人間は何かに操られているのかもしれない、人生は最初から決まっているのかもしれない

 幼い頃にぬいぐるみ遊びをした方もいるだろう。私もそのうちの1人だ。お気に入りのぬいぐるみを、自分で声をあてながら操る。ぬいぐるみに声などないし、ましてやそれ自体に感情などないが、この子達ならこういう場面でこういうふうに言うだろうと想像して声をあて操る。時々、この子達が本当に生きていればいいのに、なんて思いながら。そう遊ぶうちに、ふと、ぬいぐるみを操って遊んでいる私も、このぬいぐるみのようになにか大きな存在に操られているのかもしれないと思った。幼いながらにこんなことを考える自分を振り返ってませてるなと思ったりもするが、その一件以降私はぬいぐるみ遊びが怖くなってやめた。
 もし本当に私の考えの通りなら、この先の人生全てが、何か大きな存在によって操られ決まっていくと考えられる。あくまで人間は操り人形。そう考えると、幸運や幸福は勿論、不幸や不運なことでさえも「まあ、大きな存在に操られて決められてるものだし」と受け入れられるのかもしれない。辛い場面に直面すると、大抵何故自分がこんな目に遭わなければいけないのだという思考を抱くものだが、その思考があるだけでも莫大なエネルギーを要し、疲弊してしまう。勿論不幸や不運なんて無い方がいいに決まっているが、日々生きていれば案外そういうことは起きる。
 以前どこかで、心臓の拍動回数は最初から決まっているという話を聞いた事がある。カウントダウン形式で心臓は動いているのだと。つまり寿命は最初から決まっていて、終わりに向かって生きている。もしそうであるなら、前述した人間は操り人形の様なものという考えも、あり得ないことではないのかもしれない。
 先日投稿した中に、外的要因に振り回されて生きるのが人生の本質であると書いたが、運命なんて簡単な言葉では言い表せない何かが人生を決めているような気がしてならない。人生の中で生じる全ての事柄を自分でどうにかすることはできない。世間一般では自分で自分の未来を切り開くことで充実した人生になる、もしくはそれこそが素晴らしいことだと言われる事が多々あって、それ以外はまるで良くない人生であるかのように言われたりもするが、妥協しまくりの人生も良いし、流されるままの人生でも勿論良いと私は思う。何故なら、人間は何か大きな存在に操られているのかもしれないし、人生は最初から決まっているのかもしれないから。むしろそういう人生こそが人生の原点であり本質であると私は思う。
 時間と共に流されて行き着く先がどんな所なのか、そこにはどんな人がいて、どんな経験ができるのかを楽しみにしながら、この人生を生きることにする。

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