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恋愛やら性愛やら トキメキとは

月に一度程度、多様な人が集まる場所へ赴き、名も知らぬ人たちと会話をするという社会勉強をしている。その中で、先日とても大きな発見、というよりぼんやりしていたものが自分の中で少し繋がった出来事があった。

その日は性的なことも含めた愛だの何だのをカジュアルに話そうという集まりだった。




私の恋愛観やら性愛などを含めた価値観のお話です。
「こういう人間もいるんだー、ふーん」くらいの気持ちで読んでいただければと思います。

ただし今回の記事は、性的な内容やジェンダーについての話が多分に含まれていて、配慮のある書き方はしないし、言葉の意味についても割愛しますので、読まれる際はご注意お願いします。

というか、性的なものに1ミリでも嫌悪感がわきそうなら読まないで下さい。年齢制限が入りそうな内容ではないのですが……真面目に書くと避けては通れない表現というのもありまして、変な風に思われると私のなけなしの自尊心にクリティカルダメージが入るかもしれないので……と、これくらい前置けば大丈夫かな。


理屈っぽい部分もあるし、だらだらと長いので時間があるときにでも。

また、マガジン内に関連するものを随時投稿して行きます。投稿順に読んだほうが分かりやすいとは思いますが、お好みでどうぞ。







以下、ノンフィクション風に書きますが、私自身のこと以外はフィクションも織り交ぜつつ展開していきます。まあ全部虚構と思うくらいで丁度いいかもしれません。




その日、アロマンティックを自称する女性と会話ができた。

(性嫌悪っぽい人も含めた)アセクシャルの人とはぼちぼち会うし、イメージもしやすい。が、アロマンティックというのは、正直私には理解しがたい存在であった。

(ちなみに、私はジェンダーなんかの話題は好きな部類だけど能動的に調べるというほどのものではなくて、基本的な知識だけ仕入れて後は自己流の解釈をしていますし、ネット上にある誰かのジェンダー論やら感想などは見ません。noteの記事はおすすめに出たりしたら読みますが)


さらに興味深いことに彼女は、性交渉を含めた性的な関心は人より強いということだった。関心だけで終わらず、副業で性風俗店にも務めているし、男性向けの性的コンテンツも女性向けの性的コンテンツも二次元も含めて幅広く興味の範囲だということだ。

アセクシャルかつアロマンティックというのであれば、単純に人に興味がないというようなスキゾイド等の可能性は観念出来る。が、彼女はシスジェンダーでヘテロセクシュアルで性的なことに関心が強い。そして、今の一番の悩みは結婚したいのに、相応しい相手がいないということらしく、私は新種を発見した動物学者が感じるところであろう好奇心、興奮を覚えた。


アロマンティックでも結婚したい。その理由は、家庭を持つことで心と経済的な安定が欲しい事と子供が欲しいということだった。理想はお見合い結婚をしたいそうだ。

恋愛要素を忌避する傾向にあるアロマンティックなのだから、本心からの恋愛結婚などできるわけがない(と、思う)。しかし、世間は恋愛ありきな風潮であり、それが非常に面倒くさいと話していた。

性風俗店に勤めていて、性交渉の相手は誰でも構わないと言っていた彼女であるが、結婚するとなればそういうことは絶対にしないようにする。代わりに、結婚相手には満たしてもらう必要があるので、結婚相手に求める条件は体の相性が合うことと彼女に恋愛感情を持たないこと。なおかつ、彼女からの恋愛感情を求めないこと。ということになるそうだ。なるほど、確かにハードルが高い気もする。

この恋愛感情とは具体的に何か。残念なことにそこは話を深めることが出来なかった。だが彼女は、性的な対象として見られなくては困るという点から、女性扱いをされるのが嫌という感覚ではないし、そもそも彼女が恋愛感情を相手に向けないことから蛙化現象というような代物でもないらしい(彼女がリスロマンティックである可能性は提示しなかった)。また、恋愛感情を向けられることで、「彼女」とか「妻」とかの役割を押し付けられることを厭うのかと思えば、そうでもないらしい。子供が欲しいわけだし、それもそうか。
(話していた感触では彼女は合理的判断も得意なように見受けられた。目的達成(=結婚)のためなら、自分を多少偽ったりガマンが出てくることもやむを得ないという覚悟は持っていたように見えた。しかし、それでもなお相応しい相手というのはマッチングアプリにも結婚相談所にも転がっていないそうだ。女性としての肉体を持つ彼女を指名する客は多いそうだが、内面までを含めた彼女そのものを指名する人は現れるのだろうか)

彼女は人のことを好き(人として好きと言い換えられる)になるという感覚はあるそうだが、それが恋愛感情というようなものではないとのことだ。(それを恋愛感情ではないと断定することは不可能ではないか?と思ったが口には出さなかった。やはり私にはアロマンティックがよくわからない)

また、人として好きになった相手から恋愛感情を向けられようものなら、「友達だと思っていた人から恋愛感情を向けられていて気持ち悪くなった」という、まあよく聞く“普通”の論理と同じものが働いて、ガッカリするらしい。

これは私の推測だが、性的な要素について誰に対してもオープンで、ある意味公平な態度をとっている彼女にとって、そういう性的な要素をゴール(のひとつ)として置かれる意味合いのある恋愛感情を向けられるというのが落胆する原因ではないだろうか。例えるなら、高度な数学の会話をしていた人が、急に九九の暗唱を披露してきたようなコレジャナイ感とでも言おうか。これならまあ理解できる。


とても興味深い人であったが、まあもう会うことはないだろう。最後に、他の人からの質問に対する彼女の名返答を引用(一部意訳)して彼女の話は終えることにする。

質問者「誰とでもできるって本当ですか、気持ち悪くないですか?(めちゃくちゃ意訳)」
彼女「たとえば、タクシーに乗る時に運転手が気持ち悪いかどうかとか、運行会社がどこかとか、いちいち考えますか? 目的地に着けばそれでいいのです。確かに乗り心地が悪い時もありますよ。でも、乗ってみなきゃ分からない」

素敵なパートナーが見つかりますように。


さて、何故私が彼女のことを長々と書いたかと言うと、彼女はある意味で私に似ていると思ったからだ。つまり、ここからが本題だ。

この手のちょっと変わった感覚を持っている人に共通する点に、「好き(愛)の分類がわからない(或いは世間一般とズレている)」と認識している人が多くいると私は考えている。そして、私もそのうちの一人だ。


私はアロマンティックではない。向けられる恋愛感情は享受するし、世間一般で言うところの恋愛によるドキドキやらトキメキやらを感じたい。が、私がこういう感情を覚えるのは、世間一般で言うところの恋愛だけではない。(ちなみに私が世間一般の恋愛と表現しているものを経験したのは、十数年前の高校時代の一度きりだ。これも必要になれば書くかもしれない。)

私はシスジェンダーでヘテロセクシュアルだ。恋愛対象は女性となる。だが、先述のドキドキやらトキメキは、相手の性別などに限定されない。デミロマンティックの可能性もあると思っているが、恋愛感情とそれ以外の好きとの区別がよくわからないので決めることは出来ない。まあ、そんなことはどうでもいい。
(私は分類されて誰かと同じ感覚を得て安心したいわけではない)

早い話が、私は男性相手にもトキメキを覚えることはあるし、小さな子供相手だっておっさんやおばあさんにだって同じ様に感じることはある。
(ちょっとイメージしにくいかもしれないので補足すると、クールとかセクシーとかインタレスティッドとか、割とゆるいものもこの内だ)

そこで感じた好意的な感情を恋愛対象であるかどうかなどで区別する必要がまったくないと思っている。そういった外部情報でカテゴライズされてしまうようなものではない(と、思いたい)。

ネカマという言葉がかつてあった。ネット上で女性のフリをしている男性を指す言葉だ。思うのだが、そのネカマに好意的な感情を抱き、トキメいたりをしたとして、後になって男だと分かった時にその感情が消失したり、無価値なものになるのだろうかと。私の場合はそうは思わない。たとえ姿などが見えなくても、その時に感じたものは確かなものであるはずだ。ここに怒りの感情を覚えたり騙されたと感じるならば、それは相手個人ではなく「女性である(という虚像)相手」に好意を抱いていただけだ。実体験として、昔ネットゲームをしていた時に知り合った人に私はドキドキしていた。その中身は恐らく今の私の年齢と同じくらいの男性だったわけだが、あのときの高揚感は覚えている。ゲーム内で待ち合わせて冒険に行くというデートを繰り返していたわけだ。

私がトキメいた男性と実際に恋愛関係になることはないだろう。それはそれ、これはこれだ。世間一般的にはこのトキメくことを恋愛感情ではなく「人として好き」と表現することが多いと思う。私にはこの「人として好き」と、私が誰にでも感じ得るトキメキとの違いがわからないのだ。もしこれらが同じモノだと定義されるならば、私には世間一般の恋愛感情というのは存在しないことになる。


「恋愛対象」かつ「人として好き」だから「恋愛感情」が湧くという論理が一般的なのだろう(私は嫌いだが)。
私は、「(その人個人を)人として好き」だから「恋愛感情となるような好意的な感情(私の言うトキメキ)」が湧いて、かつ「恋愛対象」だったなら「恋人」などの関係性に発展し得るという論理を持っている。

そして、アロマンティックの彼女もこの私と同じ論理を持っているはずとなる。

と、その前にこの2つの論理を図にしてみた。

こちらが一般的な恋愛感情(ピンクのもや)を示したもの


n=1(私) 恋愛感情はどこからだ?

この図も正確なものではないので、実はよく説明できない。なんとなく伝わればいいな、くらいのものなので解説は控える。


さて、アロマンティックの彼女の話だ。

「恋愛対象(≒性愛対象)は男性」かつ「人として好き(という感情は持っている)」けれども「恋愛感情」は湧かないので前者の論理(1枚目の図)は成立しない(と、思われる)。

一方、「人として好き(という感情は持っている)」だから「恋愛感情にはならないが好意的な感情」は湧いて、かつ「恋愛対象(≒性愛対象=男性)」だったなら(恋愛対象ラインは消失した上で親密ラインを越える相手が)「結婚相手」になり得るため、彼女の結婚したいという意思と論理が両立できる、気がする。

(一応、男性を生殖機能と性愛対象としてしか認識していないのであれば、前者の論理は成り立つのだが、結婚相手を選り好む態度が見受けられたので私はこのように感じた)

直接話しているうちは、この論理の共通項にたどり着くことができなかったので確認し合うことは出来なかったが、会話している時点で近いものを感じていた。

そして、もう一点似ているところがある。

彼女は性的(肉体的)な要素が好きだと語っていたが、恐らくであるがその価値を低く置いている(低いというよりかは手近かな)。だから、「人として好き」な相手との関係性の上で価値観の相違が発生するのだと思う。一般的には性的な要素の価値は高め(すぐには触れない事)に設定されるだろうから、どうしてもそのズレは大きくなるだろうし、相手が性的な要素に手を触れようとして、その前段階的に恋愛感情を向けてこようものなら、それを嫌がる彼女にとっては苦痛だろう。

この性的な要素の価値を低く置いているという点も私と似ている。より詳しく言うと、私は肉体関係にほぼほぼ価値を置いていないとなる。

彼女同様、私も誰とでも肉体関係は持てると考えている。だってどうでもいいから。極端に言えば、握手するのと大した差は無いと考えていると言ってもいい。あまり言うと頭おかしい人みたいに思われるかもしれないが、これは価値観の違いでしかない。

(ここも補足しておこう。今もこんな表現があるかは知らないが「恋のABC」的な言い方で、恋人同士のコミュニケーション行動において、その難易度を分けてどの段階まで到達したかを測る指標があった。内容は違うかもしれないが、手を繋いだとかキスしたとかそういうの。Cが難易度が高いというニュアンスだったと思う。が、私からすれば全て同列なのだ。もちろん、難易度という基準は理解出来るのだが、そんなものは二人の関係性においての問題であり、更に言えば個人の価値観の問題である。私は性的な行為をコミュニケーションの一手段としてしか捉えていないとも言えるのだ。映画を見る時に、アクション物にするかヒューマンドラマにするか、程度の認識であると言い換えてもいい)

さて、だからといって誰彼構わず、などというものでもなくむしろ逆で、その理由は面倒くさいからだ。相手とのその後の関係性の維持や構築が、精神的に。(この面倒くさいというのの詳細は、別記事で書こうと思うが、予定は未定。)
アロマンティックの彼女が性風俗に従事するのは、この面倒くさいを考えなくて済むからかもしれないとも思ったりもする。

ちなみに、私は性嫌悪を持っているわけではないし、性欲も湧く。性的なことによる快感――他のコミュニケーションでは得られない独特な事――も知っているし、その快感が肉体的な刺激によってのみ引き起こされるものでは無いことも知っている(むしろ精神的な繋がりというものにまで昇華できるなら、それは私の望むところでもある)。しかし、特段必要と考えてはいないということだ。相手が望んでいなければ無理にすることはない。逆に相手が強く望むのであれば断る理由もない(それに、相手の普段見せない一面を見ることが出来るという点はとても価値があるとも思っている。同時に一度見れば十分とも思っている)。こう思っているから、理屈の上では誰とでも出来るのだ。もちろん、これは私がトキメキを感じる相手に限るのだが、(2枚目の)図で示した通りその範囲は広い。また、愛情が深くならないと出来ないわけではないし、出来たからといって愛情が深いとも限らないのだ。


さてさて、ここまでをまとめると、
・私は老若男女関わらずトキメキを感じる
・それは恋愛感情になり得る
また性的な行為に関して、
・快感等のメリットが得られるのを知っている
・コミュニケーションの一つとして捉えているので、トキメキを感じる相手であれば恋愛対象であるかは無関係に性的関係をもてる

以上のことから、
私は恋愛関係になるのも性的な行為というのも、理屈の上では老若男女関わらず誰とでも(そこれそ握手するのと同じ様に)出来る人間であると自分自身を認識している。認識しているだけで、実際にはしない理由は、面倒くさかったり、相手が望んでいなかったり、単純に倫理的にアウトだったり、まあ色々だ。

(補足ばっかりになるが、肉体的な関係のみというのには価値を置いていないので、いわゆる性風俗でのその場だけのものとか、ナンパによるその日限りの関係だとかは、無価値だ。未経験ゆえにそう断ずる事は本来出来ないのだが、たぶんそう感じるだろう。そして仮に私がそういうことをしたならば、自分の論理を守るために、相手との関係性に価値を生み出そう(人として好きになろう)として過度に関わろうとする気がする。それも実に面倒くさい)


以上、珍しいアロマンティックの人と話して、以外な共通点を発見して自己理解が深まった(理解しきったわけではない)という話でした。


長々と書いてきたが、私がこの記事で言いたかったのは、私が愛せる人というのは幅広く存在していて、性的なことに関しても(実際にどうこうするかは別として)抵抗感はほぼ無い、ということ。

そうは言っても、誰もを愛せるというわけではないし、実際には差があるし、というか本当に愛している人なんているのだろうか。という問いかけを自分に投げかけるくらいには自分のことはよくわかっていない。

だから「全てを受け容れること」が愛だと捉えるようになったのかもしれない。この考えは、相手が誰かとか状況とかを考えずに、自分の身が保つ限りは誰でも愛することが出来るのだから。


誰かと同じでなくていい。これは分類されていないn=1の私の考え。


そうそう、20年以上前の曲に『愛されるより愛したい』なんてタイトルの曲があるが、この言葉はズバリ私の感覚と合致する。私は自己愛で満ちていて他の人からの愛なんて無くても構わないから、私が愛せる人達に恵まれたいだけなんだ。

歌う暇はなかったのでリンクだけ。


(余談だけど、この曲は青臭いガキンチョが私と同じような感情を抱いて青臭さ故に突き進みたい。という曲だと私は解釈している。でも、この曲(歌詞)良いよねって言っても誰にもこの部分が上手く伝わらないので話せたことはない。悲しいかな、すぐにアイドルかテーマソングになっていたドラマの話題に変わってしまうんだ)



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