蜻蛉日記の話①現存最古の女流日記

命はとらずに苦しめたい/摂関家の貴公子、藤原兼家/受領階級、藤原倫寧の娘/藤原冬嗣の子孫たち/尊卑分脈/本朝第一美人三人内也/大鏡/きはめたる和歌の上手/男性貴族の先例としての日記/ためしにもせよかし/遺書を書くこと、人生を振り返ること/和歌の名手だからこそ至った境地/角川ソフィア文庫/川村裕子『平安女子の楽しい!生活』/新日本古典文学大系、新編日本古典文学全集、新潮日本古典集成/増田繁夫『蜻蛉日記作者 右大将道綱母』/長門千恵子『蜻蛉日記の表現と構造』

【以下文字起こし】

さて、今回からは蜻蛉日記の話をしたいと思います。蜻蛉日記ってちょっと不遇な作品で、平安時代の古典文学として、本当はとても重要な位置付けにあるんですけど、学校教育においてはどうしても、枕草子や源氏物語の影に隠れてしまいますね。で、印象に残ってないだけならまだマシだと思うんですけど、人によっては蜻蛉日記について、アレなんか嫌いだったなぁ、とか、読むの嫌だったなぁ、って記憶だけを残して大人になってしまうことすら、あるかもしれない。

例えば、高校の古典の教科書が蜻蛉日記を収録するとき、「町の小路の女」に関するエピソードを載せることが多いんですけど、これが一体どういう話なのか、あえて大雑把に説明しますと、日記の作者である藤原道綱母って女性には、夫がいるんですね。藤原兼家という人です。

作者はこの兼家が、どうも最近他の女に浮気しているらしいと気づいた。証拠の手紙が見つかるんですよ。そこで、召使に跡をつけさせると、「町の小路」という地名のあたりに住んでいる女のところに通っているらしいと発覚しました。

彼女はそれが言葉では言い表せないくらい辛くて、それでも精一杯、自分の抱える苦悩を訴えるんですけど、当の兼家はケロッとしてて、全然気持ちが伝わってる感じがしない。そこで彼女は、「いとどしう心づきなく」思った。より一層強く不満を抱いたってことですね。

ちなみに、藤原道綱母はこの浮気相手のことを大層深く恨んだんですけど、その結果彼女は、どういうネガティブな願いを抱いたか、わかりますか?

悲しみとか嫉妬が募って、どうしても相手を許せなくなってしまったとき、人は何を望むだろうかって、ことですよね? うん。こういう問いに対して、今、「相手がこの世から消えてくれたらいいのに」って答えを、想像した人も、いるかもしれませんね。それって相当深くて鋭い負の感情だと思うんですけど、蜻蛉日記の作者の願いっていうのは、ある意味ではそれすらも、凌駕していました。

「命はあらせて、わが思ふやうに、おしかへし ものを思はせばや」

と、本文中には書いてあるんですけど、これつまり、殺すんじゃなくて、あえて生きながらえさせて、逆の立場で、私と同じ苦しみを味合わせてやりたかった、と、書いている。

まぁ、ここに関しては、どっちかっていうと、私は死ぬより辛い思いをしたんです、とか、私ほんとに辛かったんです!! って話の方に主眼があるとは思うんですけど、それにしたって、「命はあらせて」って表現は、なかなか凄まじいですね。命は取らずにおいて苦しめてやりたいって、ねぇ、そうそう口にできないですよ、普通。

とまぁ、こんな感じの話が教科書に載ってるわけなんですけど、これを高校生や中学生が全員興味津々で楽しめるかというと、それはちょっと難しいわけです。

たとえば、浮気されたくらいでそこまで怖いこと言うなよー、みたいな、揶揄する気持ちで楽しむ人はいるでしょうし、偶然自分自身もパートナーの浮気に悩んでいる人とかなら、共感して、深く心に響く部分があるかもしれないですね。

けれど、こういう下世話でネガティブな話が苦手な人も、多分結構いるはずで、気分悪いから聞きたくないよこんなのって、私自身、子供の頃は思っていました。そういう人にとっては、蜻蛉日記ってなーんにも楽しくなくて、むしろ不快な作品かもしれない。

つまり、ここで何を言いたいかって言いますと、私たちは、揶揄とか共感以外の眼差しで、蜻蛉日記の価値を見つけられるようになった方がよかろう、ってことなんですよ。揶揄とか共感でしか古典文学を楽しめないっていうのは、危ういと言うか、多分結構もったいない。

特にこの、蜻蛉日記っていう作品は、境遇も、感情も、彼女だけのもので、本当は誰にも共感なんてできないからこそ、尊く、魅力的な作品になっていると思うんですよね。今回は特に、その話がしたい。

実はめちゃくちゃ凄い作品なんですよ、蜻蛉日記って。そしてめちゃくちゃ面白い。そもそも、彼女が日記を書いたっていうことそのものが、ある種感動的なんですけど、そんなこと言われても意味わかんないと思うので、二つのことを説明しましょう。一つは、藤原道綱母という女性が一体何者だったのかということ。そしてもう一つは、当時の社会において日記を書くということがどのような意味を持ったのか、ということです。

当時はよほど名誉な立場の女性しか本名が記録に残らなかったので、藤原道綱母という女性の名前もわかっていません。ただ、彼女が藤原氏の一族だってことはわかりますね。

彼女の夫は藤原兼家という男でした。彼は歴史上の重要人物でして、その人生を辿るだけでめちゃくちゃ面白い人なんですけど、話が長くなりすぎるので、それは別の機会に譲りまして、今回は簡単な紹介だけしておきます。

一番通りのいい説明をするならば、藤原道長の父親にあたるのが兼家です。ただし、道長の母親は、道綱母とは別の女性になります。

兼家の家柄って凄まじくて、彼と道綱母が結婚した天暦8年、西暦でいうと954年において、まず、兼家の父親にあたる師輔って人が右大臣。師輔のお兄さんである実頼が左大臣。師輔の弟である師尹と師氏がそれぞれ中納言と参議。そして、結婚の数年前に亡くなった兼家のおじいちゃん、これ藤原忠平って人なんですけど、彼が関白太政大臣でした。

めちゃくちゃ席巻してるんですよね。これ、凄さわかりますか? 平安時代の貴族って、偉くなると天皇と一緒に国政を動かせるようになるんですけど、この、天皇と同じ空間で、天皇と一緒に仕事している人たちが最上級貴族です。官職名でいうと、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議、がこれにあたります。

もう一回兼家の一族についておさらいしましょうか。お父さん右大臣。おじさんが左大臣と中納言と参議、死んだおじいちゃん関白太政大臣です。凄まじいでしょ。ちなみに兼家自身も、最終的には摂政太政大臣まで登ります。

一方、道綱母の方はどういう家柄出身だったかと言いますと、彼女のお父さんは、藤原倫寧という人でして、いわゆる受領階級の貴族でした。倫理観の倫に丁寧語の寧で「ともやす」。受領というのは、今の県知事みたいな立場で、各地方を統治しながら、税を徴収して朝廷に納めるのが仕事でした。京の都で国政を動かす最上級貴族たちに比べると、貴族としてのランクは落ちるので、受領階級イコール中流貴族ってイメージですね。

そうやって言われると、まぁまぁ凄いじゃん、って思われるかもしれないんですけど、ここで大事なのは、頑張っても受領になるのが限界だったってことなんですよ。

祖先を辿っていくと、倫寧のおじいちゃんのおじいちゃんが藤原冬嗣という人物だったことがわかります。高校で日本史を選択した人は知ってると思うんですが、彼はビッグネームです。

平安時代の初め頃に嵯峨天皇っていう非常に影響力のある帝がいたんですけど、彼と強く結びついて大活躍した政治家が冬嗣でして、以後、貴族社会のトップ層には常に冬嗣の子孫たちの姿がありました。

ただし、冬嗣の一族が全員栄えたわけではなくて、兄弟の家系が枝分かれしていくに従って、勢いを失っていく血筋もあったんですね。

冬嗣の息子のうち、一番有名なのは良房という男です。承和の変とか応天門の変とかに関わって、藤原氏の中で、というか、皇族以外の家柄の中で初めて摂政や太政大臣になったのが、この良房でした。大政治家と言っていい。

良房にはお兄さんがいて、藤原長良、長い短いの「長い」に良し悪しの「良い」と書いて「ながら」という人だったんですけど、彼は弟ほど出世しなくて、生前は権中納言どまりでした。すごい人格者で、いい人だったらしいんですけどね。

どちらかというと長良の子供達の方が有名で、娘の高子は清和天皇に入内して、次の帝である陽成天皇を生みました。また、高子は伊勢物語のヒロインとしても名が知られています。

息子の基経は良房の養子に入って、義理の父親の跡を継ぐ形で政治の世界を牛耳っていきました。

ただ、基経の弟の高経っていう人は、蔵人頭やったり、歌人として有名だったりしてそこそこ凄いんだけど、基経に比べるといまいちパッとしなくって、この人の血筋は代を重ねるごとにランクダウンしていきました。この高経の孫にあたるのが倫寧です。

おさらいしておきましょう。平安時代の初めに、嵯峨天皇と結びついて力を伸ばした藤原冬嗣という人物がいました。彼の子孫のうち、良房、基経、という流れは代々摂政とか関白とか太政大臣とかになって栄えたんだけど、長良、高経、という流れはいまいちパッとしなくて、このパッとしない高経の孫だったのが、道綱母の父親である藤原倫寧でした。

血筋とか家柄っていうのは、代を重ねるごとに段々固定化されてしまうんですね。倫寧自身は決して無能な人ではなかったんですけれど、彼がどれだけ頑張ったとしても、受領階級以上に出世できる可能性はなかったでしょう。

倫寧は若い頃大学寮で学問を修めていたんですが、あんまり学者路線には進まなくって、どちらかというと有能な役人としてキャリアを積んでいきました。彼は陸奥国っていう、今の東北地方の受領に任じられたんですけど、めちゃくちゃきっちり税を回収して、前任者が滞納していた分まで含めて処理したことが記録に残っています。真面目にちゃんと働く人だったんでしょうね。その後は河内、丹波、常陸、上総、伊勢、と、数多くの地方で受領を歴任しています。

こういう家に生まれ育ったのが、藤原道綱母という女性でした。摂関家の貴公子と、受領階級の娘。彼女が兼家と結婚するっていうのは、生活が一変するレベルの玉の輿でした。このギャップの大きさがどれほど凄まじかったか、我々は頑張って想像した方がいいね。

さっき、藤原冬嗣の子孫の中で、パッとしなかった血筋の末裔が倫寧だって説明したじゃないですか。実はあの時話した、冬嗣、良房、基経って流れの先にいるのが兼家なんですよ。政治家のトップとして栄えていった方の血筋です。基経の息子の一人が、関白太政大臣忠平で、その孫にあたるのが兼家、という流れになっています。

じゃあなんで兼家みたいないいとこの貴公子が倫寧程度の家柄の娘に声をかけたのかって言いますと、これには理由がいくつか推測されていて、まぁ一番わかりやすいのは、彼女が魅力的だったからだって理由ですね。

尊卑分脈っていう、古典文学とか歴史学勉強する人は必ずお世話になる史料がありまして、これ、当時の人々の家系図にプラスして、男性貴族の場合は、務めた官職とかの補足情報が載ってるんですね。で、道綱母のところには、面白いことに「本朝第一美人三人内也」と書かれている。日本三代美女のうちの一人だってことです。

まぁ、尊卑分脈って完成したの室町時代くらいだし、結構いい加減な記述が多いので、そのまま真に受けるわけにはいきません。そもそも何を根拠に書かれた情報なんだよそれって、話ですしね。それでもまぁ、美しい女性としての評判は、当時から高かったんでしょう、おそらく。

加えて彼女は、女流歌人として相当な実力を持っていました。『大鏡』という歴史物語において、「きはめたる和歌の上手」と紹介されるほど、その腕前は優れていた。もちろん、大鏡が書かれたのは後の時代のことなので、兼家に見染められた当時の若い彼女がどれほど名を轟かせていたかは不明ですが、まったく評判になってなかったとは考え難いので、倫寧のところに美人で和歌の上手い娘がいるらしいぞ、という認識は広まっていたものと思われます。

そしてどうやら、兼家と倫寧っていうのは、もともと多少のつながりはあったらしい。

倫寧って受領に任じられる前は蔵人っていう仕事をしてて、これは天皇の秘書みたいなものだから、貴族としてのランクがあんまり高くなくても、蔵人だったら昇殿できるんですよね。昇殿っていうのは、天皇とか最上級貴族たちが政治やってる仕事場に入ることです。で、そこって限られた一部の人しかいない建物ですから、そこで顔を合わせるっていうのは結構大きな接点なんですよね、貴族たちの人間関係において。

あと、倫寧は兼家の親戚の家、おじさんである藤原実頼の家系ですね、に出入りして、家の仕事を手伝ったりもしていたらしいので、そういうところからも見知った関係ではあったようです。

さて、では、ここまで話したところで、蜻蛉日記冒頭の一部を引用してみましょう。

人にもあらぬ身の上まで書き日記して、めづらしきさまにもありなむ、

人並みでない身の上、だからまあ、自分のこと謙遜してね、私みたいな大したことない人間でも、日記として書き綴ってみたら、珍しく思ってもらえることがあるかもしれません。と彼女はいう。なぜなら、彼女自身は大したことがなかったとしても、夫は大人物だからです。

天下(てんげ)の人の品高きや、と問はむためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、さてもありぬべきことなむ多かりける。

天下の人、この上もなく高い身分の人の妻って、いったいどのような生活なんだろうか、と、気になる人がいたら、この日記を先例にしていただきたいと思います。ただ、過ぎ去った年月のことは、記憶も曖昧で、ちゃんとした内容じゃない記事も多くなってしまいました。

とまぁ、こんな感じの書き出しで本文はスタートしていくんですけど、ここの記述をもとに考えたいことが、結構たくさんあります。

そもそもね、今と違って、当時、日記というのはそこまでメジャーなものではんなかったんですよ。いや、厳密にいうと、仮名文字で書かれた女性の日記というのが珍しかった。現存する古典作品の中では、この蜻蛉日記が最古です。

日記ってね、もともと男性のものだったんですよ。ただしこれは、現代社会の私たちがイメージしている日記とはちょっと違う。どっちかっていうと、公的な記録とか備忘録に近いものです。何月何日に、宮中でこういう行事があって、誰それがこういう振る舞いをして、それは古くから伝わる作法に則っていて立派だった、みたいなことを、漢字で書き記している。

なんでそんな記録をとるのかというと、それが後の時代の役に立つからです。例えば学生の人たちが、文化祭でなんか出し物しなくちゃいけないってなったとき、どんな感じでやったらいいのか参考にするために、前の年に先輩たちがやってた様子の写真とか動画とか観たりするでしょ。ああいうイメージですよ。何をするにつけても、先例というのは大事です。

だから朝廷の中には日記を書くのが仕事って人たちがいたし、そういう公的なものだけじゃなく、男性貴族それぞれが、息子とか一族のために私的な日記を書いたりもしていました。

蜻蛉日記の冒頭にも、「ためし」って言葉が入っていますよね。これは「先例」って意味の古語です。「ためしにもせよかし」と書いてあるから、先例にしてくださいね、と言っていることになります。つまり、男性貴族たちの日記と同じような役割を果たすために書いたんですよー、と、一応とれる。

でも、じゃあ、従来漢文で書かれていた日記を、ただひらがなで書いただけのものなのかって言ったら、全然そんなことはない。この季節のこの儀式にはこういう準備が必要だから夫のために用意してあげた、みたいなことばっかり書いてるんならわかりますけど、実際はそうじゃなくて、夫に浮気されて不満だったとか、相手の女に深く苦しんで欲しかったとか、そういうことを書いてるわけでしょう? 誰の役に立つんですかそれ。自分のためにしかならないですよ、そんなもの。

さっき、日記の冒頭を読んだ段階で気付いた人もいると思うんですけど、蜻蛉日記って、リアルタイムに毎日コツコツ書かれたものじゃないんですね。上巻中巻下巻と三つに分かれてるんですが、それぞれ違う時期に書かれたものなんじゃないかと考えられています。

上中下の各巻がいつ、どういう意図で制作されたのかってことについては諸説あって定まりきらないんですけど、少なくとも上巻に書かれている、道綱母が19歳ごろから33歳ごろまでにかけての内容は、後になってから振り返って書かれたものだろうと思われます。

彼女、34歳くらいのときに、病気を患って死にかけるんですね。結果的には元気になって長生きするんですけど、一時期ほんとに滅入って、兼家宛に遺書まで書きました。

この遺書を書くって行為が、おそらく、彼女の中で何かの蓋を開いたのではないかと思われます。

自分のこれまでの人生を振り返って、夫に直接伝えておいた方がいいことは、一通り遺書に書いたわけですけど、多分、それだけじゃ収まりのつかない何かが、彼女の中に沸き起こったのではないかってことです。

それはきっと、若い頃にはわからなかったことで。彼女、受領階級の家の娘が送るはずだった、一般的な人生から逸れて、摂関家の妻という特殊な立場を生きてきたわけですけれど、なってみて初めてわかったことっていうのが、多分たくさんあったはずなんですね。彼と結婚するって決まった当初の、ただ、期待に胸をときめかせていた頃にはわからなかった現実が彼女を待っていた。そして、これは彼女に限った話ではありませんが、人生っていうのは一回しかないんですよね。

だから、いまさら後には退けないんだけど、でも一方で、一人では抱えきれない想いがあるんだってなったとき、興味深いのは、彼女が日記という形式を選んだことです。

さっきも言いましたけど、彼女って和歌の名手なんですよ。そして面白いことに、おそらく日本で最初に仮名で書かれた日記である『土佐日記』の作者、紀貫之もまた、時代を代表する歌人でした。

和歌の道に卓越した二人が、あえて日記という表現形式を求めたことは、この国の文学史を考える上で、特筆すべきことのように思われます。

当時は今と違って、感情表現のスタンダードが和歌だった時代ですから、和歌の名手だった二人は、そうでなかった人たちに比べて、言葉に不自由しない身の上だったはずです。

しかし実際は、その二人こそが新しい言葉を求めた。

仮名で書く散文。しかも、架空の物語ではなく、我が身に起きたこと、心が感じたことを連綿と書き残す日記という形式を、彼女たちは新たな表現として選びました。

それって、あの時代において、和歌を使いこなし尽くした二人だったからこそ、和歌の力を出し切って、その限界を知っていたからこそ、初めて至った境地のように思われます。

これがねー、個人的にはとても感動的で、面白いんですよ。冒頭で言ったことを繰り返しますが、この、蜻蛉日記っていう作品は、境遇も、感情も、彼女だけのもので、本当は誰にも共感なんてできないからこそ、尊く、魅力的な作品になっていると思うんですよね。そしてそもそも、彼女が日記を書いたってことそのものが、ある種感動的なんだと、私は思います。

まぁ、本文の内容を全然紹介してないのにこんなことだけ言われたってピンとこないと思うので、また次回以降の解説を聞いた後で、最後にもう一度ここへ戻ってきてもらえたら幸いです。

では最後に、今回蜻蛉日記の解説を準備するにあたって、参考にした本や論文の一部を紹介しておこうと思います。

まず、本文を通読するにあたっては、角川ソフィア文庫の蜻蛉日記を使いました。

角川ソフィア文庫はね、Kindleに入ってるところが何より素晴らしいですね。ただ玉に瑕なのは、訳註をつけてくれている川村裕子先生の作品解説がないことです。【誤り】

【お詫びと訂正】 
公開当初の音声では、上記のように「角川ソフィア文庫の蜻蛉日記には作品解説がない」という旨を発言しておりましたが、あれは誤りです。大変申し訳ありませんでした。現在は音声を差し替えて訂正しております。

川村裕子先生は、蜻蛉日記に限らず、平安時代の王朝文化全般に関する本を書かれています。『平安女子の楽しい生活』とかが、確か岩波ジュニア新書から出ていたはずで、ああいうのは、中学生や高校生が当時の文化を学ぶのにいいですね。子供向けに、滅茶苦茶軽いノリで書いてくれています。

あと、これ意外と大人の人も知らないことが多いんですが、新日本古典文学大系とか、新編日本古典文学全集とか、新潮日本古典集成みたいな、いわゆる注釈書と呼ばれる本には、必ず作品解説がついています。これかなり詳しい内容が書かれているので、学生のみなさんは、もし学校の課題で作品について調べる必要が生じたら、Wikipediaとか検索する前に、図書室行って注釈書の解説読んだ方がいいですよ。当然私も、この三冊の作品解説には目を通しています。ただまぁ、誰のどの説を重く扱うかってことに関しては、その場その場で色々あるんですけれど。

もう一冊。ちょっと古いですが、増田繁夫先生の『蜻蛉日記作者 右大将道綱母』という本も、大変素晴らしいですね。増田先生は源氏物語の研究をなさっている平安文学の専門家なんですが、この本の何がすごいって、過不足なく、必要な情報を流れるように解説していく、文章全体の構成能力が素晴らしいんですよ。

時代背景はこうで、こういう史料があって、人間関係はこうだから、このときこの人はこうだった。へー、そーなんだ、なるほどー、おもしれー!って感心しながら読んでたらいつの間にか一冊読み終えているような本です。でもちゃんときっちりアカデミックな入門書なんですよ。このバランス感覚がすごい。

もちろん、古い本なので、最新の研究によって覆っている部分も多々あるとは思うんですけど、頑張ったら高校生でも読めるレベルの文章だし、多分、注釈書やただの現代語訳を読むよりもよっぽど理解が早いと思うので、興味がある人は、大学図書館にでも潜り込んで探してみてください。地方自治体の図書館には、あったらすごいね。

最後にもう一冊、これはバリバリの専門書ですが、長門千恵子先生の『蜻蛉日記の表現と構造』って本も、大変勉強になりました。

この本の何が素晴らしいって、蜻蛉日記研究の歴史をまとめてくれているんですよね。こういう本って、これから初めてその作品の勉強をしようとしている人間には滅茶苦茶ありがたくって、大変助けられました。

あと、蜻蛉日記という作品の成立過程について、かなり踏み込んで書いてくれているところも良かった。これまでどういう説が何を根拠として提唱されていたのか、それを踏まえて長門先生ご自身はどういう考えなのか、ということが整理されていて、そうそうこれが知りたかったんだよって、嬉しくなりましたねー。

はい。ということで、今回からは私も、ちゃんと大学図書館を使って調べ物をするようになったので、参考までに何冊か紹介してみました。次回以降は次回以降で、またそのときの内容に沿った本を紹介しようと思います。蜻蛉日記がご専門の先生、まだまだたくさんいますからね。

別に、中学生や高校生の人に、そういう専門書を読めって言ってるわけじゃなくて、へー、大学で古典を研究してる人って、こういう本を読んでるんだなーっていう、空気や雰囲気が伝わったら幸いです。

ではでは、お疲れ様でした。また次回。


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