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【自己紹介】松本仁 ReluceConsulting(リルーチェコンサルティング)

初めまして、株式会社ReluceConsulting(リルーチェコンサルティング)代表取締役の松本仁です。

初めましての方や、これまで関わらせていただいた方々、そして自分の振り返り用にするためにも今回自己紹介を語らせてもらいます。

前の記事でどういう想いで独立・起業をしたか、今後どうしていきたいか記事にしたためる中で、改めて自分を振り返りたいと思って今回自己紹介文を整理しました。
(ダラダラと書いた自分史でありで、ほぼ自分に向けた記事ですので、興味のある方のみ是非ご覧ください)


総括

かなり長い文章なので、最初に自身の性格をまとめます。
もし人となりだけ知れれば良い方はこちらでご退出を!

・決断は早い
・縛られることが嫌い
・自分の感性に自信がある
・人生の大舞台では過信から大体負けてきた
 (但し、負けることは事前に薄々気づいている)
・案外客観視できている
・質より量でカバー(今は変わったつもり)
・非効率が嫌い(↑と矛盾しなくもない…笑)

こんな感じの人間です。
興味があれば読み進めてください。

あと、自社のHPを作りましたので、興味がある方はぜひご覧ください。
Home - 株式会社ReluceConsulting (reluce-consulting.com)

幼少期(生誕〜幼稚園)

東京都杉並区にあるごく普通の家庭に長男(姉2人の3人目)として生まれました。
この時代は正直自分がどんな子だったか記憶はあまりありません(笑)
記憶にあるのは、

・よく海外旅行に連れてってもらった
・割と転勤が多く色々な幼稚園を経験した
・幼稚園では太鼓を叩くことが多かった
・父親と犬とよく公園で遊んでいた

くらいです。割とごく普通で少しワンパクな子供時代だったかと思います。

小学生時代

この時代は割とモテ期だった記憶があります。
自分のいた小学校は周囲にませている子が多かったこともあり、早くもいっちょ前な恋愛をしている人も周囲に多数いました。
自分は割とガキ大将というか喧嘩早い性格で、殴り合いの喧嘩をしては両親が学校に呼ばれる日々でした。
今思うと両親(特に母親)には相当な苦労を掛けた小学校時代だったかと思います。
(自分の子には自分のようになってほしくない気持ちも多少あります💦笑)
そして自分は父が大企業から独立していたこともあり、この時期から独立・起業や自由な働き方に憧れがあったのかもしれません。

そしてこの頃始めたのが、今も続けているサッカー。
2002年のW杯が日本で開催されることもあり、興味を持ち始めたのがきっかけでした。

そして自身の人生の1つのターニングポイントとなった中学受験。
初めて自分で自分の将来を決めた経験だったかもしれません。
結局は第1志望であった、都内の中高一貫私立男子校に入学することが出来ましたが、今思うとなぜ男子校を希望したのかは全く分かりませんが、結果的には悪くない選択であったかなと思います。

中学・高校時代

晴れて中高男子校に入学しましたが、記憶にあることはほとんどサッカー部での活動と受験勉強の記憶のみ。
校内での活動に関してはほぼ記憶に残っていません(笑)

学校が圧倒的に勉強に比率を置く校風であったため、サッカー部は強豪とはお世辞にも言えず、どちらかというと弱小校でした。
それでも監督のトップダウン体制が敷かれており、そこに部員は追従することで高校時代の最高成績は都内16強まで行くことが出来ました。

それでも高3の夏では、引退して受験に切り替えるか、夏の選手権に臨むかを決断しなくてはなりません。
私は割と主要メンバーであったこともあったため直前までは現役続行する気であったのですが、結局は春で引退という決断をしました。

というのも、この時点で東大受験を目指したことが理由です。
自分は校内では中の中ランクで、全く東京大学に手が届く位置にはいなかったものの、将来のことを考えると突如として日本のトップに君臨する学府へ挑戦したいという気持ちが湧いてきました。

しかし結果としてはもちろん完敗。
東京大学への受験は勿論、結果としては滑り止めとして受験した東京理科大のみしか合格できませんでした。
とはいえ全敗ではなかったこともあり、ここで再びの決断のタイミングです。現役で進学するか、浪人で改めて東大を目指すか。
この際は迷いはなく、どうしても東大に行きたい、という気持ちから浪人の道を歩みました。

浪人時代

東京大学にかすりもしなかった現役時代を反省し、浪人時代は改めて自分のことを振り返る良い時期になりました。
改めてこの記事を書いていて思い出す自分の反省点として、この時期は物事の最短ゴールを目指すことが苦手だったように思います。
例えば、勉強に関しても例題を解きまくって、回答パターンを記憶することを勝ち筋としており、そもそもどういう考え方をすれば良いのか、といった基礎を蓄えることの重要性を理解していなかったように思います。

浪人時代は学校のクラスのような雰囲気ではありましたが、自分は尖っていたこともあり一匹狼を貫いておりました。
しかし、クラスの中心人物の中に共通の友人がいる子がいたことで、自分もそのグループの中に次第に入りこんでしまいました。
今思うとこの時も一匹狼を貫き、少数の友人のみとつるむことが最適解であったかと思いますが、どうしてもワイワイとして友人がいる環境を好んでいた自分に嘘はつけませんでした。

結果、この時も目標としていた東京大学には惜しくも合格することは出来ず、第2志望であった慶應義塾大学に進学することになりました。

大学時代

この時代は自分の中で一番の暗黒期、且つ一番自由で楽しかった時間でもありました。

サッカーサークルに入り、スタバでバイトをし、時期が来たら就活をし、とありきたりな大学生活を過ごしておりました。

1つ特筆すべき点といえば、サークルでは主将を務めましたが、人生で初めて組織のトップに立つという経験をさせていただいたことは今後の糧になったかと思います。
主将選任時は立候補で名乗り出ました。
それまでも活動参加頻度が高かったこともあり、自分が主将で良いのでは?という雰囲気があったものの、最終的には自分の意志で、務めてみたい!と思い立候補しました。

組織の上に立つことには一定の苦しみがあります。
・メンバーには厳しいことを言わないといけない
・組織を上手く機能させるためにはルール・仕組みを作らなくてはいけない
・強制力のない環境で能動的に活動させるための働きかけが必要
 (部員のモチベート施策等)

少なくともこれまでは組織内での1メンバーとしてしかコミュニティに参加したことが無かったため、この辺りに考えを巡らせる必要がある、という事を認識できたことだけでも貴重な体験でした。

そして就活があります。
個人的には自己分析や、自身の表現が非常に苦手だった記憶があります。
そんなこともあり、志望の軸や条件もかなり曖昧なまま、大企業をローラーするという、一番やってはいけない活動をしていました。
業界でいうと総合商社、損害保険、大手メーカー等です。
結果として就活解禁後に受けた企業群は全て内定をもらえず、インターン経由で事前に内定をもらっていた事業会社へ入社することにしました。

就活の経験は自分にとって非常に悔いの残ったものの、ただ正直自分の言語化力・表現力では受からないことも、活動を開始する前に多少なりとも感じていたため、正直想定内の結果だったと思います。
(とはいえ周囲の友人には強がった態度を見せていたと思います(笑))

社会人1社目(不動産系事業会社)

そんなこんなで悔いを残しながらも、与えられた環境で頑張ろうと決意した社会人1社目。国内の不動産系事業会社に入社しました。
私は都内の支店に配属になったのですが、ここでの業務内容・働き方には人生で一番の違和感を感じました。
本当にこのような仕事がやりたいのか?自分のやりたいことは何か?を改めて考えた結果、自分はミーハーなので、より規模も大きく、より上位層と常日頃対峙した結果、自分の成長を加速できるような環境にいたい人間だという事が分かりました。

という経緯もあり、自分は入社半年で志高く入社した会社を退職しました。

社会人2社目(日系コンサルティングファーム)

2社目は志望の軸や条件を整理した上で、日系のコンサルティングファームへの転職を決めました。
結果から言うとこの転職が自身のターニングポイントであり、この決断が無ければ今の自分はいなかったと思えるような転換点でした。

この会社に入った時点では"ビジネス"に関してほぼ無知な状態でしたので、自分の知識・スキルはこの会社に入らなければ培われませんでした。

働き方は文字通り、朝から晩までの生活でした。
ただこの働き方や業務内容が自分の求めていたものだったため、今思うと苦しかった思い出よりもやり甲斐のあった記憶ばかりです。

BPR関連の案件に参画しましたが、カタカナ・横文字の知識は皆無であったため、そもそも案件の内容を聞いても「?」が来るような状態でした。
苦労する際のこれまでの私のやり方は「質より量」。
効率化をする前に、まずは量をこなして大枠を把握。その後に作業の効率化を目指すというものでした。

そんなこんなでアナリスト(1年目)→コンサルタント(2・3年目)→シニアコンサルタント(4年目)と4年半で2回の昇格という、ごくごく普通な昇格街道を進むことが出来ました。

しかし4年目になり業務に慣れ始め、プロジェクトを一定単独で回すことが出来るようになった際に、このまま同じ会社で過ごし続けて良いのか?という疑問がありました。
きっとこのまま2,3年したらマネージャーになり、シニアマネージャーに、なるのだろうなと、フワッとした道が見えました。
(今思うとそんなに簡単に昇格は見えない気がするw)

その思いが湧き出た際に、「起業」という道もありましたが、あくまで1社のやり方・進め方しか知らなかったので、世間一般のコンサルティングファームではどのような手法を用いているのかを知りたくなりました。

ただしあくまで他ファームのやり方を知りたかっただけでしたので、大差が無ければ長居するつもりも毛頭なく、大差があった場合のみだけそこでの手法を学ぼうと思っていました。
また独立したら会社の看板が無くなる、とよく言いますが、それでもこれまでの経歴は残りますし有益なものです。

その理由もあり、いくつかの外資系コンサルティングファームに絞り転職活動を行いました。


社会人3社目(外資系コンサルティングファーム)

そんなこんなで、自身のスキルには一定の自信があったため、外資系総合ファームはローラー的に選考に進みました。

前職はファームであったこともあり、書類選考はどの会社も難なく通過し、面接をさせていただき、結果としてはほとんどの会社(3/4社)から内定をもらいました。
(このとき思ったのは、どのファームも人材が不足しているな…という印象…)

この会社に入社後はいきなり炎上案件に入れられました。
結構この案件は体力・精神的にもタフな案件でして、かなり疲弊した記憶があります。
このとき思ったのは社内業務の多さ。
マジで生産性のない時間を過ごしている…と。
この経験を経て、早くクライアントに100%矛先を向けれるように独立をしたいと考えました。
(在籍期間が短かったこともあり、当時の心情はほぼ記憶にないですw)

現在(起業~)

結果的に、外資ファームは半年ほどで退職し、自身の会社を立ち上げることを決意しました。
この際の心境はまた別途記事に書こうと思います。

設立時に思ったことは1つしかなかったです。
クライアント企業・人のために100%尽力できるような環境、風土にしたいなと。
それ以外は増やすつもりはありません。
何があっても、従業員が増えても、↑のビジョンにさえ立ち戻れれば問題ないと思っています。

結び

いかがでしたでしょうか?
こんな記事にするほど多くの珍経験を過ごしてはいないと思います。
しかしコンサルとして働いている方は同じような経験をされている方は一定数いるかと思います。
もし相談や連絡があれば是非お気軽に連絡ください。
社員募集中です!

では長々とお読みいただきありがとうございました。
次回は起業時の心境を、より解像度高く記事に出来ればと思います。

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