視点と人称の話
すこし前にキミノベルさんで創作座談会をやったのだが(以下記事参照)、そのときに人称の話がすこし出たので、僕の考えをまとめておきます。
小説書く人みんな大好き、「一人称」「三人称」の話題!
僕はこれを、『視点の距離感の話』として捉えている。
「一人称」と「三人称」って、パキッと分かれているものではなく、その中がグラデーションになっている(距離がある)。
大事なのはその距離の位置取りであって、人称が「私」になるか「○○(名前)」になるかは、あくまでもその距離感の結果にすぎない、という考え方だ。
わけわからんと思うので、図にしてみるよ!
針とらさんがすぐに図示するのは、前職時代の癖だよ!
たとえばこんな感じで、シーンにキャラクターが複数いたとする。
このときに僕が考えるのは、「人称」ではなく、「どのあたりにカメラを据えるか?」ということの方だ。
カメラをキャラクターAに限りなく近づけていって、その中に入りこむと、『キャラクターAの一人称』になる。
カメラがこの位置にいるときは、キャラクターの主観的なものの見方とか感情を、ダイレクトに映しだしやすい。
カメラを少し遠ざけて、キャラクターAの背中が見えるくらいの位置にくると、『キャラクターAの三人称単視点』になる。
カメラがこの位置にいると、感情にもやや客観性が乗ってくる。あと、キャラの動きとかアクションが映しやすくなる。
さらに遠ざけていって真上から見下ろすと、『三人称神視点』になる。
これは各キャラを個別に活写したり、客観的な事実を映しやすい。
先にあるのはカメラワークであって、人称はその後にくる話だと、僕は思っている。
その作品の中で、「カメラのデフォルト位置をどこにするか?」「どこから撮ればその話は一番映えるのか?」を考える。それによって、基本の人称選択をする。
するけれど、僕は作中でそのカメラを、デフォルト位置からシーンによって動かしたい。
で、人称はカメラによって勝手に決まるもので、カメラが寄れば勝手に「僕」になるし、カメラが遠ざかれば勝手に名前になる……くらいのイメージだ。
カメラワークとイマジナリーライン
カメラを動かすといってもいろいろあって、図中でイマジナリーラインと書いた部分を横断してカメラを動かすと、読む人は混乱をきたすのでしてはいけない。(イマジナリーラインは映画用語で、ほんとの意味はちがうんだけど、なんとなく意味合いが似てる気がするので、そう呼ぼうといま決めた)
たとえば、
「キャラAの一人称の次の行が、キャラBの一人称」
これが読者にとって混乱を起こすのは、誰でもわかるだろう。
図でも、イマジナリーラインを踏み越える。
「キャラAの三人称単視点の次の行が、キャラBの三人称単視点」
これもまあ、わかるだろう。イマジナリーラインを踏み越える。
たいていの創作本では、そんな風に視点を変えるときは、「章を変える」「一行あける」などのやり方を推奨している。僕もそう思う。
ただこれは、「読者の中でカメラをリセットしてもらうこと」が本質なのであって、章を変えることや一行あけることが本質ではない。
つまり、別の手段でリセットできるなら、それでも良い。(推奨はしない)
ようは読者が自然に読めるかどうかだ。
たとえば、「キャラAの一人称」から「キャラBの一人称」にダイレクトに移すと読者は混乱してしまう。
でも、いったんある程度の量の「三人称神視点」を挟みこむと、混乱しなくなる。
映像であれば、キャラAの主観視点から、次の瞬間キャラBの主観視点を映したら混乱するが、いったん俯瞰に引いた映像を挟みこんでから、キャラBに下ろしていくと自然に観れるようになるのは体感でわかると思う。詳しくないが、カメラワークの理論があるはず。
それと同じように、文章にも、混乱してしまうか自然に読めるかの、イマジナリーラインがあると思っている。
あとは神視点以外に、会話文をいくつか挟むことでも、カメラは結構リセットされたりする。(たぶん会話は神視点なのだ)
僕のやり方
僕は基本的に、カメラは三人称単視点の位置にベースを置いておいて、近づけたり遠ざけたりしていることが多い。
これは感情を描きたいときと、アクションを描きたいときと、両方あるためだ。なので人称のベースは、三人称にしていることが多い。
逆にアクションがいらない話のときは、はじめから一人称でカメラ固定している。
あと、ノベライズの場合はちょっと引いて、三人称神視点をベースに置いている。
これは、マンガが基本的にキャラを外側から描く媒体なためだ(主人公の顔が描かれていないマンガとかないでしょう)。キャラAの思考描写(一人称)とキャラBのそれが、一コマで切り替わったりも普通にする。
小説でそれに対応しようとすると、どうしてもカメラのベースを引き気味に構えざるを得ない。
でも、ずっと引いたまま映しているのも問題で、情報を活写しているだけ……読者を情報を摂取しているだけの状態にさせてしまう。
それでは面白さは感じにくい。面白さっていうのは情報ではなく、主観であり体感だからだ。
だから要所要所で、カメラを寄せたり引いたりしているだが、あまりやりすぎるとゴチャゴチャするし、バランスがむずかしい。
あと、これはどうやっても小説では表現できねええ…! みたいなのもあったりする…。
こまけえことはいいんだよ!
なんかいろいろ書いたんだけど、こういうのを考えるのが特別好きじゃない人については、
「とりあえず原理原則に従っておけ!」
でいいと思う。
100点満点中5点配点の問題にこだわらず、配点高いところから考えた方がよい。ほかに気にしなきゃいけないことはなんぼでもあるし、読者も編集者も気にしてないから。(というか、気にされたら負け、みたいな領域の話だ)
僕の場合は、こういうのを考えるのが特別好きで、学生のころは好きな小説の一文一文を分解して、この文ではどんな位置から見ているんだろう…? という変遷を書き下して、修士論文のテーマを『小説文章における視点の距離感』にしようとして、教授に却下された程度にはマニアだ。
なので、結構気になってしまう。
僕がマニアになったのは……宮部みゆき先生の影響だろうなぁ。宮部先生の作品の、そのあたりの距離感とかカメラの取り方が、すごく好きだったので。
ぜんぜんあの域に達せていないんだけど。
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