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【短編小説】のこりもの

 俺が入社したのと同じ年に開業したこの店。気の合う同期達と一緒に何気なしに入ったのが始まりで、かれこれ20年の付き合いになる。この店の名物パスタを今まさに食べ終えたこの男とも、当然腐れ縁だ。

「遅い」
「すまん。急に会議がな」
「それはわかってるが。遅すぎてパスタ食べきったぞ。20年通い詰めて初めてだぞ」
 行儀悪くフォークを皿に打ち付ける桂は、あの当時と何一つ変わらない気がした。ただ、あの時は昼休憩が短いから食べ切れないと怒っていて、偉くなって変えてやると息巻いていた。数年前に休憩時間の延長を含めた就業規則が更新された。有言実行、大したやつだよお前は。

 席について、お冷で乾杯をする。いつもどおりの儀式みたいなもので、少し懐かしい感覚を味わった。俺たちがこの店に集まるのは久しぶりだ。お互いに出世する度に、必然的に会う頻度は落ちていったから。
「それで桂。今日は誰のどんな話を聞かせてくれるんだ? 引き抜きか、大損害か、横領か、セクハラか、パワハラか、残ってるメンツ的にどれでも面白そうだが」
「どれでもないよ。でも、お前にとってこれ以上ないほど良い話だ」
「それは楽しみだ」
 俺の前にパスタが置かれた。この店の名物パスタは、どんぶり型のドデカイ特注皿からはみ出すほどの超大盛のペペロンチーノ。俺と桂は、いつもこれを注文し、いつも食べきれなかった。時間がないからでも、腹がふくれるからでもない。話に夢中になってしまうからだ。会社や仕事のことについて語り合うのが楽しかった。
 ここでの会話はいつからだったか、身内の不祥事や異動の情報なんかの、主に俺たちの出世に関わるような話題になっていた。明るみに出せない情報はこういうところで交換していた。みんな野心家だったのだ。
 でも、最初に六人だったこの集まりも、もう俺たち二人だけ。残りはみんな食べきれないパスタと一緒にテーブルに上って、そして消えていった。

「元気そうで良かったよ」
「代謝が落ちて太る一方さ」
「俺も今日は晩飯いらないわ」

 桂は、人の目をじっと見つめて話す。まっすぐ向けられた眼差しを前にすると不思議と正直な気持ちになる。取り繕ったり、よく見せようなんて思っているのが馬鹿みたいに感じるほど、まっすぐに。そんな魅力が桂にはある。こいつが上司なら、さぞ仕事もやりやすいだろうなと思ってしまうほどだ。

 水を一口飲み、それで、と桂を促した。
 俯きざまに桂が口を開く。
「俺な、仕事やめようと思うんだわ」
「えっ」
 我が耳を疑うとはこういう事だと思った。
「子供が、小学校に通えるようになるかもしれないんだ」
 違う。そんな話が聞きたいんじゃない。と、思う心にベールを着せて平静を装う。
「その……お子さん、普通校に通えるって意味だよな?」
 桂の子供は先天的な病気で生まれつき身体が弱いと聞いていた。年齢的に厳しいと諦めかけていたところに授かった子供を溺愛しているのも知っていた。
「そう。医者には難しいって言われてたんだけど、今……がんばってる。椅子に座る練習して、歩く練習して、すぐこけそうになるくせに、大丈夫って言うんだぜ。……それでな、俺ももっとサポートしてやりたいと思ったんだ。何が出来るかなんて何も考えてないんだけどさ……今の仕事だと何かと厳しいだろ……」
 桂は俯いたまま、空になったグラスだけを見つめていた。



 俺は話を聞きながら、大盛りパスタをフォークでグチャグチャとかき回していた。行儀が悪いのは俺の方だ。
 初めてだったんだ。こんなに長く一緒にいて、こんな、こんな桂を見るのは。
「寂しくなるな」
「あぁ、そうだな」
 嘘だった。寂しいなんてこれっぽっちも思っていないんだ。これは、この感覚は……


 俺も桂も仕事仕事仕事、入社以来仕事一筋でやってきた。時には仲間で時にはライバルで、今でもそれは同じだ。なのに、どうにもならない理由でそれを捨てようとしている。こいつは、捨てようとしているんだ。捨てることが出来てしまうんだ。

 違う。わかってるよ。わかってる。寂しくなんてない。俺はただ……



「なあ……後のこと頼むぜ」


 こっち見んなよ。そんな目で。


「……あぁ、任せてくれ」
 俺は目を閉じてからこう答えた。


 桂は、目を閉じたままの俺の肩をポンと叩き、先に行くと言って店を出た。
 ゆっくり目を開き、霞んだ視界のその先に桂の空っぽになった皿が見えた。その底には、掠れた文字で「完食ありがとう」と書いてあった。

 俺はパスタを食べ残して、ひとり会社へ向かった。


(完)




朗読しました。興味があればこちらもどうぞ。
文字で読むのと感じ方が変われば幸いです。




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