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短編小説『その粒があなただよって』

ベクトル【Vektor】

大きさと向きをもつ量。転じて、方向性をもつ力。物事の向かう方向と勢い。

高校数学ではアルファベットや数字の上に矢印をつけ、例えば下記のように表記される。

$${\large{\vec{I} \vec{0} \vec{U}}}$$




 ドラム式洗濯機がいいらしい。洗濯物を放り込んで洗いから乾燥、そしてすぐ使うものは敢えて入れっぱなしにして保管機能まで果たせるんだとか。そこまでズボラじゃないよ、なんて言えない私には少し魅力的ではあるけれど購入を検討するほどのものではない。だって、うちじゃ洗う機能と乾燥させる機能は私の役割で、保管機能は彼女の役割だから。

「全てお任せ、スイッチひとつだぜ。多機能でいて操作は簡単、これ以上のことってないだろう?」

 冬の寒い日に濡れた洗濯物を干すのは確かに億劫だし、彼女が好む分厚いバスタオルはうちの小さな洗濯機の半分を占拠してしまうから2回に分けて洗わなきゃいけない。だから買い替えを検討しているんだけど。

「なんでも出来るのはいいけど、求めているのはそこじゃないんだ。容量が大きくてなるべく音が小さいやつ、条件はそれだけ」
「なんだ、もしかしてまだ洗濯までお前がしてるのか。いい加減、任せちゃえばいいのに」
「それがうちのルールだからね」

 決して悪気があって言っているわけじゃないことを知っているので、私は長年の友人を安心させるために精一杯皮肉った笑みをつくって答えた。
 ドラム式なんて求めてないんだよ。



 平日が休みになることも多い仕事をしているので、子供の幼稚園の送迎とその後の公園遊びに付き合うことも多い。

「いや本当にユミちゃんパパは偉いですよね。爪の垢頂けませんか、うちの旦那に飲ませますから」

 ママ友なんて絶対にお断りだと思っていた。冷淡で打算的で無個性なのに非効率で非合理で不用意に負の感情を刺激するだけの偽りの関係性なんて持ちたくないと思っていた。でも、それに無理に抗っているのも馬鹿らしく感じたし、私個人だけの問題ではなくて、長い関わりになるのだから仕方ない。
 子供の名前に敬称をつけて最後にパパ・ママ・お父さん・お母さん・おじいちゃん・おばあちゃんなどの役割名を付けて呼び合う。ドラマでよく見ていた光景。あの嫌悪していた光景に私は身を置くしかないのだ。私は“何”で、あなたは“何”だろう。

「大したことしていませんよ。ルールで決めているのを守っているだけですから。単純な家事分担です。私は料理は一切できませんから、それ以外のことはまあ……」
「その分担をちゃんとしてくれるだけで有り難いのにねー、うちの旦那は聞く耳持ちやしない」

 ママ友と会話していると旦那さんの愚痴が多い、と感じる。最初のうちは謙遜しているのかと思ったがそうでない場合がほとんどな気もする。幼稚園や公園で遊んでいる子どもたちを見ていると、そういうご家庭かどうかが分かるようにもなった。これは酷い偏見だと思う。だけど、そうやって先回りして警戒しておかないといけない。迂闊なことを言ってしまうと子供同士の関係にもヒビが入ってしまう。それを私は望まない。

「なんでわたしが全部やらなきゃいけないんだろう……」

 疲れ切った顔でこんなことを漏らす人もいる。こういう言葉を聞くと私は必死に、笑っているとも悲しんでいるとも判断がつかないような顔をして決して口を開かない。
 あなたが愛されているのは、あなたじゃなくてあなたの機能だけなのかも知れない。なんて言葉が漏れ出さないように。
 愚痴をこぼしたママ友の子供が走り寄ってきた。

「ユミちゃんのパパ。一緒にサッカーやろう?」
「ああ、いいよ。向こうにいるユウト君とユミも誘ってみんなでやろうか。……ということで中山さん、失礼します」
「あぁ、ありがとうございます。荷物は見ておきますので……」

 歓声をあげてキラキラした瞳で駆けていくその子と私の背中を、この母親はどんな目で見ているのだろうか。私はただこの少年にとっての“大人の男性と遊ぶ”という機能を結果的に果たしているだけだ。私はあの窮屈な場から逃げ出すためにそうしているだけなのだから。
 私はこの少年の父親ではないし、話し合いをしたいはずのあなたの旦那でもない。ただの子守役と思ってくれている方が幾分マシだ。



 仕事が少し早めに終わったときには自分の時間を満喫することにしている。今日は喫茶店に寄って昨日買った本を読むことにした。

「なによ! 彼氏が出来たからってそっちばっかり優先して、もうわたしのことなんてどうでもいいんでしょ?!」
「友達より彼氏を優先するのっておかしい? たかだか遊びの日程変えるだけじゃん!」
「その映画はわたしと一緒に行くって、前作観た時から言ってたでしょ。先に彼氏と観たならもうわたしとは行かないじゃん!」
「行くよ、先に彼と行くけど絶対後で一緒に観に行くから」
「そんなの意味ない、全然わかってない!」

 そう言い終えた隣の席に座っていた女子高生が乱暴に鞄を掴んで店を出ていった。その鞄が私のテーブルに当たって、なみなみと注がれていたカフェラテが少し零れた。彼氏が出来たほうの女子高生はうなだれる様子でスマホ画面を見ていたが指は動かしていなかった。
 二人の女子高生がどんな関係性かは分からないが、まあよくある話なのかも知れない。映画館の隣の席に誰が座るかで揉めるなんていうことはきっとよくあることだ。でも、それは本当に簡単に変えてしまっていいものだろうか。変わってしまうものなのだろうか。
 私はスマホを取り出して帰りは遅くなるとメッセージを送った。少女がどうするのかが気になったからだ。
 二杯目のカフェラテを飲み干して文庫本を半分ほど読みきったところで流石に店を出た。少女はまだ一人座っていた。



 帰宅後はすぐに入浴するのもうちのルールだ。脱衣所で服を脱ぐ前に洗濯の準備をする。仕事の日は夜に洗濯する。洗濯物の量的に二回に分けるので、まずは小物類を中心に洗濯機へ放り込む。液体洗剤と柔軟剤を入れて、すすぎは一回・スピードコースにしてスイッチを押す。そろそろ洗剤が無くなるから買ってこなくてはいけない。これも私の役割。
 洗濯機が回っている時間が私の入浴時間。バスタオルで身体を拭いて、彼女がキレイに畳んで収納してくれている服を着る。洗濯機が最後の脱水をして、ガタガタと鳴っている間に自分の役割に見合ったメンテナンスをしなくてはならない。仕事で大勢の前で喋ることも多いんだから少しは気にかけなさい、と彼女に言われている。
 顔に、一本で五役と書かれたオールインワンジェルを塗る。ズボラな私にちょうどいい商品だ。その五役が何の役割かは知らない。仮に世界中の人がこれを使うようになったら、その五役の役割を果たしていた元の商品はお払い箱だろう。でも、そんなことには絶対ならないのもわかっている。
 使い終わったジェルを洗面台の棚に戻す。そこには彼女が使う化粧水や乳液や美容液と書かれたものが並んでいるが、どれもブランドが違っている。化粧水には「美白」の文字、乳液には「シワ改善」と書いてある。役割ごとに違うものを用意することだってあるし、機能を使い分けることだって何もおかしなことじゃない。
 洗濯機が役割を果たしたことを知らせる音がなる。衣類をランドリーバスケットに放り込んで、残っていた洗濯物を洗濯機に投げ込んでもう一度回す。
 洗濯機がけたたましく鳴り出す。ドライヤーで髪を乾かす。そういえばドライヤーの冷風モードの存在意義を私は知らない。私にとってはなくても困らない機能だが、どこかの誰かには必要なのだろう。私が知らないだけでそういうものはきっと山のようにあって、それを知ったとき感動することもあるだろう。今までの自分が間違っていたと思うことだってあるだろう。
 バスケットを持って脱衣所を後にする。これが私の役割。



 部屋干しするものを手早く処理して、キッチンに用意されていた食事をレンジにかける。食事の支度は私の役割じゃない。けれども今は自分でするしかない。
 食事はとても簡素な日もあれば豪勢な日もある。スーパーの特売日とか子供の習い事とかそういうのが関係しているのだろうことは想像できるけど口にはしない。今日は簡素な日で、そしてもう彼女と子供は寝静まっている日、その事実だけで十分だ。
 今日のメニューは、具が多めの野菜炒めと味噌汁だけだが、きっと栄養バランスは考えられているはずだ。食への興味がない私に食べさせるための工夫というのは彼女の役割、だと彼女は思っている。私からすれば、全て出来合いの惣菜でもカップラーメン一つでも構いはしない。とは言っても、彼女のこのお節介ともとれる振る舞いには感謝している。あるいはこれこそが愛というものなのかも知れない。でも私は、たとえ食事が用意されていなくてもいいと思う。そんな機能や役割だけで彼女と一緒に住んでいるわけじゃない。
 食事を終えて、今自分が使った分とそれ以外の分の食器を洗う。洗い終える頃には二回目の洗濯が終わるので、一回目の分の残りとを干したところで、私の一日の役割は終わる。



 リビングのソファに腰掛けてテレビをつけると、テニスがやっていたのでそのまま観ることにした。私でも知っている世界ランク上位の人と聞いたこともない人との対戦。同じプロのプレイヤーであるはずなのに力量差は歴然としていて、片方のポイント表示はずっと「0」のままだ。ラリーも続かず淡々とゲームは進んでいき、解説がマッチポイントと言って間もなくゲームセット。各セットのダイジェストが流れたがどのセットも片方の獲得ポイントは常に「0」だった。野球なら完全試合というやつだ。テニスの場合はまた別の言い方をする。
 勝者は称賛され、敗者は見向きもされない。栄光の座は一つしか用意されていない。同じルールの上で比べるのなら力の大きい方が勝つに決まっている。より優れたものしかその席には座れない。
 テレビを観る気分ではなくなったので、本の続きを読むことにした。本を取りにソファから立ち上がると部屋の隅のホコリに気付いた。昨日はなかったと思うから、今日どこかから舞い降りてそしてそこに居座っているんだろう。彼女は今日は掃除をしなかったのか、あるいは掃除の後に出てきたのか。それは重要ではない。重要なのは、掃除は彼女の役割であるということだ。
 掃除機がゴミを吸い取ってくれることに感謝する人はいない。自動お掃除ロボットを便利だと思って製作者に感謝する人はいても、そのロボット自体に労いの言葉をかける人はそういないだろう。どちらも当然の機能だと認識するからだ。
 大事なのは、掃除をしようという意思にあると思う。私はその意思にこそ感謝をしたい。決して掃除をしなくてはならない、という義務感に対してではない。
 ホコリを拾う。掃除機は使わない。もしその音で彼女が起きてしまったら彼女は申し訳なく思うだろう。だからと言ってこのホコリを放置していたら、彼女は私がこのホコリに気づかないとは思わないだろうから、それはそれで申し訳なく思うだろう。だから私はこのホコリだけ捨ててそれ以上のことはしない。明日にはきっと、部屋中キレイになっている。そうして明日の私はきっと彼女に感謝する。
 何もかもを完璧に出来る必要なんて無い。私達は機械じゃないんだから。


 彼女は私の肉体を、その健康を維持する機能を担ってくれている。そして、私の精神の満足をも彼女は充分に満たしてくれる。かつては、そう思っていた。
 一緒にいて楽しい。共有して嬉しいこともある。もちろん合わないことだってあるにはあるが、それでもぴったりだと思っていた。
 合わなくなったわけじゃない、決して。

 生きること。私のこの身体を生き長らえさせること。その点に関して彼女の右に出るものは今後も現れることはないだろう。私自身が気づかない僅かな体調の変化も気付くし、身の回りのことはもちろん、細かなことにも気がつく。そしてルールを作ってお互いにそれを守れる。一番助かるところは、優先順位の決め方と意思決定の基準と思考回路が似ていることだろうか。
 生きることは決断の連続でその一つ一つを精査して決めていくのは体力も気力もいる。でも彼女は、私のその機能を担ってくれている。そして間違えない。
 

 肉体の直接的な触れ合いが心や感情に影響があるのは知っている。ただ同じ空間にいるだけでもその効果は感じられる。便利だとか高機能だとかでは説明のつかないものがそこにはある。それこそを最も大切な機能であり、その機能を生じさせるための役割が必要だと言うのなら、そこに特別な名前をつけて他と区別することも含めてこれを私は否定しない。でも、私を生かし続けても肌が触れ合っても、彼女ではどうあがいても、私の魂とも言うべきこの感情までは震わさない。震えたとしても、足りない。足りていないことを私は知ってしまったのだ。

 仮に、技術の発展でも古代の魔術でもなんでもいいけれど、心だけを他の何かに移せるようになったとして、身体を失った私が心を移したその先の物を、彼女は私と認識して愛してくれるだろうか。その心を、例えば石ころに閉じ込めたなら、彼女はそれを大事に抱えて生きていってくれるだろうか。石ころになった私の意思を推し量って決断してくれるだろうか。同じ状態に彼女がなった時に、私は彼女の意思が宿る石ころを愛せるだろうか。
 そこにある肉体を感じてしまっている以上、この問いに答えることは、難しい。

 価値観の相違。
 離婚の最大要因と言われている。価値観とはある程度は合わせていくものではないだろうか。周波数が違うままでは共振はおきない。その周波数を合わすのに疲れた、というのなら分かる。
 無理に合わさずとも共振すること、震えてしまうこと、揺さぶられてしまうこと、そういうものが魂と言っていいんじゃないだろうか。
 私は石ころになった彼女に合わせきる自信が持てない。私の中の彼女の幻影に、私の意思を投影しないでいられると自信を持って答えられない。

 逆ならどうだろうか。
 同じ属性の人が集いやすい傾向にあるネット上のコミュニティにおいて、似たような人を見つけることは意外にたやすい。でもそれ以上の関係性を築くことは、肉体を介さないその関係を維持することは、これも難しい。それは中身がなくて、あのママ友の作り笑いよりもきっと薄っぺらい。

 モニターの前の相手の存在をどう捉えるか。誰もが使える言葉の羅列にその人だから宿るものを掴み取れるか。仮に思念だけでやりとりが出来るのであれば、この肉体なんて捨ててしまえる。その状態でも確かにお互いを感じられることが魂で繋がっているということじゃないか。

 最近人気が出ているブロガーがいる。繊細な言葉遣いでありながらウィットに富み、ユーモアを挟みながら本質をつくスタイルが人気、らしい。そんな前評判を聞いていたので、どれどれちょっと見てやろうか、なんて上から目線で何気なく覗いてみたのが半年前で、今では毎日チェックしている。
 日常のなんでもないエッセイや時事問題への辛口コメント、抽象的な詩を書いていたり、アニメや本のレビューなんかもしている。雑食の猫のイメージがぴったりだった。“何”がいいのか、と聞かれると困るけれど、たしかに惹かれるものがあった。言葉では説明しきれない、魂を揺さぶられる感覚。
 それは高い塔の頂から同じものを眺めるような。それは互いを傷つけながら流れる血の色や痛みさえも比べ合うような。それは大樹にもたれかかって穏やかなひと時を分かち合うような。
 触れていないのに、触れられないのに、触れているよりも確かに感じる温かさ。

 ある時、そのブログにアップされている画像に既視感を覚えた。撮り方や加工でうまく隠していても普段から見慣れている光景を見間違うことはない。この人は近所に住んでいるのだと、そう確信した。
 街中ですれ違う人、犬の散歩をする人、スーパーでレジ待ちに舌打ちする人、野良猫に餌をやる人、コンビニでお酒を買ってその場であおる人、泣いている子供に優しく声をかける人、夜の静寂を破るそのいくつかの音、もしかしたらそれらの中に、あの文章を綴る人がいるのかもしれない。
 でもきっと私は気づかない。きっと誰も気づかない。外界へ表出する態度と、内界を表現したブログの印象が共通しているとは限らない。私達は、黙っているだけでは永遠に交わることのない交差点をただすれ違っていく、どこまでも続く平行線。
 肉体に閉じ込められていては、魂に自由はない。


 パタンと本を閉じた。残り半分を一気に読み切ってしまった。沈み込んだソファから立ち上がりコーヒーを淹れる。湯気と香りが深い思索に誘う。
 巧妙な叙述トリック、男女の恋愛ものだと思い込んでいた。伏線を一つずつ振り返ると矛盾はない。文字情報だけでは判断できない部分をうまく誤魔化して、想像力をミスリードして読み手に補完させる手法。見事に騙された。これだから読書はおもしろい。
 肉体や外界、とりわけ視覚情報というのは絶大な力がある。仮に挿絵の一つでも入っていればこのトリックは破綻する。映像化は難しい作品だろう。
 人は視覚から知覚できることに引っ張られずに物事を判断できるだろうか。人を見た目で判断するなという標語は、結局のところ人は見た目で判断する傾向にあるからだ。そして、頑張って内面を見ようと努めているとこんな言葉を聞かされる。それは“盲目”だと。では内面しか見なければ、見えなければどうなるのだろう。



 読後の余韻に浸り終えたところで、寝支度をして寝室へ。三つ並んだベッドのひとつ、蹴飛ばされた布団を子供にかけなおし頭をひと撫ですると、じっとりと汗をかいていたので布団はお腹にかけるだけにしておいた。同じように彼女の頭を撫でる。彼女らに私に撫でられる役割なんてない。私に撫でる機能を求めてもいないだろう。
 たちこめる熱気と静かに響く寝息と穏やかな寝顔と優しく鼻をくすぐるシャンプーの香りと、ただそこにいるという存在感。
 それらが私に愛を感じさせる。

 ベッドに横たわり一日を振り返る。電車で見た雑誌の吊り広告を思い出した。
『いよいよマスク解除!今のうちに見直し口元メイク術!〜マスクを被った姫たちよ十二時の鐘が鳴る日は近い〜』
 センスがない。いや、ハイレベル過ぎて私には理解出来ないだけかもしれない。
 灰被り娘は、もともと美しいがそれを披露する機会を奪われていただけだ。マスク美人と揶揄されているようなのとはちょっと状況が違うだろう。誰もが皆美しいはずだ、と言っているのならこのコピーも肯けるが、その真意までは分からない。実際に、今更マスクを外せないという声も聞く。マスクの下に自信がなく恥ずかしいという理由らしい。
 五感で知覚した情報から身勝手に期待して現実を知ってその差に落胆する事、逆の立場で落胆されたと思い込む事、それらはいつだって自分自身の心の問題だ。そこに相手は関係ない。そんな頼りなく疑心暗鬼になってしまう世界を見なくてはいけないなら、いっそのこと光が無くなればいいとさえ思う。

 美しくなくていい、同じでなくていい、似ていなくてもいい、ただその魂に繋がりたい。ただその魂に繋がれたい。その魂と共振したい。私の肉体を維持してくれている彼女と、私の魂を震わす存在と。そこへ向けるこの感情に優劣はあるのだろうか。
 運命の人。肉体と魂とが、あるいは全ての機能や役割を互いに満たし合える存在がいるのだろうか。それを確かめていく過程で、やっぱり違うと思うことはないだろうか、他に運命の人候補があらわれないのだろうか。その存在に気づいても見て見ぬフリをしなくてはいけないのだろうか。そこに誠実さは宿るだろうか。そこに抱いてしまった疑念にマスクをつけて本心を隠していかなくてはいけないのか。
 

 私の鐘はもう半年前に鳴っている。


 スマホを操作し寝る前の日課。これは役割なんかじゃなくて私の本心からの行動だ。
 今日は手料理の紹介をしているようで手順と写真が載っている。栄養バランスまでは分からないが、美味しそうだと思える。食べてみたいと思える。それだけで十分だ。
 この世界は砂漠だ。人それぞれの意思がこもった石ころは、風に曝されぶつかり合い角が取れてやがて小さな砂粒になる。その砂粒が集まって構成されている世界。パッと見どれも同じに見えて、なんの違いもなくて、違いがあってもほんの僅かだ。そこで他の砂に埋もれてしまって全く見えなくなっていたとしも、私の目が砂嵐にやられてしまっても、その中に魂の輝きを感じられる一粒がある。その存在を信じている。

 私はつぶやく。
 その輝きへと真っ直ぐ伸びる私の矢印の先端が、ブルーライトの向こうにぶっ刺さればいいのに。

「その粒があなただよって」

(了)

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