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【映画感想文】『流浪の月』の裏側〜たった一言で〜

映画『流浪の月』感想文の裏側です。月の裏側で行われる批判や批評を覗きたくなければご遠慮ください。

当たり障りのない表側はコチラ。表側に書いた内容を前提にしている部分もあります。




おことわり

基本的には映画の話です。書きなぐるので言葉は選びません。気持ちのよい内容でもありません。この著者の作品は本作を含め一切読んだことがありません(本作を読むつもりはありませんが、他の作品は読むかも知れません)。この映画監督の作品も初めてみました。原作が悪いのか、映画化が失敗なのかは分かりませんが、少なくともこの監督の作品はもう見ようと思わないでしょう、良い部分もあれどそれ以上に、ひどい。

基本、怒りと悲しみと落胆で文章を書いたので、語調もバラバラで読みにくい所も多いと思いますがご容赦を。

はじめます。
ほんとうに色んな意味で残念な作品でした。



話の流れとしては良い展開だったと思います。周りの目と本人たちしか知り得ないものの絶望的なまでな断絶。どうあがいても繋がらないその溝に苦しむ姿は応援したくもなります。また、それに翻弄された愛、いや翻弄されるしかない愛とよく似た感情も文と更紗と亮と谷(文の彼女)のそれぞれの立場で(映画の内容だけで理解できるほど)描かれていて、その対比効果が作品の深みだと思いました。


『ストックホルム症候群』が引き起こされていると思っている世間の目線に苛まれる更紗。
更紗「亮が思うほど私は可哀想な子じゃないよ?」

『ロリコン』という、事実でない目線に世間にも更紗にも反論しない文。
(幼)更紗「ロリコンって生きづらい?」
文「誰しも何らかの理由で生きづらさは感じているものだよ」

『(母親に捨てられた)トラウマ』に苛まれている亮が、また捨てられることを恐れて『逃げ場のない可哀想な女性(像)』だけを求めること。自分のみたいようにしか見ないこと。
亮「(今戻ってくるなら自分を捨てたことを)許すから……」

『自分に付随する彼氏』(一般的な感覚の恋人)として文を捉えていた谷。
谷「そんな人(ロリコンの文)を好きになっていた自分が恥ずかしい」


文と更紗のことを世間はよく知っているように扱うが、本当のことは何も知らない。本当のことは当事者の二人にしか分からない、だからそんな目(偏見)で見ないで、(月の満ち欠けのように、見えているものとその本当の姿というのは同じではない)というテーマがメインにあったのだと思う。

過去を知っていて、(表向きは)それで構わないと言って近づく亮と、過去を知らないがゆえに普通に文に接する谷。そして、性愛に関しても映画冒頭から気持ちの悪い(更紗の性嫌悪を視聴者にも共感させる演出としては最大の褒め言葉です。)絡みシーンや事あるごとに男女を強要する亮と、求めても応じてくれないことにやきもきする谷という表現を用いるなど、サブパートナーの立ち位置の違いもはっきりと示してくれて、誘拐犯と被害者という見方やそこから派生する思考の流れなど、とても良い味になっている。

さて、肝心の文と更紗だが、映画だと描写が少なすぎてなんとも言えないのだけれど(というかどれくらいの期間一緒にいたかも映画だけだと分からなかった)、たったそれだけで15年間思い続けられるというのが既にファンタジーの域。もちろん、そういう可能性もあるだろうからこれ自体を批判することはないけれど、果たしてその思いというのは何なのだろうか、という感想。

更紗はまだ分かる。更紗はずっと、自分のせいで文が逮捕されることになった、人生をダメにしたと思い込んでいるのでその負い目が情として残り続けるのも分かるし、たとえ一時でも地獄のような現実から解放された思い出に縋るのも分かる。しかし、15年前の文の思いは一切分からない。そもそも誘拐の動機が語られていない。素性の知らない更紗を連れ出す理由のうち最も納得できるのが、文が更紗に文自身を重ねて助けてあげたかったというもので、そうであるならばそれは更紗への愛情などではない。仮に、誘拐後のふれあいによって愛情が芽生えたというのなら筋は通るが、それは都合よく歪んだ文自身の目線でしかなく、とても幼稚に見える。と、このように私は感じたので、誘拐にはもっと深い理由があるのかもしれないと思ったし、理由が無いなら無い、あるいは語られないならそれで構わないとしても、この時点で不足している“物語として表現されるはずの愛情の育み”などの描写が今後あるのだと思ったし、そうであって欲しいなと思いながら鑑賞していた。


そしてカフェでの再会を果たす二人。再会後の言動が意味不明なのは更紗の方になる。(更紗が精神的に子供のままだという結論にしかならない。別に子供であることが悪いわけではないが。)

文が更紗だと気づいた後も無視していたのは理解できる。更紗が15年前のことを今現在どのように考えているかは不明であるから、怖くて声なんてかけられるわけがない(大切にしたいと考えていた谷にすら事件のことは言えないのだから当然だ)。

ところが、更紗である。
足繁くカフェに通う。亮という恐怖の存在から15年前のように救って欲しいという思いでカフェまで行くも、谷と肩を並べる文を目撃して目的は達成できないと理解したのに思わず声をかけてしまう(そして文には無視される)、それだけでは飽き足らず自宅までストーキングする。谷と連れ立って家に入ったのを確認して「大人の人を好きになれてよかったね」とのたまう。これは愛では無いよなー。

ここの大事なポイントは2つあって、一つは、更紗も文のことを理解しているつもりで全く理解していなくて、更紗が見たいようにしか見ていないということ。自分のせいで文はダメになったのだから、文の今後に責任がある(謝らなくてはいけない)と思い違いをして、悲劇のヒロイン的な自己陶酔に陥っているのだ。そしてもう一つは、更紗が15年前に文から向けられていた愛情のようなものは『ロリコン』に起因すると感じていたということ。ロリコンの対象から外れた自分は相手にされないのは無理もないし、ロリコンじゃなくなったのなら隣にいるのは自分以外の人でも問題ないと気づいたこと。つまり15年前にお互いに愛情があったとしてもそれはもう終わっているのだと更紗自身は理解出来ていたはずで、そこで口をついたのが「よかったね」なんだと私は理解した。ここで身を引ければ愛の片鱗があったと思えた。

のーにーーーー!

亮に暴行された後に、文に会いに行ってしまう更紗でした。

まあ、頼れる人が居ないという描写(亮のことやリカの母との会話など)は何度もしてきているので、そこで文を頼ってしまう気持ちは分かります。でも、この時点で文と谷の関係性などを知る由もない更紗が、谷の存在が文の救いとなっていると感じていて然るべきの更紗が、文のもとへと行ってしまう。その精神性が幼稚で子供のままなんだろうなという感想。この流れを愛とは私は呼ばないです。

顔面を殴られた更紗が現れて、さすがに無視することはできなかった文(知人が暴行されてボロボロでやってきたら誰だって声かけますよね)。ああ、ここでようやくリスタートか。入り方は乱暴だけど、やっと15年前に止まった時間がここから動き出すんだな、とそう思いました。そして、ここまできてようやく愛と呼べそうなものが育まれていく予感に少し安堵しました。


更紗が文のアパートの隣室に住み、自分の幸せしか眼中にない同僚からリカを押し付けられたり、亮の嫌がらせを受けたりアパートに押しかけてきたりの事件をこなします。

そうそう、亮が「なんであいつ(文)なんだよ」というような言葉を言っていました。これは、亮の目線では誘拐という『相手を従わせる有形力』を行使した文と、『逃げ場を塞いだり暴力という有形力』を行使した亮自身とで、一体何が違うんだ、という思いがあったのだと思われます。亮も亮で、可哀想な男だと思いますが、去り際は嫌いじゃないんですよね。

亮は、自傷行為をして更紗にその姿を晒して助けてもらって、最後には「もういい、もういいから」といって更紗の手を突き放します。更紗の手が救いの手にはならないと自覚した瞬間です。結局この男は、更紗に救いの手を差し伸べたつもりで自分自身を救いたかっただけで、それが叶わない事を知って手放しました。自傷行為に走ったのは、最後に更紗がどう行動するのかを試したかったのかも知れません。だから、救急車を呼んで対応してくれた時点で亮としては納得の行く終わり方だったと思います。

さて、この亮の『自傷行為をさらけ出して相手の感情に訴える』というやり方、言い換えるなら『こんなボクを放っておいていいのかい』的なメンヘラっぽい手法は、使い方を間違えると白けるポイントになります。よく覚えていて下さい。


リカはいいですね。この作品で唯一正しい目線を持っています。

リカ「ロリコンってどういう意味?」
文「小さい子しか好きになれない人のことだよ」
リカ「なら文くんは違うね。だって更紗ちゃんのことが好きでしょ」

このシーンのためだけに存在したといってもいいくらいです。このやり取りだけで、文が実はロリコンじゃないということが(視聴者には)分かります。リカに言葉にさせることで、15年前から続く文の更紗に対する思いがロリコンから起因したものではなく、(おそらく谷への思いとは違う、)更紗だから好きになった、というものへと昇華しました。これです、私が求めていたのはこの部分です。リカちゃん、ありがとう。

その後の、谷との別れシーンで更にこの印象が強くなります。

谷「(自分がロリコンだと)分かっていて私と付き合ったの?」
文「そうだよ、(少女じゃなくても出来るか)試してみたんだ」

という、大切にしたい谷を傷つけないための文の優しい嘘のシーンで、ロリコンでないことは確定的です。

谷さんは、文の過去を知って離れていきます。では、文のことをちゃんと知ったら更紗は離れていくか、という対比が生まれるのは想定の範囲内でした。

が!

ここまで築き上げてきたものを全て台無しにしたのが文が全裸になったラストシーン。

文「この病気のせいで、誰にも繋がれない」


たった一言で全てが破綻しました。

私、映像作品を見る時って、巻き戻したりしないんです基本的に。とおしで流してみたいので。でも、思わず3回、音量MAXで見返しました。あまりにも意味不明で私の脳みそが追いつかなかったので。で、理解して怒り心頭です。


このタイミングで、この状況で、この心境で、その言葉はありえない。物語の読解力のない人間(視聴者)に合わせるがため(と、私は信じたい。)にあてがわれた、人物や背景や感情全てを無視したこのシーン。

一気に『性嫌悪を抱えた子供の傷の舐め合いの物語』に貶めてくれました。



ここまで虚仮にするからには詳しく説明しないとダメなので、見ていきます。

「この病気のせいで、誰にも繋がれない」

はぁ…全て病気のせいですか。病気がなければこうはなっていないと言いたいのでしょうか。その病気のせいで今があって、眼の前に更紗がいるのにやっぱり見えてないってことでしょうか。病気のせいで更紗とも繋がっていないと認識しているということでしょうか。え? 逆説的に、僕が繋がれるのは更紗だけだよ、って言いたかった? ありえませんね、このシチュエーションでは。仮にそうだったとしても、それはそれでクズな振る舞いですね。

さて、次に注目したいのは「誰にも繋がれない」の部分です。繋がれないという意味を、肉体的に繋がれないというのと精神的に繋がれないという2つの意味でとらえることは可能ですので、どちらも見ていきます。

①精神的な意味で繋がれない
そもそもとしてこの物語は、肉体的な性愛にとらわれない愛の形というものに着眼することも可能で、そういう風に見ていた人も多いのではないかと思います。にもかかわらず、ここで「(精神的に)繋がれない」と言い放つ。そういったプラトニックな関係というのを一刀両断してしまっています。今までの積み重ねごと真っ二つです。というか、繋がれないと思い込んでいるのは文自身だけです。今までの更紗やリカとかの会話はなんでしょう、別人格でしょうか。

②肉体的な意味で繋がれない
まあ、それは仕方ないかもしれません。(映倫的に局部を見せられないからという演出上の問題とはいえ)暗がりの中で更紗が理解できるほどに明らかな器質的な異常が見てとれるほどなんですもんね。それがゆえに、歪んでしまうのは理解できなくはないです。でもさ、肉体的に繋がらなくても精神的に繋がれることは、文自身は15年前に予感できていたはずでしょう?だからずっと思い続けていたんでしょう?その思いも全否定するのかな。いやまあ全否定してもいいけど、そこまで思い詰めるなら、医学的な手法でどうとでもなることなんですよね。なんでしないんでしょうね。いやまあ、それもコンプレックスが強くて出来ないという可能性もなくはないからいいんだけど。
(実際に病気やその他の事情で性交渉が不能な方からすれば、この言葉の「肉体的に繋がれないから精神的にも繋がれない」という論理に、私以上に怒ると思うのだけれど、どうだろう。)

どちらの意味合いでも、これまで追ってきた文の言葉じゃないと思うのですよ。無理やりねじ込まれた感しかしないのです。興醒めです。だって最初からこういう男なんだとすれば、15年前に更紗を誘拐した動機というのが極めて下衆な理由となってしまい、更紗に手を出していなかったことやその他ほとんどの描写との整合性がとれなくなって空中分解してしまいます。

ともかく、このセリフを聞いて更紗が何を思ったのかさっぱり理解できません(だって幼稚な彼女にこんな意味不明な言動の文を受け止める器量があるようには思えません)が、とりあえず彼女は抱きしめに行きます。

これは、谷との比較のために文の病気を知っても抱きしめにいった更紗と解釈するべきなんでしょうが、あんな表現では、更紗が抱える性嫌悪の発現が見込まれない安全な対象だから抱きしめることが出来た、という穿った解釈も出来ます。二人の関係を美化したいのかもしれないけど、美しさのかけらもないです。子供のおままごとを見せられている気分です。

文はロリコンならロリコンのままでよかったし、作中の随所でロリコンじゃないのは視聴者的には明白なんだから、あの場でそんな説明いれる必要ないんですよね。それに、どんな状態の文であれ更紗は文が好きなままだったはずでしょう、だから更紗にとってもあんなシーン挟む必要なかった。これではただの感動ポルノです、しかも相当質の悪い。
(感動ポルノを世間は求めているというのなら、正解かもしれないですが。)


よく考えてみてほしいのですが、このシーンがなくても話は意味が通ります。悲しみに打ちひしがれ黙りこくる文をそっと更紗が抱きしめるだけで成立します。それに、リカが警察に連行された後の展開です。その光景に15年前がフラッシュバックしたのはわかりますが、それと「病気のせいで誰にも繋がれない」という発言をすることと何の関連性もありません。唐突です。仮に、「病気のせいでロリコンのフリをするしかなかったせいで誰とも繋がれない」という意味合いで言ったのだとすれば、それは文が自分自身と向き合って戦ってこなかったことを認めるだけの、ただの負け犬の戯れ言です。
「ほら、僕はこんなに可哀想な子犬なんだよ、慰めて」と同義です。この構図、亮の自傷行為と同じなんですよね。本来ならば対比させなくてはいけない文と亮の関係なのに、最後の最後で同質化してしまっています。しかも、気持ち悪さと諦めの悪さは亮を上回っています。なんというか、筋書きとして破綻していると私は感じました。元々ファンタジー色の強い設定ですからリアリティーはいりません、けれども筋書きやロジックだけはしっかりとしておかないとダメだと思うんですよ、私は。

それに、この病気のせい、病気が治っていないのは母親のせい、という展開を強調するためにあるような文と文の母親の絡みもいらないです。毒親育ちの可哀想な子を演出しているようにしか見えませんでした。ここの狙いも感動ポルノですかね。
(そこをねじ込むくらいなら、文のアパート下で亮と更紗の言い合いを目撃した谷が、更紗がカフェに着ていた客だと認識したシーンの説明不足を補って欲しかった。あの部分かなり無理がある展開ですし、更紗と谷の対比を視聴者任せにし過ぎです。私の感覚では、文の過去や諸々を知っていて話せない更紗が何も知らない谷に問い詰められるシーンがあるのが自然なんですがね……原作にあるかは知りませんが、少なくとも映画演出として稚拙としか言えません。)

この全裸シーンの必要性を頑張って擁護するなら、更紗の性嫌悪に対してのアンサーだったのかもしれませんが、そうであったとしてもあの描写だけでは、文が器質的に不能なのはわかりますが、そういう欲求があるのかどうかは定かではないので、それだけでいいのかと疑問が残ります。というか、性嫌悪に関しての共有は更紗と既に行っていたわけだし、やっぱりあのシーンは蛇足です。誰も得しない。



このシーンさえなければ、本当にいい作品だったと思います。特に最終カットの、二人で月を見上げながら手をつなぐシーンは最高です。救う/救われるじゃなくて、対等な意味に見えるあの手を繋ぐシーンは、今後の二人の流浪の中で確実に育まれていく愛というのを感じさせます。15年前の無知や世間知らずから来る短絡的な結論ではなく、色んなことを知ってなお誰かに分かって貰う必要はなく、二人だけが分かりあえればそれでいい、という二人だけの答えに行き着いた上で旅に出るのでしょう。その向かう旅路が幸せでも不幸でも、あるいは二人が別の道に辿ることになったとしても、きっと二人が納得の上でその選択をするのだろうという安心感があります。この物語に愛があるとすれば、この最終カットだけです。この最終カットのためだけに、ここまでの話があるべきでした。なのにその直前で、全てを破綻させたあのシーンが、心底残念でなりません。


文と亮、更紗と谷の対比について何度も言及してきていますが、ここについて反論があるかもしれません。でもこの物語は、二人だけが知る『真実』と社会を含めた他人が知っている『事実』の違いにフォーカスしているのですから(この『事実と真実』という言葉はチラリと原作の書評が見えた時に用いられていたので利用しました)、亮と谷はいわば社会全体の価値観の代弁者なわけです(嫌がらせしたり執拗に調べてネットに暴露したり手の平返ししたり(性)暴力をふるったりというのも全て社会全体が行っている愚行を表現)。それと対比させなくては物語の存在価値がありません、とまでは言い過ぎかもしれませんが、これをしなかったらトンデモ設定の勢いだけで中身がない一昔前のケータイ小説のような物語になってしまいます。一応そうはならずに、亮と谷(社会)とは決別して文と更紗は二人だけの世界に行くわけなのでやはり対比という観点は間違いではないと思っています。

本当に、どういう気持ちであのシーン入れたんだろう……というより、世間の目線ではあの場面に違和感を覚えないのだろうか……あぁつまり、私が流浪するべきということか?


以上、感想文というか論評(?)終わり。


最後に

原作読んでないのであれですが、書店員が選ぶ本屋大賞受賞作というのも私には悲しいですね。商業的には成功でしょうからきっとある意味で正解なんでしょう、売れれば勝ちという商業目線で見れば。

原作、映画ともにレビュー(5段階の星のアレ)では高評価なようですが、(作品に何を感じるのかは自由ではありますが、)果たして高評価をつけている人たちは自分が亮の目線になっているかもしれないということに気づいているのだろうか、と思いました。

きっと映画と原作の違いはあるのでしょうし、製作にあたって大人数が絡むと方向性なんて簡単に変わるものなので誰が悪いかとかはどうでもいいのですが、これが広く受け入れられる社会であるという評価には変わりないと思われるので、そりゃ文や更紗(と同じような境遇な人たち)も生きづらいわな、と思いました。


ここまで良い意味でも悪い意味でも感動した映画は久しぶりです。不快感は残る映画でしたが観てよかったと思います。


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