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Felicidade 夏の終わり

 午前中の驟雨のあと、テラスに出ると太平洋の向こう、青空が明るく輝いているのが見えた。じきに晴れ間が広がってくる、と思ったのもつかの間、富士山の向こうから雷鳴がとどろいてきた。もうしばらく雨が降る。

 旅先で冷涼な空気に体調を合わせたものの、帰ってくればすぐに暑く湿った空気になじんでしまう。手なずけられたような私の身体。秋の彼岸とは名ばかりで、夏が雷雲にしがみついている。

 雨音を聞きながら、グースネックのポットに湯を沸かす。ガラスのカラフェにガラスのドリッパーを重ね、円錐形のドリッパーにフィットする円錐形のフィルターをセットする。

 コーヒー豆は、義兄が置いていったものだ。種類はよくわからない。近くにある小さな自家焙煎の豆屋から購入したらしい。エルサルバドルだったか、コスタリカだったか、中南米だったような気がする。彼によると、焙煎のしかた---深煎りとか浅煎りとか---でも味わいは変化するとのこと、私は詳しくない。

 義兄はもう何年も神経がまいっている。彼がいま落ち着くのは、コーヒー豆をかりかりと手動で挽き、ポットの細い口から慎重にお湯を注いでコーヒーを作るとき。あとは、ビリヤードをしているときだけだ。私にコーヒーの落とし方を指南するでもなく、彼はコーヒー豆をずっしりそのまま置いていった。

 紅茶を常飲している私は、なかなかコーヒーを淹れようとしなかった。丁寧に注ぐお湯によって、細かく挽いたコーヒーの粉が膨らみ、蒸れ、香気が立ち上る。味わいが凝縮された琥珀色のしずくが落ちていく。落ちた後の、フィルターの中の小宇宙は、作り手の腕前に応じて多様な貌を見せる。義兄の作り出す小宇宙の端正さを見てしまうと、まねはできないわ、とも思った。

 コーヒーの時間が終わるころには、雨も止むだろう。

 かりかりとコーヒー豆を挽きながら、聞き終わったノルウェイの森を想った。生まれてきたら必ず死ぬ日がくるとしても、大切な人を亡くしても、どんなに死にからめとられそうになったとしても、かかえてゆく死の数がどんなに増えていっても、私は死ぬまで生きる。生きてさえいれば、だれかを幸せにすることだってできるのだから。そう、あなたが私を幸せにしてくれたように。


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