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【エッセイ】死、そしてロゴスについて

プラトン『パイドン』におけるソクラテスの死に対する考え方は、何かを純粋に知ろうとするならば、肉体から離れて、魂そのものによって事柄そのものを見なければならない。その時とは、肉体と魂が分離する、つまり我々が死んだ時である。それ故、ソクラテスには、これまでの人生においてその為に大きな勤勉さをもって追求してきたそのものを十分に獲得するという、死んだ後の世界への希望があった。私はこの考えに準じない。

イデア論を半分認めた形でこの考え方に準じないのは若干矛盾しているかもしれない。では何故死があるのか。様々な宗教もまた、この問いにそれぞれの形で答えを与えている。死が訪れるのは、生があるからである。では何故生があるのか。プラトンは『パイドロス』において、生まれ変わりの期間を示した。キリスト教も、年数は違えどもまたそうである。

魂がどうなるか、本当に死後、神々のもとへ行けるのかなど、誰も知る由がない。ただ、現実に我々の生が約百年で区切られてしまうそのことにさえ、私は一つの形而上的な力の働きを感じずにはいられないのである。この混沌とした現世、キリスト教でいえば地球、死すべき人間、象徴的な意味で神の戒めに従わない人々が試しを受ける場所。この現世に生まれ、死にゆくことは、ソクラテス的な考えでもなく、キリスト教的な考えでもなく、ロゴスによると思われるのである。である。

この世ではしかし、ロゴスに逆らった事象も多く存在するかもしれない。しかしそれもまた、ロゴスによると考えるのである。

生き地獄とは何だろうか、戦争は何故生じるのだろうか。これらの問いに答えは与えてくれないとしても、その背後に、或いは我々が生きている背後にロゴスの存在を認め、ロゴスにある意味身を委ねて生きていくことは、我々の救いになるかもしれない。私は死も、自殺も、自殺は個々人の意志によるが、その意志決定をさせる背後にまで、ロゴスの影を見るのである。それ故、私にとっては、神によって自由意志が与えられている人間の、その意思さえも、あらかじめ把握しているような、超越した神のような、言い換えれば神に置換される、神に匹敵した存在が、ロゴスなのである。

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