名前に意味は無くてもいいが
名前の由来。というnoteのお題がずっと前からある。
note上での私のこの名前について、小説仕立てで書こうと思っていたテーマだ。プロットを書いては削除を繰り返していた。まあ、そのうちでいいやと放ったらかしにしていた。「vantile」このアルファベット表記のハンドルネームは、読み方も分からないので不便だと思いながらも。
最近になって、きっかけになることがいくつも重なって、軽い気持ちでキーボードを叩いている。深く考えずにそのまま書くのが結局のところ一番いいのかもしれない。
「vantile」
この名前は造語だ。違う自分を描こうと思っていたので誰かと被ることなく(実際は被っている)、それでいて自分を表した名前にしようと思っていた。
「vant」
vantの部分は、ある楽曲のタイトルからもらっている。その曲の主人公である道化師の名前らしい。
私は相手によってどんな自分を見せるかという点を、仮面を付け替えて演じているように感じることがあって、そんな自分を道化師のようだと思っている。あるいは仮面そのものだと。
悪く言えば八方美人で、その根底には人に嫌われることを恐れているからこのような接し方をしているような気がしている。そのように振る舞うのが当たり前になりすぎていて自分のことがよく分からない事も多い。なんというか、相手にとっての理想像の詰め合わせでしかないような気もする(それ自体は不快ではない。むしろ傲慢だ。でもそんな自分の事自体は好きだ)。
本当は真実だけを映す鏡になりたかったり、自分がわからなすぎ問題に苛まれて自分と似た人を求めていたり、そういう不安定な部分も自覚しているけれど、この道化師が外側の世界と接する際に必要となる私の一部(ほとんど)だ。
でも、それだけじゃ上手くいかない。というよりも、仮面を付け替えている本体こそが私自身であるはずであり、仮面の下に、確かにそこに何かがいるはずなんだ。
「ile」
自分のことがよく分かっていない私だけれど、確かに私という存在はそこにいる。
私は 存在して いる
私は いる
I iru
イル
ile
と、こんな感じで縮まったのがこの部分。
こっちはどちらかというと内面世界の自分で、完璧主義で合理主義で自己中心的で自尊心と羞恥心を併せ持つ、外側にはあまり出てこないけど、私という存在を確立するのに大切な、絶対的で揺らがない価値観を持つ部分。
イメージは学校で習った人も多いであろうある文学作品の主人公の姿である虎。作品で描かれている人物像とは少し違うけれどイメージとしては近い。私が虎にならずに済んでいるのは道化師部分の自己のおかげだと思っている。
(そして人は誰しも心にこういう虎を飼っているのだと思う。それを自覚的な人に私は惹かれやすい)
※
私は、道化師と虎のこの二つのイメージで出来ている。上手いことバランスをとって生きているのだと思う。一人称を使い分けるほどハッキリと分担させているわけではないけれど、読む人が読めばその違いは分かるのかも知れない(“虎っぽさ”が強い時の文章は、確かに笑っているように感じるかもしれない。檻から出てのびのびとしているような感じなのかも)。
この二つのイメージを造語という形で名づけることにより、noteにいる私が存在している。これはある意味で、現実世界を生きる肉体に与えられた名前よりも――それはなんの意味もない名前であるから尚のこと――自分自身を的確に形容しているようなもので、愛着がわくのである。
あ、読み方を書いてなかった。
「バンタイル」と自分では読んでいます。「ヴァンティール」と読むのが普通(?)かもですが、語感の問題です。「ヴァ」の発音(ブゥア)が好きではないのです。
名前に意味は無くてもいいが、それでも私はこの大海原に確かにイルのだ。
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