小説『「おはよう」よりも先に』の後書き
こちらの小説の後書きです。
この記事の構成は小説の後書きと、小説本編下部に記載した部分の解説の二部構成です。後書きだけ読めればいい方は、このままお読み頂き解説はお好みでどうぞ。解説も読まれる方は先に解説から読むのをおすすめします。
後書き
人同士の関係性において、時間という軸はとても重要だと思っています。
この場合の時間というのは二種類あって、単純に流れていく月日などの誰にでも平等に降りかかる抗えないものと、その人と関係している時にだけ感じられる時間です。
(補足すると、後者の方は、何も直接触れ合ったり分かち合ったりする必要もなく、相手を思っていればそれは関係している時間といえると考えています)
時間を共に過ごす、というのは良い面と悪い面があります。良い面は説明不要でしょう。悪い面というのは「飽きる」という言葉がイメージしやすいでしょうか。「冷める」というのも使いますね。抗えない方の時間の経過で、関係の方の時間が失われて行くのです。
それならせめて、関係の方の時間を止めてしまおう。必要な時に取り出せるように、内に秘めた熱量を逃さないように閉じ込めてしまおう。もしくは、最も熱い時にその状態で止めてしまおう(一緒に寝落ちしてしまうのはこちらが該当する気がします)。それらは一つの方法で、このように願う気持ちというのは、例えば「時間が止まればいいのに」という意味を含んだ歌詞の楽曲も世の中には多くあるくらい一般的なことで、私にも強く存在する思いです。
……でも抗えない方の時間は無慈悲に過ぎていくのです。それは――関係の時間が冷めていくのを予測してしまう瞬間は、とても残念でやりきれなくて歯がゆく感じることもあるでしょう。でも、仕舞っておいて忘れていなかったゆず茶に熱を加えるように、その時の甘さと温かな想いを取り戻すことはきっと出来る。もっと言えば、二人が冷めてしまわないように熱をその温度を共有して行けば、ただそれだけでいいのかも知れません。
この作品のタイトルは、書き出してすぐに決めたものです。もしかしたら、穏やかな二人の感情を「おはよう」よりも先に分かち合ったのかもしれません。だって、「おはよう」という言葉よりも、そう言いたい気持ちの方が必ず先にあるはずですから。
(後書きおわり)
解説
この物語には、明らかにする必要がない情報と個人的な遊びを盛り込んでいます。
本編下部にも書きましたが、文章で読むのと耳で聞く違いを意識していますので、それぞれの方法で描けるイメージを解説してみます。
ぼかし部分
文章から読み解く
登場人物の二人には名前はなく『僕』と『君』としか表記がありません。文章の人称は全て『僕』視点です。早い話が、この二人の性別も年齢も関係性もハッキリと提示していません。多少推測はできますが断定できる程ではないので、読み手の方がイメージしたものが正解となります。逆に言えば、そういう属性は話の本筋とは関係がないとも言えますし、どういう風にも受け取れることこそが書きたいことだった、とも言えるかも知れません。
そして地の文以外のセリフですが、作中の『君』は喉が痛くて喋れない設定なようですので、カギ括弧は全て『僕』の言葉である、ように思えますね。でもどうでしょう、『僕』の測定では熱はない、とのことなので喋れない原因は風邪じゃないかもしれない(あるいは二人共風邪だったとも)。喋り過ぎ、歌い過ぎ、仮病。なんでもありですから、その理由によって『君』の人物像も読み手によって異なるでしょう。
ところで、この作品のタイトルは『「おはよう」よりも先に』です。『誰が』「おはよう」より先に『どんな』言動をする/したのか、それは読み手の方次第ということで、その選択は無数にある可能性から好きに選んで頂きたいと思います。
朗読から読み解く
一方、耳からの音声情報だとどうにもならないのが語り手(私)の声によるイメージです。おそらくですが、『僕』を女性だとイメージした人はいないでしょう。文章なら『僕』を女性と捉える人はいるかもしれません。
(この作品を女声で聞いたらどんなイメージになるのか気になるところです。セリフまわしを少し変えればソレっぽくなるかもしれません。)
とまあ、そっちはメインではなくて。一番の違いはカギ括弧の会話文が、文章で読むよりもハッキリと『僕』のものであるということが分かります。そうすると『誰が』「おはよう」より先に『どんな』言動をする/したのか、の部分の選択肢が減ります。声による情報量が増えたために、情景がイメージしやすくなり選択肢が減る。これぞ音声表現の醍醐味。
この違いがあるので、私は文章→朗読の順番で楽しみたいのですよね。
とはいえ、読んで聞いてくださった方が、それぞれのイメージで楽しんでもらえたなら嬉しいです。
(謎解き)遊びの解説
文章での違和感
まず最初にお断り。
朗読することで違いを楽しむことを前提とした文章にした関係で、もっと伝わりやすい書き方、あるいは情景描写として相応しい表現がある、という部分は存在するでしょう。が、こういうのは無視しておいて、もっとはっきり違和感があるところで、なおかつ耳では絶対にわからないところの話です。
それはつまり、声を聞く聴覚情報では分からず文章を読むという視覚情報によってのみ、明確に違和感があるところ。
ズバリ、
01二34567八9十
です。
作中に、これでもかと盛り込んだ数字を並べてみました。一部を漢数字にしていましたが、気づいて頂けたでしょうか。これは耳で聞いても絶対にわかりません。
ではそこにどんな意味があるのか。繰り返しますが、これは視覚的な印象を重視したのものです。
考察のお手伝いとして、ここで私の好きな曲の歌詞を引用します。なお、本編とは一切関係ありません。
こちらの歌詞をざっくり意訳すると、
さて、この歌詞を踏まえて漢数字の謎に迫ります。たくさん出てきたのは「二」ですね。
二二二二二二二二二二
繰り返しになりますが、この物語は『僕』と『君』の二人だけのものですが、人は元々別の存在であります。それぞれの「一」の線が一緒に進んでいく様子は、この「二」の連なりをイメージ出来ます。そしてその平行線を縦向きにしてみます。
┃┃
こんな具合になります。自立した二人みたいな。
線というのは、人そのものでもあるし、人が歩く道と捉えてもよいでしょう。
さて、この線でもある二人は作中で曲がります。ベッドのへりに座る『君』に『僕』が額を押し付けるシーンです。イメージしてみてください。二人はどんな体勢でしょうか。
そして、二の後に使った漢数字は、
八
どうでしょう、あのシーンで額をくっつけているように見えませんか?
交わることのなかった平行線が“常識”を超えて触れ合って、そして、
十
交わる。
以上、文章からでしか想像できない二つの線のお遊びでした。
朗読での遊び
さて、今度は逆に文章による視覚情報なら一目瞭然ですが、耳で聞くと困る部分。それは何かというと、同音異義語です。
作品内で織り込んだのは細かくは書きませんが、(私が意図して組み込んだものは)アクセントも完全に同じなので、耳で聞く分では全く区別出来ません。文脈で聞き分けるしかないわけですが、つまり、その文脈を程よく分かりにくくすることで面白さを出せないか、という試みでした。何がどう面白いかの解説は控えます。というよりも、読み手のイメージは、得てして作者の想像を超えることがありますので、とても解説など出来ませんので。
(行き着いたその可能性の数々はあなた自身だから導けるものでしょうから、それをどうするかはお任せしますが、どんな解釈でもきっと私は肯定するのだと思います。たくさん考えてもらえただけで嬉しいです。)
ここの調整は難しかったんですけど、こういう遊びが出来るのは、文章も朗読も自分でする人にしか出来ないことなので、やってみました。
以上。
あと、誰も気づかない小ネタとして、
ゆず茶の甘味
塩の塩味
醤油(またはベーコン)の旨味
ワイン(グラス)の酸味
(湯呑みの)緑茶の苦味
で、味の5要素も入れたりしています。これは完全に自己満足の世界。料理できないのにね。
あとは「ダイニング」とするところを「リビング」にしているのはわざとです。ダイニングの響きがダイイング(死)に近いこと、リビング(生)の響きがlive in(住む、暮らす)に近く、この二人には相応しいと思ったからです。何せこれは、音を意識した作品なので。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
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