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スープの冷めない距離

 冬休みの帰省を終えて、実家の山形から新幹線に揺られること3時間半以上。3週間ぶりの最寄りに降り立った時、「帰ってきた」という気持ちになりました。コロナ禍で実家に帰ってばかりだったけど、私もそれなりに東京に染っていたみたいです。



 初めて上京するために地元を離れる数日前の夜。
 2人で居酒屋に行った時の母が言ったある一言が、私は今でも忘れられません。 

 「スープの冷めない距離にいてほしいな。」

 酔った母から漏れた本音。母の中での具体的な距離は分かりませんが、間違いなく東京はその範囲外でしょう。私が東京へ行くことに後ろ向きな言葉を聴いたのは、それが初めてでした。

 私の弟は生まれつき重い病気を患っており、母も付き添いで長い間大きな遠くの大学病院に入院していました。そのため、母は私が幼稚園から小学生の間ずっと家に居ませんでした。当時の私は寂しかったんだと思いますが、サッカー三昧の毎日でそもそも自分が家に居なかったのが今ある当時の記憶です。しかし、母は沢山我慢をさせてしまったと後悔を抱えています。そのため、母は私のやりたいことを肯定して自由にやらせてくれました。東京の大学に進学することも、母は何も口出しせず自由に決めさせてくれました。私は自分が大分恵まれている自覚があるし、母には感謝しかありません。でも、未だ母の心にはしこりが残っています。

 私の母は、相手の要望をどうしたら叶えてあげられるかを考えてくれる人です。例えば焼きそばを作る時、父はソース味、私は塩味、弟は野菜抜きと3種類を作ってくれます。みんなに美味しく食べてほしいからと、それが当たり前かのように朝から2時間台所に立っているんです。
 
 また、母はあまり欲を口にしません。ブランド物が欲しいなどの物欲も無ければ、どこか旅行に行きたいとも思わないそうです。母は、今こうして普通に暮らせていることが、一番の幸せだと言っていました。その達観した精神は、私には耐えられないであろう程の辛く苦しい経験を何度も乗り越えてきているからです。私は母の過去を聞く度に、当たり前の日常がどれ程幸せなのかを実感します。

 私が母を絶対幸せにするなどと、おこがましいことは言えません。幸せの定義は、人それぞれですしね。でも、母の数少ない要望は最大限叶えてあげたい。そうなると私は、大学を卒業したら地元に戻るという選択をしなければなりません。

 私はずっと東京での暮らしの憧れていました。何もなくて退屈な毎日を送っていた私にとって、東京は輝いて見えていたんです。故に高校生の私には、上京の選択肢以外ありませんでした。そして、実際に東京で自分で決めた好きな家で暮らしている現在。東京にはどんなすごいものがあったのか、私は当時の自分に教える答えを未だに見つけられていません。分かったのは、自分が勝手な幻想を抱いて現実逃避していたことだけです。

 しかし、それでも私は卒業後に地元へ帰ることは前向きに考えられませんでした。私の中で地元に帰ってしまったら、そこでそれ以上にはいけないという思いが抜けなかったからです。人や店などの入れ替わりはなく、新しい出会いはほとんど無い。なにより地元には働く場所が少なく、私が魅力的だと思える仕事がありません。20代で現状維持の生活に落ちつくのは、あまりにも早すぎる。このジレンマばかりはどうしようも無いと思っていました。

  しかし、近年は新型コロナウィルスの影響でリモートワークが普及しました。加えて私が始めたプログラミングは、フリーランスという形で場所に囚われずに働くことが出来ます。現在の私の実力と不安症の性格でフリーランスとして働くことは1mmも考えていませんが、この業界で働けばある程度融通は利くと思います。今になって一番の懸念が解決する可能性が出てきた訳です。

  自分が興味を持って飛び込んでみた世界で、楽しく没頭して学習していることに、もっと頑張りたいと思える理由が増えました。

 ここまでたどり着いた現在、期末試験を無事に乗り越え2年生が終了してしまいました。大学生活が半分終わってしまったなんて考えたくありません。カラオケボックスみたいに延長できたらいいのに…。

 でもこれから更にどんどん色々なことにチャレンジして、残り2年で出来る限り自分の可能性を広げていきたいです。


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