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冷気

自分は何も持っていない。何か一つぐらい与えてくれてもよかった!と浴室で熱い涙が溢れそうになるのを堪えるくらい、自分の存在の矮小さと世界の不条理について大真面目に考えていた時期は遠く昔と言える程遠くは無く、認めるのが憚られる程近い訳でも無い。ただ最近久しぶりにそんな熱い思いを一瞬だけど抱いた。例の如く一呼吸の間にその熱は失われてしまった訳ですが。

置かれている状況を俯瞰して見ては生じている問題がどうでも良くその困難ささえも大したことと思えなくなってしまうくらい達観してしまった人は今日の私以外にも少ないけれど幾らかいるんだと思う。たぶん。

何かを恨みそうになる時には冷気みたいなものが頭のなかに広がっていくのを感じる。舞台袖から流れ出すスモークみたいに。自分に失望するのも、他人に苛立つのも、人生を悲観するのにも、神様を恨むのにも、エネルギーが要る。それは一度冷静になってしまえば失われる性質のエネルギーであって、内省もしくは他者からの指摘によって簡単に冷えてしまうくらいの熱しか初めから持たない(持つことのできない)私たちは、それをすぐに失っては、ぬるくてだるいが当面は居座りやすい暮らしに気付かぬ間に戻ってゆく。精神的に歳をとって達観した私たちは世界を憎み続けるためのエネルギーが続かない。 

達観とは一種の防衛本能なのかも知れないとよく思う。人生のどこかの段階で私たちはそれを身につけてきたのだろう。ただ面白いことに周囲を見る限りそれを身につけていない人の方が大半のように見える。よく言えば感情豊かで感受性が高い。悪く言えば情緒不安定で傷つきやすい。子供らしさを残していて大人になりきれていないとも言える。そんな人が多いように見える。私からするとそれが少し羨ましい。達観せざるを得ないほどの辛いことがこれまでのその人にはあまり無かったのではないかと疑ってしまうから。私は人生の底にできれば足をつけたく無かった。その後の日々は達観を覚えたことで楽になってきたと言えども。

精神を追い詰めてまで真剣に考える事はこの世にないというのが持論で、それはまさに達観からくるものであり、これだけあれば安心の人生のお役立ちグッズ的な考え方でもある。ただ何事にもそう考えられる人は生きるのに慣れすぎている。私を含めて。生きるのに慣れすぎた私が織りなす人生は余りに色が褪せている。最近の私は、高みから見下ろす自分を地面に引きずりおろして達観することさえ出来ないような痛みを再び味わってみたいとさえ思う。幼少期のあの痛烈な痛みゆえの、あの鮮明な色彩のある世界をもう一度だけでも見てみたい。

ただ真に傷つくのもやっぱり怖い。


「深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ」

ノルウェイの森/村上春樹

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