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息のすえる場所『最強のふたり』

観た映画『最強のふたり』
2011年、フランス映画。

知り合いに勧められた作品。サブスクでの配信が間もなく終わってしまうということなので鑑賞。

アメリカでリメイクされるほどにヒットした作品とのこと。そこまでのヒット作品であればハズレはないだろうという気持ちで臨んだところ、少しガッカリした。

正確に言うと、刺激強めのアミューズにはじまりオードブル、そしてメインからデザートまで完璧だったフルコースの最後に出てくる余韻を楽しむべきカフェの中に、これでどうだと言わんばかりに仕込まれた隠し味が全面に出てきてしまい、それまでの味わい深さを全て台無しにしてしまったような感覚。後味の悪さと不快感が口の中に残ってしまった。
(そしてそれに気付いているのか、気付いていないのか、気づいていないフリをしているのか、いずれにせよこれを絶賛しないといけないような大衆の評価にも私は胸焼けしてしまうのだ。まあ、感想は人それぞれでいいのだけれど。)


以下、ネタバレを多分に含みつつ感想を書いてみる。


はじめに

洋画を鑑賞する際に、原題を意識する人はどれくらいいるのだろうか。本作品の原題は『Intouchables』フランス語で触れ合わない、触れてはいけない、といった意味合いらしい。英語のUntouchableに近いというのは分かるけれども、微妙な意味合いの違いが在る気がする。わからないけど。

さて、邦題は『最強のふたり』である。この言葉にどんな印象を持って鑑賞を始めるのだろうか。ふたりが主人公……なのは間違いないが、必要以上にそういう目線になり過ぎる気がして、個人的にはこの邦題は少しまずい。英語のUntouchableに、触れられないほど強い=最強という意味合いがあるのは知っているし言いたいことも分かるけれども。邦題自体は映像作品の評価とは関係ないところではあるけれど、この文章を書いている今はとても残念に思うのだ。なにせ、映像作品としてはとても良くできていて面白いと感じたのだから。そう、映像作品としては。


簡単な感想

私は映画評論家でもないし、そんなに多くの作品を観てきたわけでもない。しかしそれでもこの作品の雰囲気やテンポの良さ、登場人物たちの心情を音楽や演技、随所で見られるジョーク(の応酬はフランス語が分からないのを悔やむほど小気味よい)などで、細部にまで表現が行き届いている気がするし、主人公格のふたりの飾らない正直な態度というのは見ていて気持ちよかった。終わり方も意外性はないがキレイな終わり方で実に良く、美しい物語で幕を下ろした。はずだった……

さて、ここから酷評。


実話に基づいた話と明かす必要性とは

作品において元ネタがあったり実話があるのは構わない。そこからどういう風に作品に落とし込んだかは創り手の手腕だろう。ところが視聴者からすればこれは割りとどうでもよくて、大事なのは創り上げた作品の完成度だと思っている。そして繰り返すがこの作品の中身はとても良い出来だった。


でもこれは、批判を恐れず言うならば感動ポルノにほど近い。実話に基づいたと明かしてしまうことで自らそれに貶めたのだ。仮に完全なフィクションであれば、あるいは実話であることを作品の中では伏せていたならばこう思うことはなかったはずだ。

この映画を、介護とか障害者とかそういう一面でのみ捉えた感想を持つ人もいるかもしれない。それも一つの要素であるけれど本質ではない。あとは、立場も身分も違う者同士の友情物語と考える人も多いだろう。それも間違いではないけれどそれだけではない。と、思いたいのに。


実話であると作中で明かすこと。この、フィクションよりもドラマティックな実話なんですよ!という感動の押し売り感である。ところが売りつけられた側は、映像作品としての良さに絆されてその実話の背景にまで考えが及ばないのだろう。

フィリップがドリスと出会えたのは偶然だろうか。

フィリップは財力があったからドリスと出会えたのだ。仮にこのふたりの立場が逆転し(貧乏人障害者、金持ち健常者になっ)ていたら感動的な物語は生まれないし、育まれる友情などないだろう。出会うことは絶対にない。このスタートラインの格差である。それも生半可な金持ちではダメでフィリップのような大富豪だったからこそ成し得た。映画でもフィリップの介護志望者を面接するシーンがあるし、ドリスでさえも最初はフィリップの余興込みの試用期間がある。言わばフィリップが金に物を言わせて“手足”を選り好んで買っているという状況だ。

こういった“前提”が、実話というのをベースにすると見えてきてしまうのだ、想像してしまうのだ。完全なフィクションであれば、そういう背景は見なくていい。ふたりの友情やその他の描きたいことを表現するために背景は不要だからだ。フィクションらしく、ドラマティックな出会い、ドラマティックな展開、そして誰もが感動する物語に仕立てて構わない。ところが、実話であるからこそ、そしてエンドロール前に実話であることを強調してくるからこそ、この吐き気を伴うような“前提”を味わわされたのだ。

仮に、実話であったからこそ感動的だ、なんて言う人がいれば、それこそ正しく映画として評価できていないような気もするし、そういう意識があるということは、その人の中には差別意識的なものが内在しているのではないかとも思ってしまう(そして不幸なことにきっとそれを自覚していない。それが悪いことではないが、個人的には歓迎しない)。

実話であったことを明かす必要性、それはこの感動ポルノに嵌ってしまう人を意図したからだろうか。あるいは、実話の本人たちからの映画制作条件だったのかもしれない。いずれにせよ、冒頭の実話であることを字幕に出したことと、エンドロール前の実話の本人等の映像はこの映像作品を確実に貶めたと私は思う。これさえなければ芸術という意味での作品完成度は高かったと思う。ただまあ、商業的な観点からすればこの雑味は大成功と言えるのだろう。それでも私は、作中において人生に諦念を抱いているフィリップに「芸術だけが(後世に)残せる」という言葉を言わせるのならば、制作に携わった方々にこの素晴らしい作品にも最後までこだわって欲しかったなと思ってしまうのだ。

以上、酷評終わり。


余談。邦題をつけるのならば

実話云々はきっと脚本やら演出やらその他大人の事情なんかで、制作スタッフとは関係ないところで決まっていたのかもしれないし、邦題にまで関与できるはずもないだろうから、やはり映像作品としてはとても良い出来だったという評価だ。なにせこんな記事を書きたくなるくらいだし。

では、どんな邦題なら私は満足したのだろうか。

ここで原題に立ち返って、再度この映画の魅力を伝えたい。

原題は『Intouchables』フランス語で、触れ合わない、触れてはいけない。

真っ先に思い浮かぶのはやはりふたりのことだ。奇跡的に出会った、普通なら絶対に触れ合わないふたり(の価値観、世界)が触れ合うことで化学反応を起こしていく様は、痛快であり感動的であり多くの人の胸を突いたことだろう(から、邦題はこのふたりを強調したものにしたのだとは思う)。

しかし、触れ合わない(価値観・世界)はもっとたくさん作中に表現されていることを忘れてはならない。私は原題を知らずに映画を見ていたが、全体を通して数多く盛り込まれたその要素に気づかないでいられるわけもなく、大いに関心しながら見ていたわけである。

事細かに説明するのは野暮な気もするが、私が気づいたもので思い出せるものだけでも列挙してみようと思う。

・人種(黒人、白人)
・貧富(スラム育ち、大富豪)
・身体(健常者、障害者)
・恋愛(熟年、非実在)
・愛情(家族愛、同性愛)
・家族(“しつけ”)
・血縁(孤児、遠い親戚)
・文通相手
・知識やセンス(絵画、音楽、ジョーク)
・ポリシーや意識(遵法、就業)
・過去(の克服) (パラグライダー)

これら多くの本来なら触れ合わなかった(触れ合うのにバリアがある)ものが、ふたりの関係が進展いくにつれて触れ合っていく、しかも展開に無理がなくごく自然に繋がっているから秀逸だし、伏線というほどでもない程度の演出が物語の進行に影響をあたえずちょうどよかった。まるでふたりを中心にしたパズルの、バラバラだった多くのピースがふたりの言動によって次々に埋まっていくような感覚でとても心地よかった。原題の『Intouchables』が本当にぴったりだと思った。

さて、そんな素晴らしいタイトルが既についている映画にわざわざ邦題をつけるというのは本当に難しい。『最強のふたり』はふたりにフォーカスしすぎていて視野狭窄を起こしそうだし、最強と意味を限定してしまっていて原題の絶妙なニュアンスを省いてしまっている気がして私は好きではないのである。そういうわけで、もし私が敢えて邦題をつけるならば……それは本記事のタイトルである。


誰にでもきっとある『息のすえる場所』

作中でもフィリップは息ができない症状に苛まれる。この時はドリスに連れ出され、息のすえる場所でようやく呼吸できたのだ。そして、ドリスと距離を置いた後に再発する描写もあった。

フィリップにとって介護者というのは、生命維持装置に他ならない。介護者なしではフィリップは生きられない。物理的に息を吸えないのと同義なのだ。でもフィリップが求めていのは維持装置から送られる無機質な酸素ではなく、息なのだ。ドリスと出会ってそれに気づいたフィリップは酸素供給機能としての生命維持装置から解放されたいと思っただろう。友人としてのドリスと接したいと思っただろう。そして一緒の空気を吸いたいと思っただろう。その思いが、障害者となった原因のパラグライダーに行くことを決意させ、フィリップにとって大きなキッカケにもなったのだと思う。山頂から滑空しながら行う呼吸は、上空の薄い空気の中でも満足いくものだったに違いない。そして、ドリスと離れた後でもフィリップは、変わらず息のすえる場所に居るのだ。


最後に

総評としては、フィクションとドキュメンタリーで完全に切り離して作ったほうが良かったのでは、という感覚。映像作品としての評価は述べてきた通りであるし、映画よりもドラマティックな実話もそれ自体は感動的であって、実話の二人のその関係性というのは羨ましい限りだ。

とはいえ、混ぜたことによって知見を深めた視聴者も多いだろうから一概に悪いとは言えないし、ここまでヒットしなければ私が観てみることもなかっただろうし……なるほど、これもIntouchablesということだろう。

フランス映画のフルコース、少し酸味が残ったけれど十分に堪能できた。

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