源氏物語の話21 日本紀の御局

第二帖「帚木」⑨/小粋な平安男子ジョーク/吉祥天女/日本霊異記/ミス仏教/薬師寺吉祥天像/頭中将/博士の娘/我が両の途歌ふを聴け/にんにく臭い女/ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるますぐせと言ふがあやなさ/蒜(ひる)/あふことの夜をし隔てぬ仲ならばひるまも何かまばゆからまし/例外的存在としての中宮定子/高階成忠/忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな/円融天皇/和泉式部/赤染衛門/出羽弁/伊勢大輔/左衛門の内侍/日本書紀講師の女房様/彰子と二人で秘密のレッスン/新楽府/「ひけらかすこと」への忌避/山本淳子


【以下文字起こし】
源氏物語解説の第21回です。「帚木」の解説としては9回目になります。

前回は、宮腹の中将の体験談について話ましたね。彼の恋人はとても可憐な女性だったのですが、気持ちを表に出して訴えないタイプだったため、中将の正妻にあたる右大臣家から仕打ちを受けていたにもかかわらず、それすら押し殺して、はっきり伝えずじまいで姿を消してしまったんですね。

語り終えた中将は、左馬頭が話した二人の女性にしても、自分が話した頼りない女性にしても、それぞれ何かしら問題はあるから、どれがいいとも決めかねるな、とまとめます。

ここで面白いのは、やっぱり長所ばっかりで非の打ちどころのない女性ってのは見つからないもんだなーって話の流れで、かと言って吉祥天女に想いを寄せるのも抹香臭くてよくないな、あまりに仏教的で興醒めだな、と言ってみんなで笑っているところです。小粋な平安男子ジョークなんですよ、これが。

吉祥天女というのは、奈良時代から盛んに信仰されるようになった、仏教の世界の女神です。有名どころとの関係で言うと、毘沙門天の妻とされたり、妹とされたりするようなポジションの存在でした。ご利益としては、信仰するものに豊かさをもたらすと言われていて、『日本霊異記』という、平安時代初期に成立した仏教説話集には、次のような話が載っています。

聖武天皇の時代に、皇族たちが寄り集まって、持ち回りで宴会を主催していこう、ということになった。主催者の順番が回ってきたら、担当する人はみんなの分の食事を準備しなければならないんだけど、とある一人の皇女だけは、暮らしが貧しくて食事を用意する都合がつかなかった。

読者の感覚からすると、え、臣籍降下したわけでもない皇女が、貧乏で苦しむことなんてあるの? って感じなんですけど、これは仏教説話ですから、細かいことはいいんですよ。この人は前世からの因果応報で、貧乏の報いってのを背負わされて生きてるんです。なんかよくわかんないけど背負ってるんですよ彼女は。そこらへんダイナミックに、おおらかな気持ちで楽しんでください、仏教説話はね。

で、とうとう彼女以外の参加者が全員主催者を担当し終えしまった。自分は人からご馳走になるばっかりで、お返しすることができない。辛くなった彼女は、平城京の中のとあるお寺を訪ね、吉祥天女の像に向かって泣きながら祈りました。

「私は前世からの因縁で、いま、貧乏の報いを受けています。宴会の仲間に入ったのですが、人の用意した食事を食べるばっかりで、ご馳走する側に回る都合がつきません。どうか私に財産をください」とね。

そしたら、彼女の子供が慌ててお寺に入ってきて、「お母様大変です。立派な食事が届きました」と報告した。それを聞いた皇女はびっくりして、え、まじで!? ということで、走って様子を見に行きました。ここも地味に面白いでしょ、皇族の女性なのに走って出て行ったりするんだって、思いますよね。おい、ご飯届いたらしいぞーっつって、寺から走って出ていく皇女、いったいどういう絵面なんだよって感じで、笑っちゃうんですけど。

確認してみると、食事を持ってきてくれたのは、幼い頃に彼女を育ててくれた、乳母にあたる女性でした。「お客様がこられると伺いましたので、食事を持ってまいりました」つってね。準備万端整えて運んできてくれていた。

しかもその料理は、立派な器に盛り付けられていて、めちゃくちゃいい香りで、量も質も、他の主催者が用意した料理とは比較にならないほど素晴らしいものだった。

彼女の宴会に招かれた皇族たちはもう大満足で、テンションあがっちゃって、歌ったり踊ったりする様は天上世界のようだったと言います。とにかく最高の宴になるんですよ。みんな口々に彼女のことを褒め称えてね、「これほどのご馳走を用意できるとは、なんて裕福な方なんだ。私が以前準備したものよりもよっぽど立派です」とかなんとか言ったらしい。

で、あまりに素晴らしい宴だったから、お礼の品として、参加者のみんなが、立派な衣服とか、布とかお金とか、財宝を色々置いて行ってくれたんですね。貧しかった皇女はもう、嬉しくって嬉しくってたまらなかった。どうもありがとう、あなたのおかげよ、ということで、彼女はもらった衣服を乳母に着せてあげました。

その後、そうだ、吉祥天女にもお礼を言っておこう、と思って、例のお寺を訪ねてみると、なんと、あの日乳母に感謝の気持ちでプレゼントしたはずの衣服が、吉祥天女の像の上にかかっていました。

不思議に思った彼女が乳母に確認してみると、「え、私ご馳走の用意とかしてませんけど」つって、なーんも知らない様子だった。ここでハッとするわけですよ。あのとき助けてくれたのは、乳母の姿を借りて現れた吉祥天女だったんだな、と。

これ以後、彼女の暮らしは大変豊かになり、貧乏の心配をする必要はなくなりましたとさ。めでたしめでたし。というのが、吉祥天女にまつわる、非常に有名なエピソードです。

面白いですよね。こういう感じのイメージで、豊かさと結びついて信仰されていたんですよ、吉祥天女って。

ただし、このお話を知っているだけでは、まだ足りないですね。中将や光源氏が笑い合った吉祥天女ジョークのニュアンスを理解するためには、もう少し、彼女について補足しなければなりません。

なんかね、ミス仏教、みたいな立ち位置なんですよ。当時の吉祥天女って。非常に美しい、美の象徴みたいな存在で、たとえば、国宝として有名な、「薬師寺吉祥天像」っていう絵画はみなさん歴史の授業で見たことあると思いますけど、あれとか完全に、ただの美人画じゃないですか。いや、まぁ、ただの、なんて言ったら詳しい人に怒られちゃいますけど、美しい衣装を身にまとった、いかにも東洋的な貴婦人ですよね、あの絵に描かれているのって。

だから、世の中には吉祥天女の美しさに魅了される人ってのもいて、とある信者があまりに想いを昂らせた結果、夢の中で実際に吉祥天女と結ばれたっていう不思議エピソードが『日本霊異記』に載っているんですよね。その辺りも踏まえた上で、中将たちは笑い合ってるわけです。

さて、それではそろそろ、話を源氏物語本文に戻しましょう。

左馬頭が話し、中将が話し、いよいよ最後は、藤式部丞が体験談を語る流れとなります。以前説明したように、この人って四人の中で一番身分が低いから、ちょっとパワハラっぽく、おい、お前もなんか面白い話しろよって求められるんですね。

そこで式部丞は、「私のような低い身分のものに、お話しできるようなことはございません」と返すんだけれども、それに対して「頭の君、まめやかに、『おそし』と責めたまへば」云々かんぬん、と本文には書かれています。

「頭の君」というのは、蔵人頭のことを指していて、ここで突然、宮腹の中将が蔵人頭を兼ねていたことがわかるんですね。蔵人頭っていうのは、天皇の側近みたいな役職で、近衛中将と同様に、これから出世していく若い貴公子が任命されるポストだったから、この二つが兼任されることは珍しくありませんでした。

なので、今までずっと宮腹の中将って紹介してきた彼は、厳密に言うと頭中将なんですよね。蔵人頭と近衛中将を兼ねたから、頭中将。源氏物語の登場人物を語るとき、彼の呼び名としてもっとも一般的でメジャーなのがこの呼び方です。歳とって出世したらだんだん別の役職に変化していくんだけど、なんかこれが、ずっと彼の代名詞みたいになってるんですよね。

で、そんな彼が式部丞のことを「まめやかに」責めた、と書いている。「まめやかなり」という形容動詞は、普通「誠実だ」とか「まじめだ」みたいに訳されるんですけど、ここでのニュアンスは、本気で心を込めている、くらいの感じですね。

「遅い、早くしろ」と言って、彼は式部丞を急かします。そのときの語気が本気だった、ということですね。目上の人間特有の、有無を言わさぬ感じがあります。

そこで式部丞は「それでは私が大学寮で学生をしていた頃に遭遇した、恐るべき女の話をしましょう」と語り始める。以前説明したように、彼は菅原道真タイプの男ですから、若い頃は学問を頑張っていたんですね。

彼の師匠だった文章博士には娘がたくさんいて、その中の一人と、ふとしたきっかけで関係を持つことになったらしい。すると、親である文章博士はそれを聞きつけて、盃片手に「わが二つのみち歌ふをきけ」と言ってきた。

ここ、意味不明だと思うから解説しておきましょう。

「わが二つのみち歌ふをきけ」というのは、白居易の漢詩からの引用です。白居易、白楽天とも呼ばれる、唐王朝の大詩人ですね。平安時代の貴族社会でことさらに愛され、枕草子や源氏物語に多大な影響を与えています。彼の代表作である『長恨歌』については、桐壺の帖を解説した際にたくさん話しました。

じゃあ、今回引かれている「わが二つのみち歌ふをきけ」というフレーズは、一体どういう漢詩からの引用かと言いますと、これがね、結構面白いんですよ。

主人良媒を会す。置酒して玉壺に満つ。
四座且く飲むこと勿れ。我が両の途を歌ふを聴け。
富家の女は嫁し易し。嫁すること早けれど其の夫を軽ず。
貧家の娘は嫁し難し。嫁すること晩けれども姑に孝なり。
聞く、君、婦を娶らんと欲すと。婦を娶る意何如。

とある貧しい家の主人が、客を集めて、酒を振る舞った席で言いました。みなさん、一旦盃を置いて、私が歌う二つの結婚について聞いてください。
金持ちの娘はすぐに縁談がまとまります。だから早くに結婚しますが、自身の夫を馬鹿にして軽んじてしまう。
貧乏人の娘はなかなか縁談がまとまりません。なので晩婚になりがちですが、姑を敬ってよく尽くします。
聞くところによると、あなたは妻を求めているそうですが、結婚についてどのようにお考えですか?

まぁ大体、こんな感じの内容でして、この詩を引用してきたということは、式部丞の師匠に当たる文章博士って、彼のことを正式な婿にしたかったんでしょうね。

我が家は学者の家で貧しいけれど、うちの娘は君やご家族にしっかり尽くすはずだから、金持ち貴族の女なんかじゃなく、こっちを選ばんか? って誘ってるわけです。

式部丞としては、そこまで熱心に付き合うつもりもなかったみたいなんですけど、まぁ、自分の恩師にここまでされたら、無下には扱えないわけで、なし崩し的に関係を深めて行ったらしい。

するとね、娘の方も親公認の相手だから、心を込めて精一杯式部丞を世話してくれるんだけど、その精一杯の方向性が、普通の女性とは一味違うんですよね。

ここが面白くて、彼女博士の娘だから、猛烈に勉強ができたんですよ。この場合の勉強っていうのは、漢文を中心とした、男性貴族向けの学問を深く修めていたということです。

だから彼女、式部丞のことを精一杯お世話しなきゃってなったとき、そうだ、この人が仕事で困らないように、勉強教えてあげよ、ってなるんですよ。で、実際彼女にはそれができた。

寝室で夫婦として語らう、本来ならロマンティックなタイミングでも、隙あらば学問的な、仕事で役立つ話をしたし、手紙のやりとりにおいても、女性的なかな文字なんて一切使わず、男っぽい堂々たる書き振りだったと言います。だからもう、妻っていうか、学問の師匠なんですよ完全に。

で、式部丞自身、彼女のおかげで漢文を修めることができたから、今でもその恩は忘れていないんだけど、妻としては、やっぱなんか違うだろこれ、って、思ってたらしいんですね。

こういうことって、最上級貴族の娘では基本的にあり得ないわけですよ。なぜなら親が学者じゃないから。つまりこれ、頭中将や光源氏からすると、現実からかけ離れた嘘みたいな話でして、「さてさてをかしかりける女かな」とかいって、面白い女だなー、早く続きを聞かせてくれー、と、煽てるように先を促しました。

すると式部丞も気分良くなってきて、それでは、この学者の娘に関する一番面白いエピソードを披露しましょうって流れになる。

さっきも言ったように、親にも本人にも恩はあるけど、心安らぐ妻とは言えんよなーっていうのが、彼女に対する式部丞の気持ちだったわけですよ。そこで自然と足が遠のき、疎遠になっていったんだけど、これ、みなさん薄々勘付いているとおり、左馬頭の話も、中将の話も、式部丞の話も、全部同じパターンになってるんですね。

深い関係になった女性がいるんだけど、男の身勝手で一旦疎遠になって、久しぶりに会ったときにさぁ何が待っていたでしょうか、というところでバリエーションを出している。左馬頭や中将の話では、激しく嫉妬されたり、浮気されたり、いつの間にか姿を消されたりしていたわけですけど、式部丞はどうか。

一旦疎遠になったとは言え、完全に関係が切れたわけではなかったので、何かのついでとして久しぶりに女の家を訪ねてみたところ、いつもみたいに一緒の部屋でくつろぐことができなくて、わずらわしい仕切り越しの面会を求められたそうです。

このよそよそしさに対して、式部丞がどう思ったかっていうと、ながらく会いにこなかったもんだから、拗ねて嫌がらせをしてるんだろう、アホらし、と思った。そして同時に、この流れで、面倒臭い恨み言でも言ってきてくれたら、はっきり縁を切る良い機会になるな、とも考えていた。

しかし彼女は賢いので、嫉妬したり、恨み言を言ったりしたところで、男女の仲は上手くいかないということをちゃんと理解しているんですね。

じゃあなんでこんな距離をとった面会を求めてきたかっていうと、「月ごろ風病重きにたへかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなむえ対面賜らぬ」だからだという。

「ふびょう」っていうのは「風の病」と書きまして、解釈するのがちょっと難しい単語です。何かしらの病気を指す言葉なんですけど、当てはまる範囲が広いんですね。いわゆる風邪症状みたいなものを指すこともあるし、神経系の疾患で手足が震えるとか、中風みたいに舌や口が痺れて上手く喋れないとか、そういうのも全部風病って呼んでいた。

だから今回女が数ヶ月間患っているのがどんな病気なのかは定かじゃないんだけど、とにもかくにも、彼女はその病に対処すべく、今「極熱の薬草」を服用しているという。これ、どうやら「にんにく」のことみたいですね。だから今、息が臭くて対面できません、という話をしている。

ここの面白さって、多分いくつかの要素が掛け合わされていて、そもそも、光源氏や頭中将たち上流貴族からすると、体調を崩したときの第一候補は加持祈祷っていうお祈りであって、にんにくを服用することで治してやろう、っていう判断自体が物珍しくて面白い、と解説している人もいます。

でもこれは、実際のところどうなのかなぁ。『源氏物語』よりも古い時代に成立した長編物語である『うつほ物語』っていう作品がありまして、これ、色んな皇族の姫君たちが臣籍降嫁しまくるっていう、ちょっと珍しいタイプの面白ストーリーなんですけど、この『うつほ物語』の中のワンシーンで、とある皇女がにんにくを服用して、その臭さを誤魔化すためにお母さんが多種多様なお香を炊きまくるっていうくだりがあるんですよね。

あと、平安時代も後期になると、男性貴族の日記の中に、体調不良のためにんにくを服用した、っていう記述が多数見られるようになるみたいです。

だからまぁ、『源氏物語』が成立した頃に、にんにくを服用するってことがどういう意味を持ったのかは微妙なところなんですけど、少なくともあれかな、女性が男に自己申告で、「私いま、にんにく食べたせいで息臭いんです」って恥ずかしげもなく宣言すること自体が、ちょっと世間からズレてて面白いのかな。

あと、こっちは明確な笑いどころなんですけど、このとき博士の娘がしゃべった口ぶりっていうのが、あまりにも男性的で面白いんですよね。

「月ごろ風病重きにたへかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなむえ対面賜らぬ」

って彼女言うわけなんですけれども、当時の女性は普通、こんな喋り方しないんですね。いかにも漢文かぶれな、変な女だな、って話です。

あまりに厳しく、男性同士の事務連絡みたいに伝えてくるもんだから、式部丞もつい畏まって「うけたまはりぬ」と答えたらしい。「はい、承知しました」って返事して、退出しようとしたって言うんですね。これもまた、一つの笑いどころになっています。

この微妙に歯痒い面白さが、うまく伝わっているでしょうか。彼が交際していた博士の娘って、基本的には極めて理想的な妻なんですよ。賢くて、しっかり者で、男女の関係についてもよくわきまえている。夫が職場のことを話せば良き相談相手になるし、家事とか財務管理も工夫して思慮深く処理できる。面倒臭い嫉妬もしなくて、おまけに、病気で薬飲んでるタイミングでも、何か用事があるならやっておきますよ、と健気に尋ねてくれました。

ただ、惜しむらくは、あまりに漢文かぶれで奇妙だったと。そのせいで、久しぶりに会えた式部丞はさっさと立ち去るわけなんですけど、ずいぶんあっさりいなくなるものだから、彼女も寂しく思って「このにんにくの匂いがなくなる頃に、またお立ち寄りください」と、去り行く背中に向かって叫んだ。

式部丞としては、もともと大して乗り気じゃなかった恋人だから、別れる口実を探していたわけなんですけど、健気に尽くしてくれた相手を今まで疎遠にしていて、今日またそっけなく扱うのは気の毒だって感じる人情はあるんですよ。でもだからと言って、今更仕切り越しにぐずぐずしててもしょうがないし、まぁ何より臭いから、逃げ出すための口実として次のような歌を詠んだ。

ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるますぐせと言ふがあやなさ

「ささがに」っていうのは、スパイダーの蜘蛛のことですね。当時、蜘蛛とか蜘蛛の糸が衣服にくっついたり、蜘蛛の巣が家にかかったりするっていうのは、恋しい待ち人が訪ねてきてくれる前触れだ、という俗信があったらしいんですよ。だから、「ささがにのふるまいしるき夕暮れ」っていうのは、蜘蛛の動きから、恋人である私の訪れがはっきりしている夕暮れ、って意味になる。

後半に出てくる「ひるま」は掛け言葉で、日中って意味の「昼間」に、にんにくを意味する「蒜」がかかっている。漢字わかるかな。岡山県と鳥取県の境目に「蒜山」って山があるじゃないですか。あの「蒜」です。あれ、にんにくって意味があるんですよ。

つまりこれ、何言ってるかっていうと、私が訪ねてくることが薄々わかっていたはずなのに、にんにくの匂いが消えるまでの間はお会いできませんから、また昼間を経て、別の日にきてくださいだなんて、おかしいだろ、と女を責めている。

要するに、なんか後ろ暗いことがあって、わざとやってるんじゃないか? にんにくを隠れ蓑にして、浮気を隠したりしてないか? と難癖つけているわけです。本当は自分が関係を切りたいだけのくせに。女性の側が悪かったことにしている。

で、ここからがコントなんですけど、式部丞としては、もうこれで別れ話完了なわけですよ。お前なんか隠してるだろ、俺は気づいたぞ、って突きつけて、相手が弁明する前に出ていけば、もうそれっきり縁を切ることができる。

にんにく臭い空間がそろそろ限界だったこともあり、和歌を読み終わった式部丞は、走って出て行こうとしたそうです。しかし、それを追いかけるような速さで女は歌を返してきた。

あふことの夜をし隔てぬ仲ならば ひるまも何かまばゆからまし

もし、一晩たりとも間を空けずに逢っているような親密な仲ならば、にんにく臭いタイミングだって、恥ずかしがらずにお逢いできたでしょう。逆にいうと、今回私があなたと距離を取ったのは、そちらが疎遠になさったせいですよ、といって、押し付けられそうになった別れ話の責任を、即座に男へ突き返している。走って逃げるより速かったっていうんだから、これは相当なものです。

「いやー、賢い女だけあって、さすがの素早さでございました」とかなんとか言ってね、式部丞が、ふざけた話を、わざと重々しく、静かに締めくくるわけですよ。自分がこの場じゃ一番身分低くて、オチ担当だって自覚してるから、おどけるのが上手いんですよね。そしたらこれが頭中将たちに滅茶苦茶ウケて、「おう、ふざけんなー」ってなる。「嘘つけー、そんな女いるわけないだろー」つって、大盛り上がりだった。

野次暴言は段々エスカレートして、最後は「そんな女と付き合うくらいなら、鬼の相手をしている方がマシだ」とまで言われてしまう。散々な評価を喰らうわけですよ、この、博士の娘っていうのは。

これねー、現代人の感覚で読むと、そこまで笑いものにすることないだろって、感じません?

奥さんが学問の師匠をやってくれるのとか、今だったら、なかなか素敵な関係だと思うんですけど、式部丞の語り口では、過度に面白おかしく扱われていますよね。自分自身がまさに漢文のできる女性だった紫式部は、果たしてどういう思いでこのエピソードを書いたんでしょうか。

そのあたりの感覚とか事情って実は複雑で、いろんな研究者がいろんなことを言っています。女性と学問、とか、女性と漢文、について、紫式部や当時の人々はどう考えていたんだろうかって、ことについてね。

これをちゃんと説明するためには本当にたくさんのことを話さなければならないので、その入り口にあたるような部分だけ、最後に紹介しておきましょう。

さっき、最上級貴族の家の姫君は、親が学者じゃないから、漢文に詳しい娘は育たないって話をしたんですけど、現実社会において一つ例外があって、それが、高階貴子と藤原定子の母娘だったんですよね。

この二人についてはすでに何度も話してきましたが、大事なところなので改めて説明します。

定子というのは、言わずと知れた清少納言の主人にあたる女性で、時の帝である一条天皇の中宮でした。彼女の父親である藤原道隆は、藤原兼家と時姫の間に産まれた長男で、摂政関白を勤めた大人物です。『蜻蛉日記』の藤原道綱母が出家未遂事件を起こした時に、心配してわざわざ山寺まで会いにきてくれた、あの道隆ですね。

で、彼が第一の妻として選んだのが、高階貴子という女性でした。彼女は高階成忠という男の娘で、この成忠って人は、いわゆる菅原道真路線の貴族の中でも、比較的成功したタイプの学者だった。大学寮で勉強した後、美作権守とか大和守みたいな地方官を経る一方で、東宮学士、つまり、皇太子の教育担当に任命されています。このとき彼が教えた皇太子こそが、のちの一条天皇です。

だからまぁ、学者肌の人の中では、社会的にもかなり評価された人ではあった。過去何度か高階貴子の解説をした時は、全然名門じゃない学者の家系の生まれだった、みたいに紹介してきましたけれど、あれはちょっと言い過ぎだったかもしれません。申し訳ない。

あえて細かい話をしますけど、道隆と高階貴子の間に最初の子どもが生まれたのが974年ごろだとされているので、二人が結ばれたのはその少し前のことだと推測できます。当時道隆は二十代半ばで、五位くらいの位階にいました。一方の成忠はすでに50歳を過ぎており、右小弁という五位相当の文官に任じられていた。歳は離れているのにランクが近いということで、二人の家柄の違いが顕著に出ていますね。

成忠の経歴っていうのは、紫式部の父親である藤原為時にちょっと似ていて、為時も大学寮で勉強した後、50歳代で左小弁っていう五位の文官に任じられていました。東宮学士とか副侍読とかやって、皇族に勉強を教えていたところも似ている。

ただ、成忠と為時の決定的な違いは、娘が誰と結ばれたか、というところだった。

成忠は、娘である貴子に学問を授けて、積極的に宮仕えをさせました。多分、自分と同じくらいの中流貴族の家からは、縁談が来ていたと思うんですよ。貴子に対して。でも成忠はそれに満足しなくて、あえて娘を宮中に女官として送り込んだ。そしたら彼女は、帝から学才を高く評価されて、女官の中の管理職的なポジションまで出世していった。そうやって宮中でバリバリ働いている最中に出会ったのが、藤原道隆だったわけです。

この頃彼女が詠んだ恋歌は、百人一首にもとられているため有名ですね。

忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな

「あなたへの愛を忘れることはない」という、その言葉も、将来ずっと真実かと言われれば、難しいでしょう。それならば、確かに愛されている今日この瞬間に、命が終わってくれたほうがいい。

といった感じの歌ですけれども、確かにまぁ、そういう気持ちにもなるでしょうね、彼女の立場なら。自分は学者の娘で、女房づとめをしていて、よもやこの貴公子が、本当に末長く私のことを正妻として扱ってくれるだなんて、にわかに信じられるものではありません。

ただまぁ、一方の道隆自身も、自分が将来どれほどの身分になれるかは、あまり自信がなかったかもしれない。当時の帝は円融天皇といって、道隆より五歳ほど年下の、若い帝でした。この頃の朝廷っていうのは色々ゴタゴタしていて、道隆の父である藤原兼家も、まだ確固たる地位を確立してはいなかった。だからその嫡男である道隆についても、前途がどうなるかは測りかねる部分があったはずで、娘と道隆の関係を聞きつけた高階成忠は、当初乗り気じゃなかったそうです。しかしその後、偶然道隆の姿を直接目撃する機会があったらしく、その人相を見て「これは必ずや高位にのぼる人物だ」と感じ、二人の関係を認めたと言います。

まぁ、この話は『古今著聞集』という説話集に残るエピソードなので多分嘘ですけど、とにもかくにも二人は結ばれ、のちに中宮となる藤原定子が生まれます。高階貴子は、自身が修めた学問を、娘の定子にも受け継ぎました。その結果誕生したのが、藤原摂関家の姫君であると同時に、極めて漢文に詳しいという、不思議な魅力を持ったファーストレディだった。

ここは縦のつながりが面白いところで、高階貴子を女官として重用した円融天皇の息子が、一条天皇なんですよね。彼は東宮学士だった高階成忠に学問を教わり、その孫娘にあたる定子を中宮にした。だから当時、一条天皇を中心とした宮中のコミュニティでは、漢文の素養を持った知的な女性って、評価高かったはずなんですよ。それは、清少納言が書いた『枕草子』を読んでいても窺われるところです。

しかし残念ながら、父親である道隆が病死したことをきっかけに、中宮定子の社会的な立場はどんどん苦しくなっていった。兄弟は左遷され、母である高階貴子は心労で他界。定子自身も世を儚んで出家を試みました。

その一方で宮中の中心人物になっていったのが、紫式部の主人である中宮彰子と、彰子の父親にして道隆の弟でもある藤原道長でした。

道長としては、立場の崩れた中宮定子に代わって、我が子である彰子に対して帝の寵愛を集めたい。一条天皇って人は、定子と共に知的で文化的なやり取りを楽しんでいた人物だから、彼の心を掴むためにどうすればいいんだってなったとき、道長は積極的に、文学的素養のある女房を彰子のもとに集めました。

和泉式部、赤染衛門、出羽弁、伊勢大輔、そして、紫式部。

藤原道長とか中宮彰子って、源氏物語の読者だったんですよね。みなさんご存知の通り、この作品ってかなり濃密に白居易の影響を受けていて、一読すれば明らかに、作者は漢文の知識が豊富であるとわかる。だからおそらく、そこを評価されて女房に採用されたんですよ、紫式部って。

しかし一方で、漢文の知識をひけらかす女性を批判したり、学才が評価されている女性のことを揶揄する言説というのも当時の貴族社会には存在していて、紫式部自身がその被害を訴えています。

今から話すエピソードは『紫式部日記』に書かれていたことですので、彼女自身がどういう意図でそれを書いたのか、という部分を差し引いて受け取らなければなりませんが、とても有名な、興味深い内容なので紹介しておきましょう。

多分、道長とか彰子に勧められてのことだと思うんですけど、一条天皇もまた、『源氏物語』の読者になっていったんですね。で、彼は感想として、次のようなことを呟いた。

「この物語の作者には、日本書紀の講義をしていただかなければならない。実に漢文の素養がある様子だ」と。

この発言の意図がどこにあったのかは微妙なところで、女性である紫式部が物語の中で漢文の素養をふんだんに披露していることに対する揶揄だ、とする見方もあるし、もう少し深い含みがあるんじゃないかと指摘する人もいます。

しかし少なくとも、帝が紫式部に対して敬語を使って「講義していただかなければ」なんていうのは不自然ですから、冗句としてのニュアンスが色濃かったというのは、確かなことだろうと思われます。

で、問題なのは、この一条天皇の発言を、「左衛門の内侍」呼ばれる女性が聞いていたことです。彼女は紫式部の同僚だったんですけど、なぜかやたらと紫式部を敵視していて、身に覚えのない悪口を吹聴すること度々だったらしい。

帝の発言を真に受けた彼女は、紫式部について「それはそれは大層、漢文の素養がありますのよ」と殿上人たちに言いふらした上で、「日本紀の御局」というあだ名をつけたそうです。なんというかまぁ、「日本書紀講師の女房様」みたいなニュアンスですかね、「日本紀の御局」っていうのは。立派すぎるあだ名つけることで相手を馬鹿にするやり方って、平安時代の頃からあったんですよ。

どうやらこれが紫式部にとっては相当ムカつく出来事だったらしく、「いとをかしくぞ侍る」つってね、「ずいぶんとまぁ、面白いこと言いますなぁ」って書いた後、延々と不満を述べています。

そもそも私は、自分の家の女房の前ですら、漢文の素養を表に出さないように慎んでいるのに、日本書紀の講師なんかやって知識をひけらかすわけないだろと、紫式部はいう。

実はこれ、日記の別のところに書いてあるんですけど、彼女って中宮彰子に仕える前に夫を亡くしてるんですよね。で、彼が生前読んでいた漢籍を、寂しさ紛れに読むことがあったらしい。するとその様子を見た女房たちが口を揃えて、「奥様はこんなだから不幸体質なんだ。どうして女性なのに漢文の本なんて読むのか。昔は女性がお経を読むことさえ、人が止めたというのに」といって、縁起悪そうに陰口を囁いていたそうです。

彼女の教養深さを歓迎しない声っていうのは昔から多くて、彼女、自分の弟が勉強するのを横で聞いてて、弟よりもはるかに早く内容が頭に入ったんですよね。それを見た父親は、「口惜しう。男子(おのこご)にて持たぬこそ、幸ひなかりけれ」と言って嘆いた。これはまぁ「残念だ。お前を息子として産めなかったことが、我が家の不幸だな」くらいの意味で、学問の才を残念がられることはあっても、喜ばれることはなかったらしい。

やがて誰かが「男ですら、漢文の素養を鼻にかけた人は、いかがなものか。パッとしない人ばかりのようにお見受けする。まして女性なら」というのを聞いてからというもの、紫式部は、漢数字の「一」すら、あの横棒一本すら引いていないと言います。

絶対嘘。絶対大袈裟なんだけど、それくらいの勢いで、才能隠してバカのふりしてきたって言うんですね。

で、とにもかくにも、周りから言われたことを気にして、昔読んでた漢籍にも一切目を向けないようにしてきたと。それなのに、左衛門の内侍があんなあだ名を言いふらすもんだから、「人様がこの噂を伝え聞いて、どれだけ私を嫌うだろうか」と気が気じゃありません。私は屏風に書かれた漢文すら読めないふりをしていたんですよ、と彼女は言う。

でもまぁ、本人ごちゃごちゃ言っておりますけれども、本気で才能隠したいなら、『源氏物語』なんて書くなよって話でして、結局のところ、中宮彰子とか道長とか帝とかは、彼女の教養深さをよく知っているんですね。

特に彰子は、一条天皇と連れ添うためには自分も漢文学を修めなければならないと意識していたらしく、紫式部にわざと漢文の話題を振って、知識を学び取ろうとしていた様子です。帝の前で『白氏文集』を読むように命じたりしてね。そこで紫式部も察して、他の女房がいないタイミングを見計らって、「新楽府」っていう、『白氏文集』の中に入っている漢詩について、こっそり授業をしていたといいます。

これはすごいことです。ちょっと目を疑うくらいすごい。さらっと書いているけど、よくよく冷静に考えると相当レベルの高い話をしています。

二人が学んだ「新楽府」って、「長恨歌」みたいなラブロマンスを詠み上げた漢詩とは全然別物なんですよ。「新楽府」のテーマは、社会批判と政治批判です。日本の和歌はこのジャンルをあまり発展させなかったんですが、中国において、詩歌と政治はとても結びつきが強くて、作詩することを通して社会を論じ、自身の立場を表明する、ということが当たり前に行われていました。だからこれを勉強するっていうことは、帝王学にちょっと片足突っ込んでるというか、女性二人がこっそり楽しむにしては、あまりに硬派すぎる内容なんですよね。

これを勉強したいと望んだ中宮彰子の志がまずすごいし、その先生役が務まった紫式部の学識も、完全に女性離れしていると言っていい。単に翻訳するだけじゃなくて、歌われている内容がどういう歴史的事実に基づいているか細かく解説する必要があったはずで、そんなこと本当にできたの? って、疑うほどです。

日記の記述によれば、この秘密のレッスンがかれこれ二年間続いているという。これもすごい話ですよ。だから、紫式部や中宮彰子はバレないように隠していたんだけど、道長と一条天皇は二人の動向をなんとなく察していて、美しく書写させた漢籍を彰子にプレゼントしてくれたこともあったそうです。

こうやって書かれると、あぁ、紫式部って、こっそり彰子の先生役を勤めている自分が、実はすっごく誇らしかったんだろうなぁ、って、思いますよね。最初は同僚の悪口に対する文句とか弁明からスタートしてるんだけど、本当に書き記しておきたかったのは、この彰子と自分の秘密の関係についてだったんじゃないの? とすら、思わされます。

さて、ここまで読んだら、みなさんにも、ことの複雑さがわかっていただけたでしょうか。

自分が備えている漢文の素養に対する紫式部のスタンスって、とてもアンビバレンツなんですよね。絶対プライド持ってるんですよ、自分は漢文詳しいぞーってことについて。そして彼女は、漢文の世界が持っている知的で文化的な豊かさをよくわかっている。そうじゃなかったら『源氏物語』なんて書けない。

しかしその一方で、漢学素養をひけらかすことに対する、強烈な忌避意識も彼女は持っている。周囲は知ってるんですよ、彼女が漢文に詳しいことを明確に。けれど本人は、公然の嘘として、私何にもわかりません、というポーズを貫いている。

彼女のこうした矛盾や歪さが、おそらくそのまま、当時の貴族社会が抱える矛盾と歪さだったんではないかと、思われます。

つまり、本来男性の学問であるはずの漢文を修めている女性というのが、当時、比較的新しいスタイルの女性像として、実は結構たくさんいて、それを知的で面白いね、とか、男の仕事に理解があるねって評価する風潮があると同時に、でもひけらかすのはダメだよ、という厳しい目もあった。

そこで紫式部は、雨夜の品定めの締めくくりとして、次のような総括を、左馬頭の口から語らせています。

「すべて男も女も、わろ者は、わづかに知れる方のことを残りなく見せ尽くさむと思へるこそ、いとほしけれ」

男性にしても女性にしても、つまらない人間は、わずかな知識を全部ひけらかそうとするが、それこそ困りものであることよ、と。

加えて、もし女性が、男性と同じように本格的な学問を修めるようなことがあったら、それは可愛げがない。とも言います。

とはいえ、女性の身でも、同じ世間に生きているからには、自ずと耳にし、目にすることがあるはずで、ある程度才能を備えた人なら、そこから自然と学びとることもあるでしょう。

けれどだからと言って、女同士の手紙のやり取りでこれ見よがしに漢字を書くのはいやらしいし、もっとたおやかに、女性らしく振る舞ってもらえたらなぁ、と、傍目に思います。こういう例は、身分の高い方々の中にもよくあることなのです。

と、左馬頭が言うわけなんですが、なんかもう、途中から、どうして男性の左馬頭が女同士の手紙のこと語ってるんだよ、みたいな感じもあって、紫式部としても、思うところがいろいろあったんだろうなぁ、と、想像せずにはいられません。

繰り返しになりますが、この辺りに関する紫式部の意図というか、雨夜の品定めの記述を、歴史的な背景とどう結びつけて読み解くかってことについては、たくさんの研究者が、さまざまな解釈と指摘を行なっています。とても扱いの難しい、複雑な部分です。

だから、私はかれこれ九回もかけて、雨夜の品定めを解説してきましたが、あんまりこれを鵜呑みにせず、素人がいい加減なことを話しているんだな、程度に受け取っておいてほしいと思います。

いやいや、国語の先生が無責任なこと言うなよって、思うかもしれませんが、最初から一貫して説明しているように、源氏物語って難しいんですよ、ものすごく。そこをあえて割り切って、恥を忍んで解説しているのがこのポッドキャストなので、あくまで学びの入り口として、興味を持つためのきっかけにしてもらえると幸いです。

なにはともあれ、これでようやく、長かった、本当に長かった、「雨夜の品定め」に関する解説も、区切りを迎えたことになります。話すべきトピックがたくさんあって面白かったんですけど、さすがにちょっと時間がかかり過ぎましたね。

「帚木」の後半ではいよいよ、光源氏とヒロインの具体的な恋愛が始まります。ですがその前に、以前から宣言していた『蜻蛉日記』の解説をやりたいので、次回からしばらく、『源氏物語』の解説はお休みです。

では、最後に一つ、考えを深めるためのヒントを提示しておきましょう。

今回長々話した、女性と学問、とか、女性と漢文、について、紫式部はどう考えていたんだろうか、ということを探るとき、彼女たちが直面した、とある歴史的事実は無視できません。

すなわち、中宮定子の一族が、結局破滅したということ。この残酷な事実を紫式部がどう受け止め、抱え続けたのか、ということは、とても微妙で繊細な問題です。

紫式部は中宮定子や清少納言を、自分とは逆側の勢力として敵視していた、みたいに解釈されることって多いんですけど、実際のところ、ことはそう単純でもないと思うんですよね。少なくとも中宮定子に対しては、複雑な思いがあったのではないかなって、気がします。

なぜなら、先ほど少し述べたように、彼女の家と高階貴子の家は、父親と娘のタイプが似ているからです。学者の家に生まれながら、漢籍の教養がある女性として身を立て、娘が中宮となる、という、夢のようなサクセスストーリーと、その破滅を、同じく学者の娘で漢学を修めていた紫式部は、そう簡単に割り切れたでしょうか?

この問題について深く踏み込み、ドラマチックな解釈を試みている研究者として、山本淳子さん、という方を紹介しておきましょう。『枕草子』や『源氏物語』という王道ど真ん中のメジャー作品を、独自の視点で読み解き、めちゃくちゃ読みやすい本にまとめ上げているので、大変な人気を博しています。

誰か一人の解釈に偏って古典読むのって危ういことだと思うので、あんまり引っ張られ過ぎないように気をつけているのですが、それでもやはり、『枕草子』や『源氏物語』を読むときは、山本淳子さんの影響を、ついつい受けてしまいますね、私も。

中学生や高校生でも読みやすい本が多いので、深く学んでいくための良いきっかけとなるでしょう。興味があれば、図書館や書店で探してみてください。

ではでは、お疲れ様でした。また次回。


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