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小学校時代の社会学~なぜ小学校時代は楽しかったのか?~

 ぼくは小学校時代が人生で一番楽しかった。ぼくが通ったのはごく平凡な小学校で、ぼく自身、人と比べてなにか特別な経験をしたというわけでもなく、ありふれた小学校時代だったと思う。

 そんな小学校時代が僕は好きだった。もちろん楽しいことばかりではなかった。つらいことも沢山あった。だけど、今から振り返ればつらい思い出を含めてもあの頃はよかったと思う。

 では、ぼくはなぜ小学校時代が楽しかったのか? それはこういうことだと思う。

「世界が自分の手の届く範囲にあったから」

 小学校時代は自分の住む街から離れることはあまりないし、「自分の力ではどうすることもできないこと」に出会うこともなかった。つまり、やろうと思えばだいたいのことができた。

 ぼくは当時インターネットにもほとんど触れていなかったから、「見知らぬ他人」と出会うこともなかった。世界はとても単純だった

 それが今はどうだろうか。世界はあまりに複雑すぎる。生まれ育った街からは離れ、「自分の力ではどうすることもできないこと」にばかり出くわし、世の中は「見知らぬ他人」だらけだ。

 つまり小学校時代は、社会学者ニクラス・ルーマンの言葉を借りれば「複雑性が縮減」されていたということになる。

 「複雑性の縮減」とは、「選択肢を減らす」ことを意味する。「ああいうことができたかもしれない、こういうこともできたかもしれない」という限りない選択肢をぼくらの目の前から取り除き、迷うことなく選べる数にまで減らすということだ。
 
 それは、100個の選択肢を10個にまで減らすことだ。100個ではあまりにも数が多くてどれか一つを選ぶことができないから、10個にまで減らして選びやすくする。そしてそれを行うのが「システム」だ。

 今度のテーマに引きつけると、小学校時代こそがシステムといえる。小学校時代は心も身体もまだ幼いし、土地に繋がれて親のもとに置かれている。つまり、自分の選べる「選択肢が限られている」=「複雑性が縮減されている」のだ。

 それは「あり得たかもしれない未来を減らされてしまった」という意味で、自由が縛られた状態ともいえる。

 しかし、「自由とは不自由である」ともいうように、果てしない自由は逆にぼくらの自由を縛ってしまう。だから複雑性を縮減し、ぼくらが戸惑うことなく選べるレベルにまで選択肢を減らすことがぼくらの自由のためには必要となる。

 ぼくが小学校時代を楽しかったと思うのも、システムによって複雑性が縮減されたことで自分を惑わしたかもしれない選択肢が取り除かれ、分相応な選択肢だけが示されたからだと思う。

 もし、自分の手が届かないようなハイレベルな選択肢を示されていたら、気を病んでしまいここまで小学校時代を楽しかったとは思えなかったはずだ。

 「世界が自分の手の届く範囲」にあるということ。それが豊かな人生を送るうえで実は一番大切なことなのかもしれない。

 複雑さを極める現代社会。果たしてぼくらは幸せになれるのだろうか。

 

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