひとつに数へ来てこや君が手を別るべきをり/いといたく思ひ嘆きて、はかなくなり侍り/竜田姫/織姫/たはぶれにくゝなむ、おぼえ侍りし/ありぬやとこころみがてらあひみねばたはぶれにくきまでぞ恋しき/浮気な女/月、菊、紅葉、笛、琴/ザ・平安貴族の恋愛/琴のねも月もえならぬ宿ながらつれなき人をひきやとめける/木枯らしに吹きあはすめる笛のねをひきとどむべき言の葉ぞなき

【以下文字起こし】

源氏物語解説の第19回です。帚木の解説としては七回目になります。


これまで、随時脇道に逸れながらのんびり話してきたわけですが、このペースですと雨夜の品定めについて語るだけで10回を超えてしまいそうなので、今回はちょっと、スピードアップを意識してみようと思います。

あいも変わらず左馬頭が喋ってるわけですよ。そしてそれを、光源氏の義理の兄である中将がとりわけ興味津々に聞いていると。

ここで左馬頭は、比喩的な譬え話を始めるんですね。パートナー選びっていうのはアレに似てる、これみたいなもんだ、って話を、当時の芸術的、文化的話題と絡めて語る。

例えば、指物職人の話とか彼はするんですけど、指物って、皆さんわかりますか。指に物体の物を書いて「さしもの」って読むんですけど、これ、日本の伝統的な木工家具とか調度品なんですよね。

現代社会だと、棚やタンスを作るとき、各パーツをどうやって繋ぎ合わせますか? ネジとか釘とか使いません? でも指物は、そういうの一切使わないんですよ。各パーツがうまく噛み合うように、穴とか溝とか掘ってね、それをはめ込むことで形を保つ仕組みになっています。

これ何が嬉しいかっていうと、まず一つは、釘の頭とかが表面に出てくることがないから、単純に綺麗です。工芸と呼ぶに足る、とても滑らかで美しい調度品に仕上がります。

加えて、劣化しづらく修理しやすいところも良かった。金属の釘って痛むんですよね。だけど指物なら、分解して、メンテナンスして、もう一度組み直せば、もとのパーツを保ったまま子々孫々ずっと使い続けることができました。

これの職人を引き合いに出して、左馬頭が何をいうかっていうと、その場限りの手慰みというか、単に見た目が洒落てるだけ、単に目新しく興味深いだけの木工なら、だれでも作れるっていうんですね。あんまり実力の差が出ない。

だけど、古典的な、決まった姿形のある格式高い調度品を、無難に堅実に作り上げることにかけては、相当な実力差が出ると。名人の技術はやっぱり格別で、素人目にもそれがわかるんだって左馬頭は語る。

これ、どういう比喩かっていうと、その場限りの、表面的な趣っていうのは誰でも取り繕えるから信用ならんって話なんですよね。女性っていうのもこれと同じだと。

続けて左馬頭は、例え話の二つ目として絵画の話を持ち出します。当時の宮中において、仕事で絵を描くっていうのは組織的な分業だったんですけど、一番偉い責任者は何するかっていうと、「墨書き」っていう、下書きと仕上げの作業を担当したらしいんですね。で、この職人にもかなりピンキリがあると。

例えば実在しない蓬莱の山とか、行ったことない海の魚とか、中国に生息しているらしい猛獣とか、目に見えないはずの鬼とか、そういう確かめようのないものを、なんとなく派手に仰々しく描くことは、誰でもできるわけですよ。

だって誰もみたことないんだから。中国から輸入されたお手本に従って、蓬莱ってこんな感じですよ、虎ってこういう動物らしいですよ、って描くしかなくて、あとはそれをどうやってそれっぽく見せるかの勝負でしかない。

だけど、普通にそこらへんで目にできる日常的な風景に関しては、描くにあたって誤魔化しが効かない。誰もが知っている景色を、しかし芸術として誰もが心動かされるように描くためには、相当な技量が必要だっていうんですね。

このあたり、単純な例え話としてだけじゃなく、源氏物語が描かれた時代の文化的な世相を読み取る上でも意義があると指摘されていますね。以前、菅原道真の話でも説明しましたけれど、平安前期ごろまでの貴族社会って、中国から輸入された文化の価値がめちゃくちゃ高くて、だからみんな、漢詩とか唐絵とか輸入された品々とかを重んじていたんだけど、そこから段々、和歌とか大和絵とか、日本独自の文化の方が勢いを増していくんですね。

そういう価値観の変化が、源氏物語において、中国っぽいモチーフを誇張して描くだけなら誰でもできるけど、本物の大和絵を描こうと思ったら力量が問われるぞ、という記述に繋がっているんじゃないか、って指摘されているわけです。

で、左馬頭はまた別の例として、「字を書くこと」もこれらと同様だと言います。これはギリギリ、今を生きるなかでも実感できると思うんですが、サラサラサラッと繋げて書く、行書体とか草書体っぽい文字って格好いいですよね。でもあれって、本来は文字ごとに崩し方が決まっていて、何でもかんでも繋げりゃいいわけではない。だから書道をちゃんと勉強している人からすると、この人の字は出鱈目だな、この人の字は本物だなってことが一目瞭然だし、やっぱり正しい崩し方や繋げ方をした方が美しい筆跡になるわけです。

これと同じような理屈を左馬頭も言っていて、あちこち適当に筆を走らせて、気取った風に書いている文字っていうのは、ぱっと見センスあるように見えるんだけど、それじゃダメだと。本格的な筆使いで丹念に書いた文字は、表面上目立たないんだけど、並べて見比べたときにやっぱり良さがわかる。

そういう、すぐには気づけない実直さや誠実さっていうのが芸術では大事だし、人の心もおんなじだって、左馬頭は語るわけですね。その場限りの見せかけに騙されるなよ、と。

こういう風に、抽象化して物事を語る人っていうのは、なんというか、賢そうに見えますね。本質を掴み、うまく取り出しているように映る。だから中将も感心しちゃって、お坊さんからありがたい説教を聞くときみたいな様子だったって書いてあります。

そうやって真剣に聞いてもらえると、語る方も気持ちよくなってくるんだと思うんですけど、続けて左馬頭は、自分の体験談を話し始めます。こっからね、一段階ギアが上がるんですよ、雨夜の品定めって。エピソードトークとしての面白さが出てくる。

これは私がまだ、全然身分の高くなかった頃の話です。という風に、左馬頭は語り始めます。

当時関係を持ったとある女性は、見た目がめちゃくちゃ美人ってわけではなくて、私も当時はまだ若かったですから、もうちょっと魅力的な相手と今後出会う可能性もあるんじゃないかってことで、この女性のことを「とまり」とは思っていませんでした、と彼はいう。この「とまり」っていうのは、船着場みたいなもので、要は腰を落ち着ける場所、生涯連れ添う相手としてこの女性を見ていたわけではなかった、という話です。

だから、いろいろ世話してもらうという意味では頼りにしてたんだけど、その一方でたくさん浮気をして、他の女性の元へ通っていたと。するとこの女性はヤキモチを妬きますよね。それが相当容赦のないヤキモチだったんだっていうのが、この話のメインテーマです。

当時まだ身分の低かった左馬頭からするとね、俺みたいなパッとしない男相手にここまで熱くなってくれるのかと、いじらしく思えることもありましたと言っている。

おまけにこの女性はかなり努力家で、もともとは苦手だったことも、好いた男のためならなんとかしようってことで、いろいろ工夫したり頑張ったりしてくれていました。性格的には気の強い部分もあったんだけど、妻として立派に夫を支えたいって気持ちがあったから、そういう意味では左馬頭の言うこともちゃんと聞いてくれた。

ルックスに恵まれた女性ではなかったけれど、一生懸命化粧したりしてね、自分の無様は夫の恥だと思って、いろんな方面に終始気を遣ってくれていたとも言います。

でも左馬頭曰く、いま説明したようないいところが全部吹っ飛ぶくらい、この女性の嫉妬深さはダメだった。そこで彼は考えました。この人はこんなにも強く俺を愛して、理想的な妻であろうと尽くしてくれるんだから、ヤキモチ焼きについても、あんまり口やかましく言ってるともう別れちまうぞ、とかなんとか言って脅かしたら、反省してしおらしくなるだろう、と。

これは、マズイですね。なんだか嫌な感じの展開になってきましたけど、頑張って続けますよ。

ある日、彼女がいつものように嫉妬して、恨み言を言ってきたタイミングで、左馬頭は次のようなことを言いました。

「こう気が強くては、私たち二人がどれほど強い縁で結ばれていたとしてもおしまいだ。もうこれ以上会わない方がいいだろう。あなたも、二人の関係がこれっきりで途切れてしまっていいと思うんだったら、そのまま私を疑って怒っていればいいさ。

だけどもし、将来まで長く連れ添っていく気があるのなら、多少辛いことがあっても我慢して、思い詰めず、嫉妬癖をなおしなさい。そうすれば、私もあなたに強く心を寄せましょう。

私だって、やがては出世して人並みの身分になるはずです。その暁には、支えてくれる妻としてあなたに並ぶものはいないでしょう。」

だからいい加減嫉妬癖をなおせよ、というニュアンスのことを、左馬頭は言ったらしい。彼としてはね、とうとう言ってやったぞと。しかも、結構上手に大事なことを教えてやれたんじゃないか? って、思ってたみたいなんですけど、ここで彼女はね、左馬頭の期待とは全然違うリアクションをする。

「少しうち笑いて」と、本文には書いています。「ふっ」て、ちょっと笑ったっていうんですね、彼女は。わかりますか? こっちはこっちでとうとうキレるんですよ。いままで精一杯、いい奥さんになろうと頑張っていて、言いたいけど言えないこともたくさんあったはずなんですね。でもそれは愛ゆえのことだから、嫉妬の心だけは消せない。そこに男があんまり勝手なことを言うもんで、バカらしくなってきて、女の方も今まで口にしなかった本音をぶつけてくる。

「あなたは現状、何もかも全部みすぼらしくって、人並みじゃない男です。でも、そういう若い頃の苦労を我慢して、立派になる日もいつか来ようと待つことに関してなら、私は心穏やかでいられるし、いつまで待たされても苦になりません。

ただ、あなたの辛い浮気心を我慢して、いつかは改心してくださるだろうと、あてにならない未来を頼りに何年も過ごすのは苦しくってたまりません。なるほど確かに、もうお互いお別れするべきタイミングなのでしょうね。」と。

ここで私たち読者は、おそらく少し、チューニングを合わせなければなりません。彼女のこのセリフを、そのまま現代社会の男女関係に重ねてしまうと、多分ちょっと理解がずれるように思います。

これつまり、彼女が養う側だったってことなんですよね。彼女がって言うか、彼女の家が、まだ若い左馬頭を養って世話していた。それは別に当時の常識に照らしたら普通の関係なんですけど、とは言えこのセリフはなかなかキツイね。私はあなたのことを、こいつパッとしない男だなぁと思いながら世話してきました、と。そういうことでしょ。

こういうリアクションを、左馬頭は予想していなかった。だから彼は腹を立てて、彼女に対してさらなる憎まれ口を返したと言います。すると向こうも一層ヒートアップして、左馬頭の指を一本引き寄せると、ガブって噛み付いたそうです。

これ、当時の常識に照らしたらどのくらいの暴挙だったんでしょうね。今だったら、痴話喧嘩の末、女性の側が男性の顔をビンタする、とか、思いっきり足踏むとか、まぁそこそこあり得そうですけど。平安時代の女性にとっては、どうなのかなぁ。

ちょっと面白いのは、女の側の実力行使に対して左馬頭が、なんか、道端で肩ぶつかったチンピラみたいなこと言い始めるところですね。要は、大袈裟に被害者ぶる。

「おーおー、こんな恥ずかしい傷が指についてしまったら、人前になんて出られないぞ、と。あなたがバカにしてくれた、うだつの上がらぬこの官位も、いよいよ出世の道を絶たれるでしょう。こんな体になってしまったからには、もはや出家するより仕方あるまい」

とかなんとか言って、こっちはこっちで出家ちらつかせるわけですよ。そうして去り際、左馬頭は次のような和歌を突きつけたそうです。

手を折りて あひみしことをかぞふれば これ一つやは君がうきふし

連れ添った日々のことを指折り数えてみるに、あなたの悪い部分はこの一件だけでは済まないぞ

みたいなニュアンスですね。もう我慢できん、俺たちはこれでいよいよお終いだ、捨てられたなんて恨んでくれるなよ、というメッセージを叩きつけた格好になる。すると彼女は泣き出して、

うきふしを心ひとつに数へ来て こや君が手を別るべきをり

と返歌した。

あなたからの辛い仕打ちを胸一つにしまって堪えてきましたが、いまこそお別れすべきタイミングなのでしょう。というような内容を、「うきふし」とか、「手」とか、「をり」という共通のキーワードを交えながら返したわけです。

ザ・痴話喧嘩って、感じですねー。表面上は言い争っているけれど、男の側としても、本気で別れるつもりはなくて、とりあえず数日間は音信不通の日々を送り、いろんな浮気相手のところを遊び歩くんだけど、ある日ふっと、彼女のことを強く思い出す。

それはひどくみぞれが降る、寒い夜だったと言います。一緒に職場を出た同僚も散り散りに別れて行って、一人になったタイミングで、左馬頭は思う。

「なほ家路と思はむ方はまたなかりけり」と。

やっぱ、俺が帰る先はあいつのところしかねーな! みたいな、そういう身勝手だと思ってくれたらいいでしょう。寒いからね、なんせ。手厚く世話してくれる彼女のことが恋しくなったわけですよ。

とはいえ、指噛まれて暴言ぶつけ合った日、以来の来訪ですから、左馬頭の方も最初は気まずくて、わざとらしくゆっくりと肩の雪を払ったりしながら、彼女の家の様子を伺ったそうです。するとどうやら、向こうも今夜あたり男が訪ねてくると予想していた気配があった。普通なら閉めておくべきカーテンみたいな部分も空いてるし、暖かそうな服が男のために用意されているのも見える。

ほーらやっぱりね、と、左馬頭は思った。やっぱりあいつは俺のこと待ってたんだな、と。あぁそーだよな、あいつは気が利く女だから、こう言う日はあったまる準備をしておいてくれてると思ったんだよな、って、調子に乗るんだけど、ただ、肝心の女本人は姿を見せない。

留守番していた女房の説明によると、どうやら親の実家に帰っているらしい。そこで左馬頭は、なんとも複雑な気持ちになるんですね。え、いないの!? と、肩透かしを食らう。え、じゃあやっぱり、本気で別れる気なの? だから、今まで音信不通でも無反応だったってこと? と。 

でも、用意してくれた服は全然手抜きじゃないし、真心を感じる。ということは、今でもちゃんと、俺の心配をしてくれてるってこと? どっち? とかなんとか考えて、ひとしきり混乱した結果、最終的には、まぁ大丈夫だろ、なんだかんだ言って俺を見捨てたりすまいよ、と、左馬頭は結論づけました。

するとまた、彼も悪い癖が出てきて、例の如く彼女のことを冷たく扱い始めるんですね。そういう今まで通りの様子に対して女の方は、「もう我慢できません。心を入れ替えてくれないと、一緒には暮らせません」ってはっきり伝えるんだけど、そうはいっても本気で別れる気は無いんだろってたかを括ってる左馬頭は、一向に態度を改めませんでした。

さて。ここで突然ですが、衝撃的な展開が訪れます。

「いといたく思ひ嘆きてはかなくなりはべり」と、本文には書いてある。簡単な単語しか使われていないから、高校生なら自分で訳がとれるかもしれませんね。「いといたく思ひ嘆きてはかなくなりはべり」。

「はかなくなる」というのは、高校生の古語単語帳にもよく載っているワードで、「死ぬ」って意味です。だからこれ、たいそうひどく気に病んで死んでしまったっていうんですよ、女が。

えーってなるでしょ、ここ。滅茶苦茶びっくりするんですよ読んでて。なんか、突然、やたらあっさり人が死ぬんですけど、これって、そんな、軽々しい問題じゃないだろって、思うんですよね。

想像してみてくださいよ。こんなね、男4人でダラダラ恋バナしてる中でさぁ、あ、じゃあ自分、体験談話しますねって一人が言い出して、おいおい奥さんに指噛まれたのかよーとかいって笑いながら話聞いてたら、最後の最後で、実は相手の女死んだんだよねってオチつけるの、ついていけないでしょ。 どういうテンションで話してんのそれ? って、なりません?

ここが本当、解釈というか、受け止め方に迷うところで、注釈書とか論文も軽く調べましたけど、なかなか要領を得ないんですよねー。

一応、この後の流れを説明しますと、話し終えた左馬頭は、「ひとへにうち頼みたらむ方は、さばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる」と、彼女のことを振り返っています。

「思ひたまへ出でらるる」の「らるる」は、苦手な学生の多い文法事項、いわゆる「自発」の「らる」です。

「頼みたらん方」、妻として自分の世話を任せる相手としては、あのくらいの女性でちょうどよかったなって、今更思い出されます。と、左馬頭は言う。軽い趣味上のことも、重要でフォーマルなことも、両方幅広く相談できたし、何より染め物の腕前がすごかった。竜田姫にも負けないくらいだったって、彼は言います。

これ、以前「古今和歌集と紅葉の名歌の話」という回で説明したと思うんですが、「竜田姫」っていうのは、竜田山とか竜田川と結びついている秋の女神なんですよね。で、あのあたりは紅葉の名所だから、地面や川面を覆い尽くす紅葉を色鮮やかに染められた錦の布にたとえる和歌がたくさん詠まれていて、竜田姫という女神は、秋を司ると同時に、染め物の女神としても認識されていたんですね。

で、死んじゃった左馬頭のかつても恋人は、その竜田姫と並ぶくらい染め物がうまかったと。なんなら、それだけじゃなく、七夕の織姫に負けないような裁縫の腕もあった、妻としての仕事に万事堪能な女性だった、と、彼は言う。

ここで本文は、亡き女を想う左馬頭の様子を、「いとあはれと思ひ出でたり」と書いています。
そんな彼に対して声をかけたのは中将でして、「どうせ七夕の織姫に似るのなら、服を仕立てる腕ではなく、彼女と彦星の永遠の愛にあやかればよかったものを」とコメントしています。

ここもね、なんかエモーショナルな、切ないことを言ってるように見えますけれど、ただ単にちょっと気の利いた返しをしてるだけの感もあって、解釈に困りますね。これって、本当、どういう重さのある話として、彼女の死を受け取ればいいのかなぁ。

少し話は前後してしまうのですが、先ほど紹介した「いといたく思ひ嘆きてはかなくなりはべり」の直後に左馬頭が口にしたセリフについて、改めてお話ししておきしましょう。

思い嘆くあまり彼女は死んでしまったんです、と、話した後、左馬頭は「たはぶれにくくなむおぼえはべりし」と付け加えています。

「おぼえはべりし」はわかりますね。動詞「おぼゆ」の連用形に丁寧の補助動詞「はべる」と過去の助動詞「き」の連体形が続いて、そう思われました、感じられました、くらいの意味になる。

なぜ文末なのに助動詞「き」が連体形の「し」に活用されているかと言うと、手前に出てくる「なむ」で係り結びが発生しているからですね。「なむ」は強意の助詞ですから、直前の「たはぶれにくく」という言葉がいかに強く左馬頭の胸に迫ったか、その重さを伝える役割を果たします。

じゃあ「たはぶれにくく」って一体何なの? 何言ってるの? って話なんですけど、ここの訳は注釈書でもかなり揺れています。新日本古典文学大系だと「うっかり冗談もならぬことと思われましたよ」、新編古典文学全集だと「冗談もほどほどにしないと、というきがいたしました」、源氏物語評釈では「冗談はできないものと考えましたことです」となっている。

これ、「たはぶれ」を「冗談」と訳すところは共通するんですが、新大系の訳には、「冗談では済ませないことになってしまった」というニュアンスがありますね。一方残りの二つの訳だと、「冗談を言うものではないな」って感じのニュアンスで左馬頭の発言を受け取ることになる。

でも別に、左馬頭は彼女へ冗談を言ったわけではないんですよね。本気で別れたかったわけじゃないのに、相手を都合よくコントロールするための駆け引きとして別れたがっているフリをしていた、と言った方が実態に近い。

だから、後者のニュアンスでとるとしても、冗談を言うものではない、というよりか、本心じゃないことを軽々しく言うものではない、くらいの意味で「たはぶれ」をとった方が近い気がするんですけど、んー、どうかなぁ。

あと、ここの表現は古今和歌集のとある歌と響いているんだって指摘もなされていて、これは重要だと思うので紹介しておきましょう。

ありぬやと こころみがてら あひみねば たはぶれにくきまでぞ恋しき

これは頭から訳すと混乱してしまう和歌です。ラ変動詞「あり」に完了の助動詞「ぬ」と疑問の助詞「や」がついているけど、ここだけ読んでもちょっと意味がわからない。続く「こころみがてら あひみねば」というのは、おそらく、恋人同士が試しに逢わないでいてみたら、ということなので、頭についている「ありぬやと」っていうのは、「私たち、逢わずにいられるかなぁ。我慢してやりきれるかなぁ。無理かなぁ。」みたいなニュアンスの疑問文として、おそらくとれる。

恋人たちが愛を試すために、あえてしばらく逢わずにおいてみたと。そうしたら、「たはぶれにくきまでぞ恋しき」だった。そんなおふざけなんてやっていられないくらい、相手のことが恋しくなった。あるいは、冗談じゃ済まないくらい恋しくなった。そういう感じの和歌です。

左馬頭のセリフがこの歌を前提にしているとしたら、なかなか切ないと言うか、皮肉ですね。

なぜならこの歌は、離れてなんていられないくらい恋しい、という気持ちを詠んでいるからです。そこと響きあうことで、今更のように死んだ彼女を恋しがる左馬頭の心情を感じることができる。

そこまで斟酌して読んだら、まぁ、ぎりぎり、この女性の死もちゃんと扱われているのかなって、思わなくもないですけど。それでもやっぱり、難しいなぁ、ここは。今後の宿題ですね。

ちなみに、これも驚くべきことだと思うんですけど、この死んじゃった妻の話を披露した後、左馬頭は何事もなかったかのように気持ちを切り替えて、もう一人別の恋人についてのエピソードを語り始めるんですよね。今度は逆に、浮気な女性、左馬頭以外の男性とも関係を持っていた女性について話が展開されます。

こちらの相手は、「人もたちまさり、心ばせ、まことにゆゑありと見えぬべく、うち読み、走り書き、かいひくつまおと、てつき口つき、みなたどたどしからず」だったそうです。

「人」が立ち勝るっていうのは、ちょっと複雑で、「人」っていう単語自体に、人柄とか、家柄
とかってニュアンスがあるんですね。そういう要素が優れた女性であったと。

また、「心ばせ」、精神面でも奥ゆかしい魅力があり、歌を詠む力量にしても、字を書く腕前にしても、琴を弾く音楽性にしても、何もかもそつなく達者であったといいます。おまけに、ルックスも悪くなかったらしい。

だから左馬頭は、さっきの嫉妬深い妻の方を、なんというか、所帯じみた? 生活を世話してもらうための相手として確保しておいて、その一方で、恋愛を楽しむための浮気相手として、こちらの女性の元へ通っていたそうです。

ところが、嫉妬深い妻の方は死んでしまいましたよね。そこで左馬頭は、この浮気相手の方へ通う頻度を増やすわけなんですけれど、そうやって深く付き合ってみると、どうもこの女性は頼りない。ちょっと眩しいくらい魅力的なんだけど、そのぶんモテるから、一途なタイプじゃないんですね。

そこが気になるもんだから、自然と足も遠のいていったそうです。そうこうしている間に、どうやら女の方は、本当に浮気をしていたらしい。

なぜそれがわかったかと言うと、浮気相手が左馬頭の知人だったからです。

10月の、月が美しい夜。仕事を終えた左馬頭が牛車に乗って帰ろうとすると、とある殿上人が一人、その車に同乗することになりました。殿上人ってことはまぁ、左馬頭よりかなり身分高いですよ。

その身分高い彼がね、帰り道がてら、寄りたいところがあるって言い出す。「今夜、俺を待っている女がいるんだ」とね。ついていってみると、そこは例の女性の家だった。

ここから先の描写は、なんというか、ちょっと怖い。

「荒れたる崩れより池の水かげ見えて、月だに宿る住処を過ぎむもさすがにておりはべりぬかし」と書いてあります。

女の家は敷地を囲う塀に崩れたところがあって、そこから池の様子が見えると。月の美しい夜だから、水面にはそれが映っていて、月さえこの家で一晩を過ごそうとしているのに、男の俺が素通りするわけにもいくまいよ、というわけですね。これはおそらく殿上人の言い草なんだけれど、左馬頭自身も、吸い寄せられるように牛車を降りて、様子を窺ってしまう。

殿上人はそわそわした様子で家に入ると、屋敷の中の渡り廊下的なところに腰を下ろして、しばらく月を眺めました。

「菊いと面白くうつろひわたり、風にきほへる紅葉のみだれなど、あはれと、げに見えたり」とあります。旧暦の10月はもう冬の頭ですから、菊の花には霜が降りて、美しく儚く変色している。紅葉の葉も、風に吹かれて先を競うように散る。なんとも美しく、趣深い情景です。

やがて殿上人は懐から笛を取り出し、それを吹き鳴らしはじめました。すると、女の部屋のすだれの奥からは、音色のいい琴の音が響いてきた。音楽で呼びかける男に、音楽で返しているわけです。滅茶苦茶風流なんですよ、ここ。ザ、平安貴族の恋愛って感じでね、作品によっては、これが主人公とヒロインのやり取りですって言われても通用するくらい美しい。

女の風情ある演奏に感じ入った殿上人は、すだれの側まで近づいて、「庭の紅葉こそ踏み分けたる跡もなけれ」と呼びかけました。庭の紅葉とか草を踏んだり分け入ったりするのは、男が女のもとを訪ねてくることを意味します。その跡がない、ということは、俺以外他の男は誰も来ていないみたいだね、と呼びかけていることになる。

重ねて彼は、庭に咲いた菊を一輪手折ると、それをすだれに差し入れながら、次のような和歌を詠みました。

琴の音も 月もえならぬ宿ながら つれなき人を ひきやとめける

琴の音色も月も、言葉にできぬほど素晴らしい様子ですが、薄情な恋人を引き止めることはできませんか?

というような歌で、これ要するにね、自分が浮気相手であることを明確に前提とした関係だってことなんですよ。今日も彼は来てくれなかったみたいですね。って、女を揶揄いながら、だけど俺は会いに来ましたよってアプローチしている。私が聴いてあげるから、どうか勿体ぶらずにもう一曲琴を演奏してください、なんて冗談も飛ばしたらしい。

すると女は、色っぽく気取った声で次の歌を返した。

木枯に吹きあはすめる笛の音を ひきとどむべきことの葉ぞなき

「琴」を「弾く」と、「言葉」で「ひきとめる」が掛け言葉になっていますね。木枯らしの風の音に唱和するようなあなたの笛の音を引き止めるだけの琴の音も言葉もありません。と。

だから、逆にいうとまぁ、本当は引き留めてそばにいて欲しいんです、って主旨の歌ですね。

こうしたやり取りに対して左馬頭は、艶っぽくいちゃついててムカついたって、言っていますね。この後も女の演奏は続いたし、それが才気あふれる素晴らしいものだったってことは彼も認めているんだけど、もうそれ以上は見るに耐えなかったらしい。まぁ、そりゃそうですよね。自分も浮気性なくせに、ごちゃごちゃいうなよって話ではありますが。

私がこのあたり一連の描写を怖いと感じたのは、それがあまりにも平安時代的で、風流で、美しかったからです。とても美しく、けれど同時に、とても強烈な揶揄が含まれている。

滑稽な話じゃないですか、これって。こんなに美しい琴の音色と月があっても、彼は来てくれなかったんですね、なんて言ってるその背後では、左馬頭本人がムカつくなーこいつらって思いながら覗き見してるわけでしょう? 台無しですよね、景色も音色も和歌も全部。

こういう、わかりやすく美しいものを描きながら、冷たいくらいバッサリとそれを台無しにしてみせるところに、紫式部の怖さというか、凄まじさを感じるんですよね。

そういう観点で言うなら、さっきあまりにもあっさりと描かれた、思いが強すぎるせいで嫉妬に燃えて、最終的には気を病んで死んだ女性っていうのも、紫式部がバッサリ台無しにしようとしたものの一つだったのかも、しれませんね。

最後に、少しだけ、古文の解釈とは関係のない話をします。

仕事の性質上、どうしても繁忙期というのが存在するので、このポッドキャストも余裕がない時期は更新が滞ってしまいます。過去にも何度か、そういうことがありました。

するとしばしば、心配して、応援のコメントをくださる方がいらっしゃるんですよね。そういうのって確実に、私の生徒ではない人からの、ものでして。もっとご高齢の方や、高校生として聴き始めたけれど、今はもう大学生なんです、といった方々から、とても励まされる言葉をいただいています。

このポッドキャストの取り組みの性質上、そうしたご厚意に対して積極的に反応することはできないんですけれど、今回は、その、いろいろ手を尽くして、私に手紙を書こうとしてくれた方がいたようで、そのことについては、とても嬉しく思いました。費やしていただいた時間と言葉に、心から感謝申し上げます。本来なら、私の方こそお手紙差し上げたいところですが、万感の思いを、この場の一言に預けます。本当に、ありがとうございました。

もちろん、これまでコメントくださっていた方にも、これから興味を持っていただく方々にも、深く感謝しています。子どもたちの学びの足しになればと願って、のんびりやっていることですので、気長にお付き合いいただければ幸いです。

ではでは、お疲れ様でした。また次回。


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