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愛を識った日

ある日の夜、彼は泣いていた。
僕のせいで泣いていた。
毛布にくるまって顔を見えなくし、背を撫でようとした僕の手を振りほどいた。
その日僕は確かに愛を識った。



半年間同棲していた彼とは歪な関係だったように思う。
恋人ではありながらも身体の関係もすっかり無く、お互いに苛立ちをぶつけ合う日々。
これから先も付き合っていくのか、どうしようかといつも考えていた。

彼は正直な人だった。
しかしその正直さに何度も傷ついてきた。
僕は強情な人だった。
その強情さで、彼を何度も傷つけてきた。

以前のブログでも書いた通り、同棲を始めてから彼は僕に見た目の事をよく指摘するようになった。
最初は言い返したり気にしないようにしていたが、少しずつ僕は彼の言葉に蝕まれていった。
そして同棲を始めておよそ二カ月ほど経った頃、僕からの夜のスキンシップを彼は拒絶するようになった。


もう彼は僕の事を恋人として好きではないのだろうと悟った。
僕の彼への態度は徐々に刺々しいものに変わっていった。
彼からのスキンシップを拒絶した事もあった。
彼からお気に入りのインフルエンサーを見せられた時、「俺は別に気にしないからそういう人とセックスしてくれば?」と言った事もあった。

そうして日々は流れ、以前はくっついて寝ていたのに、いつの間にかお互いに背中を向けて眠るようになった。
以前は一緒に眠れるだけであんなに幸せだったのに、互いの存在が無いかのように背中を向けて眠る。
どんな言葉で装飾しようと、それがあの頃の僕たちの全てだった。

その頃からだっただろうか。
僕はXのスペースで彼との生活を訊かれた際、「別に浮気とかされても良い」「もういつ別れるかも分からない」と笑いながら話すようになっていった。
彼の悪口や愚痴のようなポストだって何度もした。
最低な事をしていると分かっていたけれど、僕の中の暗い感情は吐き出しても吐き出しても大きくなり、依存のように辞められなくなってしまった。

終わりが近づいている音は日々大きくなる。
その音に耐えかねた僕は仕事に向かおうとする彼に言葉を投げた。
――もう俺の事好きじゃないんやろ。
――俺の事本当はどう思ってる?
――もう別れたい?
――俺はもう少し、一緒に居たい……。
話し合いですらない、僕の独白のような言葉。
それを聞いた彼はこう言った。

「別れるかどうかはタロちゃんが決めて良いよ。」

そのたった一言で僕は鈍器で殴られたような衝撃を感じた。
二人で始めた関係を、彼はもう終わろうがどうでも良いと思っているのだと、そう思った。
扉が閉まる音だけが惨めな僕を置き去るように部屋に響く。


本当は気づいていた。
僕は本当はまだ彼の事が大好きだった事に。
毎日ご飯を作る時、決まって彼が喜ぶ顔を想像する事。
彼の言葉を受け流せず、一喜一憂してしまう事。
本当は向き合って眠りたかった事。

けど僕はそんな本音を誰にも言う事は出来なかった。
同棲している彼氏に見た目の事を言われ、夜は拒絶され、喧嘩ばかり。
そんな「可哀そうな人」になりたくない。
僕のプライドが邪魔をした。
可哀そうな人になりたくないからこそ、周囲の人たちには「タロも冷めてきてるんだ」と思わせたかった。
スペースの時の話も、悪口のようなポストも、そんな僕の小さいプライドを護るためだった。

今にして思うと、友人に対してだけじゃない。
彼にだって結局大事な事は言えなかったように思う。
絵を描き始めた理由が後ろ暗いものである事。
忘れられない恋愛をしてボロボロになった過去がある事。
話したかった事はたくさんある。
彼にだから話したかった。
慰めてほしかったわけじゃない、ただ知ってほしかった。
彼にだから聴いてほしかったのに。



彼からの言葉を飲み込み、考え、僕は決断した。
別れるのはいつでも出来る。
でも……別れる事になったとしても、僕の気持ちは知っていてほしい。
もう手遅れな事、たくさんたくさんあるけど、それでも何かが間に合うのなら……。
僕は紙とペンを取った。
直接言えない事を、手紙として渡そう。
これを逃げと言う人もいるかもしれないが、今の僕にはこれが精いっぱいだから、出来る事をやろう。

彼への想いをただひたすらに書き綴った。
それは僕が生涯で初めて綴った”ラブレター”だった。
書き出してしまえば「あれも言いたい」「これも伝えたい」と、気持ちは落ち着くどころか溢れ出してしまう。

彼にしてもらって嬉しかった事、彼と一緒に行って楽しかった場所、気に入らなかった事があればすぐに家を出てしまう態度の謝罪、言われた事や一緒に居る事が今はただ寂しかったという事、本当はまだ大好きだという事。

伝えたい事を全て書き記し、そろそろ良いかと思ったところでふと思い直し、再びペンを取った。

P.S 読んだらこの手紙は焼却処分してください。

照れ隠しのように書き足された一文に、我ながら不器用が過ぎると笑ってしまう。
けれど、この不器用さも知っていてほしかった。

その日は彼が一人で手紙を読めるよう、家を出て時間つぶしにカラオケに向かった。
しばらくすると彼から一言「早く帰っておいで」とだけ連絡があった。

手紙について言及されるかもしれないと少し緊張しながらも家に帰ると、彼はいつも通りの態度で僕に接した。
手紙は机上から無くなっており、僕はふと無かった事にされたんだと察してしまった。

僕は落胆を悟られないよういつも通りに風呂に入り、いつも通りにベッドに入った。
電気を消し、おやすみと言い、「出ていくならいつになるかな……」と考えていた時、彼が僕を抱きしめた。

僕が驚きで何も言えなくなっていると、彼は呟くように言葉を漏らした。
――手紙ありがとう、嬉しかった。
――こんな風に思ってくれてるなんて知らなかった。
――ギスギスしても追い出さなかったのはタロちゃんへまだ気持ちがあったからだと思う。
彼の腕に抱かれ、胸に顔を埋めていた僕には彼の表情は見えなかったけれど、それでも彼が優しい顔をしている事は分かっていた。
僕は嬉しくて嬉しくて、言いたい事はたくさんあったけれど、でも真っ先にこう言ったのだ。

「手紙、ちゃんと燃やしてくれた?」

彼は静かに笑っていた。
燃やしてくれたかどうかは分からないが、今感じている彼の温もりがあればどうでも良いかと思えた。
彼はきっと気づいていなかっただろう。
彼の腕の中で僕は、彼に見せた事もない程に目を細め、頬を緩ませていた事を。



それからは平和の一言だった。
以前のギスギスした毎日が嘘かのように、彼と僕の目は互いへの好意を示していた。
日に日に彼への気持ちは増していく。
一緒に居られることがただただ嬉しかった。

しかしそんな日々は長くは続かなかった。
ある日彼が帰ってきた時、笑顔がぎこちないような、目を逸らすような、そんな感覚を感じた。
彼に対して何かあったのかと訊いても答えない。
絶対に何かあったと確信し問い詰めると、彼は毛布にくるまり横になった。
僕が戸惑っていると彼はポツリポツリと話し始めた。


彼のXに偶然僕のポストが流れてきたらしい。
僕の過去のポストには、彼への悪口や愚痴がいくつかあり、それを目にしてしまった彼はどうすれば良いのか分からなくなってしまったとの事だった。
見なかった事にしようかとも思った。
でも出来なかった。
俺が触るの、タロちゃんが本当は嫌ってこと気づかなかった。

彼がこぼす言葉に僕はそれは誤解だ、プライドを護りたくてやってしまって本心ではないと弁明した。
彼は以前、人前で泣く人が嫌いだと言っていた。
そんな彼が、今目の前で声を震わせ、必死に泣き顔を見せないように毛布で顔を隠していた。
僕は彼を落ち着かせたい一心で、彼の背を撫でようと手を伸ばした。
彼は僕の手を感じた瞬間、身を捻って拒絶をした。
これまでに無い程の、本気の拒絶だった。

僕はその時、初めて自分のした事の重大さを知った。
自身のちっぽけなプライドを護るために大切な人を傷つけ、あまつさえ泣かせてしまった。
彼は泣き顔を僕に見せることも出来ず、それでも僕はこの部屋にいる。
彼の気持ちを考えると加害者であるはずの僕の胸も締め付けられるように苦しくなってしまう。

人は歳を重ねれば重ねるほど、直す事が出来ない性格の一端が増えていく。
僕の場合はプライドの高さや虚勢を張ってしまうところがそれだった。
罪悪感や後悔、過去への苛立ち。
様々な想いが脳をぐちゃぐちゃに攪拌していく。

ただ、そんな中でもただ一つ確信していた事がある。
それは彼を傷つけるに至った原因である僕のプライドの高さや虚勢を直したいと、本気で思った事だった。

彼を傷つけてしまったけれど、最低な事をしてしまったけれど、人に虚勢を張らず、辛い時には辛いと言い、彼にも思った事を言える。
そんな人間になりたいと。
手紙で伝えた言葉たちを、今度は直接僕の口から言える人間になりたいと。

素直にそう感じた時、僕の彼への気持ちは「好き」から「愛情」に確かに、静かに変わったのだ。


愛を識った僕の傍らには、静かに涙を流す彼が横たわっていた。
僕はただ、ずっと彼を見つめていた。

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