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写真講師という仕事

 こんにちは。noteではエッセイを書くぜ、ということでエッセイエッセイしたのを書こうと思います。

写真講師

 写真を教えるのが仕事の一部になってから、数年が経ちました。

 実は私、写真を習ったことがありません。
 文章を書くのも、しゃべるのも、教育を受けたどころかアドバイスを受けたことすらありません。好きにやらせてもらっているだけです。生徒さんたちには公然の事実であります。

 写真を教えたい、という人は世の中にちょいちょいいらっしゃるようでして、ほとんどの人は自分が楽しいと思っていることを世の中に広めたいんだ、というポジティブな気持ちで講師を目指されているようです。

 一部にはモロに情報商材屋さんがダシとして「誰でもプロカメラマンになれて年収何百万円!」みたいに使っていたりもするのですが、まあ賢い人ならそれが何を扱ったものであっても中身は一緒と気づかれると思いますから、高度に情報化された社会あるあるということで放っておくしかありません。つまりあれは写真教育とは全然関係がないというスタンスでいます。

写真を? 教える?

 写真を教える、と一言で表してみたところで、実はその中身は不安定なものです。実際に教えている私が言うのだから間違いありません。何を教えれば写真が上手くなるのか? という命題の前に、写真とは何か? がどーんと立ち上がってしまうからです。

 初心者のうちは、写真というよりもまずカメラを教えます。

 カメラを使わないと写真が撮れないという性質上、まずはカメラのことを最低限知ってもらわないと話が始まらないからですね。

 一定の人たちはそこで「意外とめんどくさいな」と脱落し、残りの人達が次の段階に進みます。そこは便宜上中級と呼ばれるところで、ここから写真について本格的に学び始めます。

 私にとって、写真とは三次元を機械を使って二次元化すること、その際に生じる自他の意識のコントロールです。

 まるで洗脳をするかのようでちょっと気味が悪いかもしれませんが、カメラの扱い方を覚えたあとは、人間が何を見てどう考え、それを見る人にどう提示するか、というのが話題の中心になってくるのです。
 そこでは、見る人がパッと写真を見たとき、どこに視点を落とし、どういう風な経路で画面を読み取るのか、というような分析が必要になってきます。

 ですから、撮る自分と同じくらい見る人の分析も大切です。むしろ中級の段階では、撮る自分の意識よりも、見る人にどう見てもらいたいのかを考えてあれこれテクニックを覚え、スキルを上達させていくのが良いかもしれません。これは人によるので一概にはいえないのですが。

 実際に写真講師として私がやっているのは、なんとなくカメラを構えてなんとなくシャッターを押しても撮れるのが写真なのですが、そこから進んで「被写体をどう考え、どこにカメラを置くのがセオリーか」というようなところから細かく分解して教えていきます。

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 初級の段階で数を撮ってきている人は、ここでセオリーをきちんと教えることで急激に伸びたりします。

 私が「感情を伝えるのにも、相手は人間なんだからきちんと順序だてた方が良いよね」というような、一定の技術を持っていた方が「ちゃんと」伝わりやすいよ、という教え方をするのは、私が商業写真を一定の期間やってきてからだという風に考えています。

 営業写真出身の講師が教える場合は、より感情面を重視した教え方になるんじゃないのかなあ、と勝手に思っていますが、どうなんでしょうね。

 私はカメラマンとして、家族写真やブライダルを撮る営業写真からプロ生活をスタートしたのですが、自分でライティングを覚えて商業写真にスイッチしまして、その際に勉強したことが講師となってから大きく助けになってくれています。

 一部の天才的な、感性優先で技術なぞ知らん! といって撮っても良い感じになって言いたいことが伝わっちゃう人に対しては、私のようなメカニカルを重視した教え方って必要ないと思うのですが、世の中わたしを含めほとんどが凡人ですから、私が人に自分の思ったことを伝えるための技術を習得した方法が助けになっている(と言ってもらえる)のは、結局私が凡人であり、かつ写真が好きで毎日どうにか上手いこと撮れるようにならんかな、とトレーニングを続けてきたおかげなんですよね。

講師業

 講師というお仕事は、現在ではちょっと情報商材屋さんも食い込んできておりますから、実際には役に立たないことを「気持ち良く伝えることができればOK」というスタイルの方も結構いらっしゃいます。

 つまり、悪い意味でのブロックバスタームービーのように、劇場を出た瞬間にもう「あれっ、何の映画を見ていたんだっけ?」と思い出せないのに、見ている間だけは気持ちが良い、というものもよくあります。

 講師業をやっていて思うのは、それではいけないということですね。

 その場、とのときで気持ち良いかどうかもそりゃ大事ですが、単に回答を投げるのではなく正しいトレーニングの方法を示すことで対象者が技術をみにつける道筋を見つけ、自分のものに出来、その技術を使って新たな取組をできるようにすること。

 これが技術を伝達する面白みですし、生徒さんが基礎技術を身に着けて「こんなことが出来るようになった」と見せてくれるのは何よりの楽しみです。

技術

 写真の技術をメインで教えているおかげで、技術というもののありかたについてより深く考えるようになりました。

 技術は人を変えます。
 人間が作った技術が、遡って扱う人間の人間性まで変えるんですね。写真でいうと、ものの見方が根本的に変わり、見るものの解像度が上がります。これはもう写真の技術を突き詰めていくと、そうならざるを得ないように出来ているのです。

 こうした部分は、いわゆるテクニック的な「このちょい技を使うと派手でウケてモテる」ような話ではなく、大変地味なものです。
 原理原則を教え、その後は「やるもやらないも勝手。反復練習を正しくやれば、そしてまともに反復練習が出来たんだとすれば、結果論として身についていることでしょう」というふうに投げ出すしかありません。

 現在はオンラインサロンという形で写真塾のようなものを運営しており、そこの会員の方は毎週毎週写真を撮ってきては掲示板に投げ、それに対して私が講評するという形を採っているので、頻繁に他人の目にさらされる機会を得ているわけですが、それも生徒さん自身が撮らないと始まりません。

 そしてそれに耐えられる人は、写真が一定以上に好きで、かつ自分を律することが出来る人なのです。商売上はもっとゆるく浅く広く、が鉄則なのですが、私も適当に撮った写真を商売のためと割り切って毎週毎週見たくありませんから、こればっかりはしょうがありません。

 逆に私がこのスタイルで良かったなと思えるのは、集まって下さる生徒の皆さんが実社会でも優秀な方たちなんだろうなと思える方ばかりなんですね。実にまともな方が集まって下さいます。おかげで連絡やなんかの手間がかからず、時間も金銭もたいへんローコストに運営させていただいています。

 結局のところ、講師サイドが何をメインで扱うのか、どういう人が対象になるのか、というのを明快に打ち出すことが大事なんだろうな、これはすべての芸事に通じるんではないかなという風に思う次第であります。

最後に

 最近カメラを買った、写真教室を探しているという方もいらっしゃると思います。

 そういった方におすすめしたいのは、講師の人が撮っている写真にピンと来るかどうかでまず絞って行くのが良いと思います。

 写真にピンと来ないんだけど講師の笑顔が爽やかだから、みたいな理由も直感を試すという意味ではOKだと思うのですが、技術を学びたいのであれば結果として撮られた写真が納得のいくものであり、その写真を導き出すに至った技術を学ぶというルートが一番合理的だと思うのです。

 もちろん、写真家はジャンルにもよりますが、しゃべるのがメインの仕事ではありません。ですから、素晴らしい写真を撮れる人であってもしゃべくりがダメで何を言っているか分からない、ということも起こり得ますし、たとえば物心つく前に初級の段階を終えてしまったような人の場合、記憶にないのでいま学ぼうとしている人たちの気持ちが全然わからなかったりします。

 たとえば私の場合、タッチタイピングを小学校低学年のうちに覚えてしまったもので、いまタッチタイピングを覚えたいという人にアドバイスするなら「やればええやん」で終わってしまうんですね。細かいことは覚えていないのでアドバイスしようがないのです。

 そういったことも起こりえますから、可能なら講師の教え方のサンプルを手に入れて、そこで判断されると良いでしょう。

 それではまた!

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