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何を言ったかじゃなくて誰が言ったか

結局のところ、この世はそういうことなのである。

例えば、あなたがフォロワー数千人いる影響力の強い人だったとする。記事を投稿すればすぐに100以上のスキがつく人気モノとする。何を思ったか、あなたは突然アカウントを消して作り直した。前のアカウントで投稿しようとした記事を、新しいアカウントで投稿してみたところ、反応は僅かだった。記事の内容も文体も同じ様にしても、だ。極端に言えば、過去のアカウントで人気だった記事をまるまる投稿しなおしても、結果は同じだろう。

これはなぜか。内容よりも、その外側が優先されるからである。そして、その外側の価値を判断する指標の一つがスキやフォロワーなどの数だ。これに異論はないだろう。言い換えれば、良い内容を見てもらうには良い外側に仕立てるのが手っ取り早いということになる。(良い外側に惹かれたものが、良い内容を理解できるかはまた別問題ではあるが。)

さて、この考えを進展させると以下のようになる。

今日こんにち、名作や名著と呼ばれるもの、あるいは理論や科学などでもよいのだが、それらは過去の人間達が生み出し評価し伝承し続けたその事実が、その価値を認めていることとなる。しかし、それらを発見して世に広めたものが発案者や第一発見者であったと言えるだろうか。

つまり、明日出版される人気作家の本も、来週テレビで流れるアーティストの新曲も、過去において誰かがすでに同じような作品を創作していた可能性というのは在るのではないか。ということである。しかし、これらは出版などの形式を経なければそれを認められることはない。とはいえ、すでにそこに存在したことは、これを完全に否定することは出来ない。

このように考えれば、我々が想定する出来事や創作物というのは、すでに誰かが完成させた、あるいは完成させられなかったが脳内にはあったものを再度形にしているに過ぎないのではないか、より理解しやすい形で表現しただけではないか、ということだ。ある意味で、創作物のその全ては共有財産なのだ。人類が発展していく過程で、誰かが、いや誰もが思いついたものを、影響力の強いものが発表したに過ぎないのではないか、ということである。そして、その発表者になることに焦がれるのであれば、それはやはり良い外側を身にまとうのが合理的であると言えよう。


仮に、真に「誰が言ったかではなく何を言ったか」に価値があるとするならば、何を言ったかにだけスキを与えるならば、完全匿名による作品だけをひたすらに投稿するソーシャルプラットフォームが存在してしかるべきだ。当然、著作権などは発生しないものでなくてはならないので、その場では模倣が横行する。しかし、それで良い。価値の在るものを真似ていき、本当に価値のあるものだけが残っていく。

一つ問題があるとすれば、「誰が言ったか」の代わりに「皆が言うから」へと、価値の指標がすり替えられるだけにもなり得るということだが、「皆が」というのを個人の集合と捉えれば、そこには一定の真実味が帯びるので、ひとまずはそのままにしておいてよいだろう。もしそれでも異を唱えるならば、その異を価値のあるものと評価せしめればよい。

ここまで連ねてきたこの私の思考も、きっと――いや必ず誰かの模倣であり、そしていつか、誰かが私を模倣する。(その誰かは私の模倣であるとは露ほども思わないし、それでいい。)

あぁ、しかし、それを望むこと。つまり、この内容を理解されたいという思いすらも、突き詰めれば良い外側を求めることに他ならない。良い内容は良い外側無くてはこの世に留めることができない。であるならば、良い外側とは紛れもなく良いものである。良い内容を持ち合わせたものが良い外側を手に入れれば、それは必ず価値のあるものだろう。


忘れてはならないことは、発信するものは良い内容であることは前提として、良い外側を仕立てるに苦心することが肝要であるということ。

そして、良い外側に惹かれるものは、その良い外側をみて、良い内容を、まことにそうであると判断する能力。つまり、見る能力こそが良い外側を価値のあるものへとするということを信じること。

したがって、私が求める良い外側とは、単純な数や数値ではなく、そこに内包される良い目をお持ちのあなたにおいて他にない。


要約

いつも私の記事を読んでくださり、またスキやフォローなどして頂きありがとうございます。
以上。

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